先日、twitterで↓こんなつぶやきをしたのですが
天才は存在しないという言葉はまったくの真実で、というのも、赤ちゃんは基本何もできないからです。つまり、天才に見える人も生活の中で「自然に訓練」してきたにすぎません。訓練を無意識にすれば天才、意識してすれば努力家となります。
この文章を書いたとき、ふと、僕は昔
「凡人が天才に勝つ方法を見つけて、それを本にする」
を最大の夢にしていて、タイトルも「天才の倒し方」にしようと思っていて、自分のモチベーションをあげるために「天才の倒し方」で商標登録したほどなのにも関わらず、
そんな自分の最大の夢を、「完全に忘れていた」のでした。
どうしてそんなことになってしまったのかということですが、
その前に、まず、そもそも「天才の倒し方」を見つけることができたのか? という疑問を持つ人もいると思うので先に言っておくと
天才の倒し方を見つけることはできました。
というより、天才を倒すことは予想以上に容易であり、というか、彼ら(天才)はかなり脆弱な存在である、ということが分かりました。
では、どうして天才の倒し方を見つけたのに、その方法を出版しないのか、そもそも出版することすら忘れていたのかということですが、
その理由は
世の中のほとんどの人が『天才の倒し方』を必要としていないことに気づいたからです。
僕は昔、世の中の多くの人は「生まれつきの才能」というものに対して悔しい思いをしており、そのノウハウを見つけることこそが自分の人生の使命だと感じていて、死に物狂いでその方法を探し出し
「よっしゃぁみんな、天才の倒し方を見つけたぞー!」
と振り向いたとき、そこには誰もいなかったのでした。
それは、たとえば本のサイン会をしていたときに、感じました。
本を出した初期の頃、サイン会をするとき「自分みたいな凡人が何をサイン会なんて気取ったことをしてやがるんだ」という思いがあって、
さらに僕が書いているのは、ハウツー本のジャンルであり、ハウツー本とは、先天的に恵まれた才能を持つ人を倒すための道筋を伝える本であり
「読者は天才を倒すために一緒に頑張っている同志だ」という思いがあったので、著者という立場にならず、できるだけ低い感じになりたくてサイン会も薄汚い格好でやってたんですが、そのときお客さんが、僕に会うと「がっかりしてる感じ」があったのです。
やはり、お客さんは、遠くからわざわざ会いに行った相手が「自分と同じレベルの人間である」と分かることは嫌だと思うようでした。
そのとき、
「ああ、自分の夢は『天才の倒し方』を見つけて、結果を出しながらもいかに自分がしょぼい人間であるかを言うことで多くの人に希望を与えることになると思っていたのに、現実ではそんなことは誰も求めていなくて、天才然とした方がサービスになるんだなぁ」
と気づき、それ以来できるだけ綺麗な格好をして、すました顔でサイン会をするようになりました。すると僕に会っただけで泣いてくれる方もいらっしゃったりして
(やっぱりこっちが正しいんだなぁ)
と思うようになりました。
また、テレビや雑誌のインタビューも同様で、初期のころは「僕がいかに才能がないか」という話をするようにしていたのですが、そんな話をすればするほど聞き手の気分が沈んでいくことが分かったので、そういう話はしないようにしていきました。
やはり、お客さんは、自分が好きな対象に対して「超然」としたものを求めていると思います。
「この人、すげぇ!自分には真似できない!」と思い「たい」のです。
また、僕はこれまで色々な人に、仕事のやり方を伝えてきましたが、結局のところ、僕がそのことを伝える伝えないに関わらず、成長する人は成長していきました。
そもそも、「方法」を直接聞かなくても、世の中には優れた人が残した「作品」や「仕事」があり、やる気のある人にとっては、それが最高の教材なのです。
マイケルジャクソンに、直接ダンスのやり方を習わなくても、「踊っているマイケルジャクソン」を見て、(どうしたらこんな動きができるんだ?)と考え、真似して、試行錯誤することが最高の教育であり、これはマイケル・ジャクソン自身の成長の過程もそうでした。彼はまだメインステージで踊れなかったころ、舞台袖でジェームス・ブラウンのパフォーマンスを徹底的に真似しながら学んでいったのです。
(あ、ちなみに、この話をするときよく「努力することができるのも才能」という話をする人がいるのですが、この言葉は矛盾していて、そもそも天才とは努力では到達できないことを意味する言葉なので、「努力できない」のは才能ではなく「そこまでして結果を出したくない」ということであり、それはそれで良いんじゃないかと思います。ただ「努力する」という行為と「才能(天才)」はイコールになり得ません。努力とはあくまで「選択可能である」ことを指します)。
――話を戻しましょう。
多くの人にとって「天才」が存在してもらいたいものである以上、「天才の倒し方」というノウハウをまとめて文章にすることには意味はほとんどないし、
