長引く経済不況に加え、パンデミックの襲来、隣国ロシアでの戦争、さらには政治の大混乱によって将来に希望を見い出せず


「このまま生きていてもつらいだけなんじゃ……」

と不安を抱える人が多い昨今ですが、そんな人たちとぜひとも共有したい、しなければならない出来事を経験しましたのでここに書かせていただきます。


先日、優秀な編集者のTさんが会社を辞めるということで送別会が開かれたのですが、話の流れで、
「これまで行った中でどの土地が良かったか」

を聞くことになったのですが、Tさんが開口一番


「長野県の松本です」


と答えました。

Tさんは数年前に休みが取れたとき、「松本に行こう」と思い立ちホテルも取らずにそのまま向かったらしいのですが、すごく良い旅になったというのです。
さらに送別会の場には偶然、松本出身の人もいて、

「松本は本当に素晴らしい場所ですよ」

「松本には温泉もありますから、今度の執筆合宿は松本でしたらいいじゃないですか」

という流れになり


「この土地には間違いなく何かあるぞ……」


と思い、松本に行くことにしたのです。


こうして、合宿仲間の後輩、大橋くんと新宿駅からあずさ号に2時間半ほど揺られ、松本に着いた僕たちは街を散策しはじめました。

ただ、確かに街にはお洒落なカフェもあり、ご飯もおいしかったのですが、正直、「ここは最高の土地だ!」と確信できるようなものはなく、いつもどおり宿にこもり仕事に没頭することにして、普通に日々は過ぎていきました。


そして、最終日。


仕事を終えた僕たちは合宿の打ち上げとして、

大橋くんが予約してくれた蕎麦(そば)居酒屋に向かいました。

その居酒屋もすごくご飯がおいしかったのですが、

(結局、松本にはTさんが絶賛するほどの良さは感じられなかったなぁ)

と思いながら食事をし、締めの料理として「とろろ蕎麦」を頼みました。

そして、とろろ蕎麦が運ばれてきたのですが、店員さんがこう言いました。


「とろろを先にざる蕎麦の上にかけてからお召し上がりくださいね~」


そのときは(変わった食べ方だなぁ)と思いながら、とろろがこぼれないか少し不安になりつつ、

器に入ったとろろをざる蕎麦の上に全部かけ、とろろと蕎麦に絡めてつゆにつけて食べたのですが、


しばらくすると、大橋くんが言いました。


「水野さん……大丈夫ですか?」



――気づいたとき、僕は、涙ぐんでいました。


とろろ蕎麦を食べながら泣いてしまったのです。


なぜか。


いや、実際に、このとろろ蕎麦は美味しかった。

信州だけあって蕎麦自体もすごくおいしかったですし、通常のとろろ蕎麦の食べ方より、蕎麦の上にとろろをかけた方がとろろを多く絡めることができ、美味しく感じられました。