もし本当に天才の倒し方を見つけたい人は、その思いが本気なのであれば、必ず人生のどこかのタイミングで見つけることになるでしょう。
そして、それは非常にシンプルな方法であり、過去、大きな業績を残してきた多くの人がその方法を使っていたのであり、
そもそも「天才」という概念は、世間の人の「願望」が作り出したある種の「幻影」であることに気づくでしょう。
僕はこれまで、数多くの天才と一緒に仕事をする機会に恵まれ、彼らの持つ才能に圧倒されると同時に、仕事をする過程を通じて
「天才とはなんて弱い存在なのだろう」
と感じてきました。
その弱さとは、一言で言ってしまえば、
「改良できない」
ことです。
これをさらに詳しく言うのであれば
「お客さんのために改良することができない」
のです。
ちなみに、ここで言う「天才」と、多くの人が考える「天才」とは少し意味が違います。
多くの人が「天才」だと思っている人の成果物も、実は単に「改良」を重ねた結果だけかもしれないからです。ただ、改良を重ねる過程を見ることはできないので
いきなり完成品を出され、その素晴らしさを見せつけられたら「この人は天才だ」となります。しかし、それは単なる努力にすぎません。
僕がここで使っている「天才」の定義は
瞬時に、素晴らしい結果にたどり着ける能力
のことです。
つまり、「改良せずに結果を出せる」ことが天才であり、
しかし、瞬間的に95点に到達できたとしても、それを改良できなければ、最終的に、「100点まで改良し続ける」人間に負けるのです。
だから、「天才」は脆弱なのです。
カニを改良した「カニカマ」の味に親しんだ人は、本物のカニを食べたとき違和感を感じ、「カニカマ」の方がおいしく感じるという話がありますが、カニカマは、お客さんが好む味にひたすら改良を重ねることができるので、成長しない本物の「カニ」が最終的に負けることになります。
(ただ、この場合、人間は『本物』を求めるという、『味』とは違う欲求を持っていますので、本物のカニの方が良いと感じる人もいるでしょう。それは、たとえば、「ゴッホの絵が素晴らしくて、ディズニーの絵は子どもだましだ」と感じる人に近いかもしれません。そして、確かに「天才(天然)というサービス」が存在することも確かです。それは「改良しないことに価値を感じる」人であり、「視線がお客さんに向いていない」ことにサービスと感じる人ということです。しかし、たとえばアートのジャンルにおいて、あえて「客に理解できない部分を作る」人もいるので、その意味においても「本当の天才」は分が悪い戦いになるでしょう。それは、ギャンブルにおける、プレイヤーと胴元ほどの違いがあります。
先ほどのカニカマの例で言えば、お客さんに「本物のカニ」を求めるニーズがあるとすれば、天然のカニの餌と環境から操作して「最強のカニカマと同じ味のカニ」を作り、さらにそのカニは「人工のカニ」であることを隠すことでお客さんにとって最強のサービスとなります。また、その意味でも、「天才の倒し方」のノウハウを披露することは多くのお客さんにとってサービスにならないということになります)
もちろん、ある、一部のジャンルでは、確かに「決して倒せない天才」もいるでしょう。
たとえば、100m走のウサイン・ボルトは天才であり、100m走ではどれだけ努力しても、たぶんボルトにはかなわないでしょう。
ただ、そもそも「天才を倒したい」と考えるきっかけは「他者からの評価」であるとするなら、
100m走の選手を終えた後も戦いは続くでしょう。「走る」という行為を通して他者に様々なサービスを生み出していく、という戦いが始まれば
そして、その人が真に「天才を倒したい」と考えるのであれば、最終的な結果として(他者の評価や報酬などで)ボルトには圧勝することになります。
そして、「天才の倒し方」を真に求める人は、「天才とは脆弱である」という隠された真実を知ることになり、
と同時に、「消費者は、天才に存在してもらいたがっている」と気づくことになります。
こうして、僕の「天才の倒し方を見つけて本にする」という最大の夢は失われていくことになりました。
僕の過去を知る人であれば、僕はあくまで「学校のクラスの隅っこにいた普通のやつ」に過ぎませんが、そのことを口にすることは誰も求めていないのです。
(そして付け加えるならば、こうした文章を書くことも、自分が天才的な結果を出していることを前提にしてしまっており、そのことに反論したくなる人もたくさんいるでしょう。
その点でも「天才の倒し方」は多くのお客さんが求めている言葉ではありません)
それなのに、なぜ今、こんな話をしようと思い立ったかと言いますと、
「天才の倒し方」は多くの人にとってサービスにならないのですが、
しかし、ごく少数の人にとってはどうしても知りたい情報であり――というか、過去の自分がそうだったからです。
「天才の倒し方」を見つけたかったときの自分は、喉から手が出るほどそのノウハウを求めており、
その理由は、自分に自信がなかったからです。
自分が仕事で結果を出せると思ってないので、天才の成果物から学ぼうにも、
(こんなものが自分に作れるわけがないじゃないか……)
と不安になって一歩も前に進むことができないのです。だから僕が本質的に求めていたのは、「天才の倒し方の具体的なノウハウ」という装いをした「希望」だったのでした。
そんな過去の自分(もしくはそれに近い人)に対して、天才の倒し方を伝えるのは、ある意味で義務だと思ったので
今回、書いておこうと思ったのです。
それでは「天才の倒し方」をお伝えしたいのですが、
それは一言で言うと
「段取りの徹底」
です。
不安で思考が縛られていたときはこのシンプルな法則に気づかなかったのですが、これは、天才の特徴を考えてみれば必然的にたどり着く答えであり、
というのも、先ほど定義したとおり、天才とは「瞬時に、結果にたどり着く能力」だからです。
つまり、天才の持つ能力とは
「プロセス(段取り)を飛ばせる」
ことに他なりません。
「いきなり走って、早い」
「いきなり歌って、うまい」
「いきなりしゃべって、面白い」
普通の人が一歩一歩進んで行くところを、いきなりゴールまで行くことができる、それが天才です。
しかし、「長所は同時に短所になる」――天才の弱点はまさにそこにあります。
彼らは、「段取りを飛ばせる」という能力に足を引っ張られ、改良ができないのです。
では、どうすれば天才を超えられるか。
それは、天才が飛ばしてしまう段取りを徹底的に行うということです。
その段取りのポイントはたくさんありますが、その中で最も重要なのは
「できるだけ完成品に近い状態を作り、疑う」
ことです。
とにかく完成品に近い状態――お客さんがそれを「良い」か「悪い」かを判断できる状態にもっていき、お客さんの正しい意見集め、精査し、改良し、完璧に近づける、ということです。
これはいわゆる「マーケティング」とは全く異なるものです。
世の中で考えられているマーケティングとは「お客さんに欲しい物をきいて、お客さんがこれだと言ったからこれを作ろう」という、ある意味で「言い訳」を集めていると言えます。
しかしお客さんは、何が欲しいのは自分で言葉にすることはできません。
ただ、お客さんは成果物に対して「判断」はできるのです。
つまり、完成品に近い状態であれば
○ か ×
はつけられる。
そしてそれ以上のことはできない。
では、×をどうやって○にするのか。
それを徹底的に、試行錯誤するのです。
それをやっているのが、アニメーションスタジオのピクサーであり、スターバックスが、少年ジャンプが、ユニクロがやっていることであり、過去の松下が、HONDAが、SONYがやってきたことです。TOYOTAのカンバンシステム「いつでもだれでも作品を疑って良い、疑ったなら検証する」でにも共通するものがあります。そしてTOYOTAのカンバンシステムを取り入れたのがピクサーです。また、組織だけではなく個人においても、ウォルト・ディズニーが、チャップリンがやっていたことであり、全盛時の黒澤明が脚本家を3人・4人体制を敷いていたのも近いものがあるかもしれません(ただ、後期の黒澤は一人で脚本を書き、段取りを飛ばす「天才的手法」に変わっていくことになりました)
また、それ以外にも存在する、様々な段取り
「ベンチマークを見つける」
「似た商品の課題を明確にする」
「反対意見を一度受け入れ、検証する」
「前回の成功の方程式を踏襲していないか検証する」
「自分の伝えたいメッセージとお客さんの求めていることの接点をコンセプトとする」
「一度決めたコンセプトを、途中で疑う」etc……
これらの段取りを徹底するのです。
これは、極めて苦しい作業になりますが、それをやらない(やれない)から、天才は脆弱なのです。
つまりは、「やればできる」という言葉は、真実であり、
才能とは「選択」の問題なのでした。
これは気休めの言葉でも、善意のウソでもなく、
誰もが、何かのジャンルの天才になることができます。
これらの苦しみを、引き受ける「覚悟」さえ持つことができれば。
この言葉に対して、反論する人もいるでしょう。
そして反論したくなる理由は、やはり、その人にとって「天才は存在してもらいたい」からです。
「誰もが、何かのジャンルの天才になることができる」――この真実は、天才を倒す道を選んだ人にしか体感できません。
クラスの隅っこにいた普通の男である僕は、高校生のとき「この人の面白さには絶対に勝てない」と思っていた人が4人いました。
それから10年後、その4人の内の一人が結婚することになり、結婚式で高校で一番面白かった4人が一堂に会することになりました。
その結婚式の余興でそれぞれがマイクを持って場を盛り上げたのですが、圧倒的な笑いを取ったのは僕一人でした。
(やった、やっと僕は彼らに勝った……!)