ただ、この蕎麦の「美味しさ」が僕の感動に占めていた割合は、多く見積もって7%


では、残り93%は何かというと――


それをご理解いただくために、少し長くなるかもしれませんが、僕という人間――「水野」と「とろろ蕎麦」の関係をお伝えしなければなりません。


「水野」と「とろろ蕎麦」の関係を一言で表すとするなら、




「水野」 は 「とろろ蕎麦」 が 「好き」




ということになるでしょう。


ただ、古今東西の哲学者たちが指摘しているように、言葉というのはこの世界の特定の面を切り取ることしかできない不完全なのものであり、


水野はとろろ蕎麦が好き


という言葉では表現しきれない世界がそこにあるのです。


まず、僕は「食」というものに極めてこだわりのない人間です。

いや、こだわりがないというより、食との相性が極めて悪いと言った方がいいかもしれません。

僕は、緊張する場面では「口に入れた食事を吐くのではないか」と不安になり食べ物が食べられなくなる会食恐怖という症状があります。

たとえば、カウンター席だけの店(特に、席数が少ない店)に入ることができません。

なぜなら、目の前に料理を作った人がいるのに、万が一にも料理を吐こうものならすごく失礼になってしまう→それがプレッシャーになりよけいに食べられなくなる

という負のループに陥り不安が雪だるま式に大きくなってしまうからです。

また、僕は幼いころから「人に認められたい」という欲求が強く、食事をする時間が無駄に感じられて仕方がなかったという面もあります。

これは、ミヒャエル・エンデの「モモ」に出てくる「時間泥棒」に完全に時間を奪われてしまっている状態に他ならないのですが、普段の食事で何を食べようが人からの評価は変わらないので、ゆっくり食事をする時間があるならその分、評価されるための努力に費やしたいと考えていました。

ただ、やはり僕も人間である以上、

原始的な脳の「美味しいものを食べたい」という欲求は存在しており、その欲と大脳新皮質的な部分がせめぎ合った結果、

「味や食感が好き」で、かつ「出てくるのに時間がかからない」「料理人の顔色をうかがう必要がない」などのすべての条件を満たしたのが


「とろろ蕎麦」


だったのです。

だから「とろろ蕎麦が好き」という一言では言い表せない「好き」がそこにあるというか、

北海道から沖縄までとろろ蕎麦を食べ歩いたわけではありませんが、もう、毎日のようにとろろ蕎麦を食べており

これまでの人生で一番食べた食材はお米などになるでしょうけど、

海鮮丼とか、ナポリタンとか、からあげ定食とか、料理のくくりで考えた場合



ぶっちぎりで「とろろ蕎麦」であり、

おそらく、今、地球上にいる45歳の人間で「とろろ蕎麦」を食べた回数で言ったら10本の指に入ると思います。

死ぬ前に食べたい最後の食事は言うまでもなくとろろ蕎麦ですし、子どもとしりとりをしたら最後の文字が「と」で終わる場合は間髪入れず「とろろ蕎麦!」ですし、子どもから「とろろ蕎麦ってなあに?」と聞かれたら諭す口調で「この世の中の食べ物には2種類しかないんだよ。とろろ蕎麦と、それ以外だ」です。


そんな僕が、



そんな形でとろろ蕎麦との関係を築いてきた僕が、



とろろを先にざる蕎麦にかけるということを



一度も試したことがなかったのです。



たったの、一度もです。



こういうことを言うと、「ちょっとした発想の転換があればできそうじゃん」とか言う人もいるかもしれないのですが、


そういう次元の話じゃないんだわ。


「発想」という点に関して言えば、自分で言うのも恐縮ですが、企画に関わる仕事をしている僕は固定観念をいかに崩すかを日々考えて生きているわけです。

にもかかわらず、この「とろろをざるに先にかける」という発想は、僕の人生の中でたったの一度も、頭をよぎることすらしなかった。


完全なる「盲点」だったのです。


なぜ、「とろろ先がけ」が「盲点」になっていたのか、この現象に説明を加えることはできるでしょう。

たとえば、とろろそばを最初に食べて感動した幼少期だったので固定観念が強く沁みつくことになっただとか、とろろそばの存在が日常的になりすぎて思いつくことができなかっただとか、


ただ、現実として、僕は、45年間、たったの一度も、とろろをざるにかけようと思わなかった。


それが、松本の地において、蕎麦居酒屋で言われたのです。


「とろろを先にざる蕎麦にかけてくださいね~」


そして、


そうした方が、


とろろ蕎麦は美味しかったのです!



これが泣かずにいられましょうか。



何十年もの間、とろろ蕎麦はいつも僕の隣にいた。「隣のトロロ」を誰よりも愛してきた僕はとろろ蕎麦に対してベストの姿勢で向き合えてきたと思っていた。


でも、それは誤りだった。


誤っていたのだけれど――。


その誤りは、僕の才能や能力、努力とはまったく関係ない、手を伸ばしても決して届くことのない、別次元の「何か」によって正されたのだ。


正してくれたのは、居酒屋の店員さんだろうか? 松本を教えてくれたTさんか? 居酒屋を予約してくれた大橋くんか?


言うなれば、そのすべてであり、同時にどれでもない。


それは、時代や人によって呼び方は変わるが、








福音





他力


と呼ばれるものであり、


人の力では決して及ぶことのない、高次元の「何か」なのだ。



旧約聖書の「ヨブ記」では、敬虔な神の信者であるヨブの信仰心を試すため、神・ヤハウェは悪魔と取引をした。

ヨブの家族と財産を奪い、病魔に襲わせ、さらには友人たちに「お前に災難が起きるのは信仰心が足りないからだ」と鞭打たせた。

そして最後、ボロボロの状態になったヨブはヤハウェと対面し、こうたずねる。

「神は、どうして私にこんなひどい仕打ちをするのですか?」

するとヤハウェは答えるのだ。

「お前は、この宇宙のすべての理(ことわり)を知っているわけではないだろう」

そしてその後、唐突に、ヨブはヤハウェによって災難が起きる以前の状態よりも大きな恵みを与えられることになるのだが、

――人類最古の知恵文学と呼ばれる「ヨブ記」を最初に読んだとき、このやりとりはまったく意味が分からなかった。ヤハウェの説明に一切納得がいかず、怒りすら覚えた。
 

 

でも、松本でとろろ蕎麦を食べた、今なら分かる。


この世界には、人間の能力や理屈、人間が考える「原因と結果」では決してたどりつけない「何か」があり、


その「何か」は、いつも、自分にとって都合の良いものとして現れるわけではないけれど、


その「何か」の存在を確信するということは、


今は苦しいかもしれないが、


先行き不透明で、自分の将来に大きな不安を感じているかもしれないが――


苦しみの先に、またその先に、自分の力では決してたどりつけない「良きこと」が待っている可能性を確信することに他ならない。


そして、僕ははっきりと、感じたのだ。


ざるにかけたとろろを蕎麦と絡めてつゆに入れ、口に含んで飲み込んだとき、


その美味しさの向こう側に、「何か」が存在していることを。


だって、


俺ですら――ここでは、あえて「俺ですら」という言葉を使わせていただきたい――

 

 

俺ですら、

 


朝、目が覚めた瞬間から、何か新しいことはないか、今までと違った楽しみ方はないか、そんなことを四六時中、365日、何十年も、ずっとずっとずっと考え続けてきた俺ですら、俺をもってしても、俺にもかかわらず、御俺でも、




とろろを先にざる蕎麦にかけることを思いつかなかったんだ!!!!!!


とろろを先にざる蕎麦にかけることを思いつかなかったんだよ!!!!!!




だから、俺は思った。



松本の地で、思ったんだ。



生きよう、と。



生き続けようと。



生きていけば、生きていさえすれば、



自分の才能や努力とはまったく関係ないところから、



この世界の隠された、とてつもない素晴らしさが



ある日、突然、



目の前に差し出されるかもしれないのだから――。




というわけで、松本駅前の蕎麦居酒屋「蔵のむこう」様、






お店に飾るサイン色紙を勝手に作らせていただきました(4パターン作りました)。ご希望であればご郵送しますのでこちらにご連絡ください。


また、今回は、ブログの読者プレゼントとして

 

色紙の書き損じを抽選でお送りしますので希望のアルファベットを明記の上、こちらにご連絡ください。特にCは、「そば2.0」を「ぞば2.0」と書いてしまい、いったんは濁点を修正液で消すものの「これでは読者様にお出しできない」と近所の文房具屋で色紙を再度購入し書き直すという水野のブログに対する真摯な姿勢が垣間見れる一品であり希望が殺到すると予想されますので確実に手に入れたい方はA(蔵を平仮名で書いてしまった)かB(「様」の入るスペースがない)をお勧めします。

※読者プレゼントは締め切りました。多数のご応募ありがとうございました。