このときの感動をクラスメイトの一人に涙ながらに語ったのですが、彼はぽつりとこう言いました。
「お前、まだ『面白い』とか『面白くない』とかそんなこと気にしてたの?」
――ちなみに、この道を選ばない人がいても全く問題はありません。生産者を生かしているのは消費者であり、それは社会における単なる「役割」にすぎません。
ただ、個人的には、天才を倒す道を行く人が、一人でも多く現れることを願います。
それは、もちろん、消費者としてその人の成果物を味わいたいという気持ちもありますが、それ以上に、
「ああ、この人はお客さんのためにとてつもない改良を重ねてきたんだなぁ」という感動は
この道を行く者だけが感じ取れる、最高の喜びだからです。
天才は存在しないという言葉はまったくの真実で、というのも、赤ちゃんは基本何もできないからです。つまり、天才に見える人も生活の中で「自然に訓練」してきたにすぎません。訓練を無意識にすれば天才、意識してすれば努力家となります。
この文章を書いたとき、ふと、僕は昔
「凡人が天才に勝つ方法を見つけて、それを本にする」
を最大の夢にしていて、タイトルも「天才の倒し方」にしようと思っていて、自分のモチベーションをあげるために「天才の倒し方」で商標登録したほどなのにも関わらず、
そんな自分の最大の夢を、「完全に忘れていた」のでした。
どうしてそんなことになってしまったのかということですが、
その前に、まず、そもそも「天才の倒し方」を見つけることができたのか? という疑問を持つ人もいると思うので先に言っておくと
天才の倒し方を見つけることはできました。
というより、天才を倒すことは予想以上に容易であり、というか、彼ら(天才)はかなり脆弱な存在である、ということが分かりました。
では、どうして天才の倒し方を見つけたのに、その方法を出版しないのか、そもそも出版することすら忘れていたのかということですが、
その理由は
世の中のほとんどの人が『天才の倒し方』を必要としていないことに気づいたからです。
僕は昔、世の中の多くの人は「生まれつきの才能」というものに対して悔しい思いをしており、そのノウハウを見つけることこそが自分の人生の使命だと感じていて、死に物狂いでその方法を探し出し
「よっしゃぁみんな、天才の倒し方を見つけたぞー!」
と振り向いたとき、そこには誰もいなかったのでした。
それは、たとえば本のサイン会をしていたときに、感じました。
本を出した初期の頃、サイン会をするとき「自分みたいな凡人が何をサイン会なんて気取ったことをしてやがるんだ」という思いがあって、
さらに僕が書いているのは、ハウツー本のジャンルであり、ハウツー本とは、先天的に恵まれた才能を持つ人を倒すための道筋を伝える本であり
「読者は天才を倒すために一緒に頑張っている同志だ」という思いがあったので、著者という立場にならず、できるだけ低い感じになりたくてサイン会も薄汚い格好でやってたんですが、そのときお客さんが、僕に会うと「がっかりしてる感じ」があったのです。
やはり、お客さんは、遠くからわざわざ会いに行った相手が「自分と同じレベルの人間である」と分かることは嫌だと思うようでした。
そのとき、
「ああ、自分の夢は『天才の倒し方』を見つけて、結果を出しながらもいかに自分がしょぼい人間であるかを言うことで多くの人に希望を与えることになると思っていたのに、現実ではそんなことは誰も求めていなくて、天才然とした方がサービスになるんだなぁ」
と気づき、それ以来できるだけ綺麗な格好をして、すました顔でサイン会をするようになりました。すると僕に会っただけで泣いてくれる方もいらっしゃったりして
(やっぱりこっちが正しいんだなぁ)
と思うようになりました。
また、テレビや雑誌のインタビューも同様で、初期のころは「僕がいかに才能がないか」という話をするようにしていたのですが、そんな話をすればするほど聞き手の気分が沈んでいくことが分かったので、そういう話はしないようにしていきました。
やはり、お客さんは、自分が好きな対象に対して「超然」としたものを求めていると思います。
「この人、すげぇ!自分には真似できない!」と思い「たい」のです。
また、僕はこれまで色々な人に、仕事のやり方を伝えてきましたが、結局のところ、僕がそのことを伝える伝えないに関わらず、成長する人は成長していきました。
そもそも、「方法」を直接聞かなくても、世の中には優れた人が残した「作品」や「仕事」があり、やる気のある人にとっては、それが最高の教材なのです。
マイケルジャクソンに、直接ダンスのやり方を習わなくても、「踊っているマイケルジャクソン」を見て、(どうしたらこんな動きができるんだ?)と考え、真似して、試行錯誤することが最高の教育であり、これはマイケル・ジャクソン自身の成長の過程もそうでした。彼はまだメインステージで踊れなかったころ、舞台袖でジェームス・ブラウンのパフォーマンスを徹底的に真似しながら学んでいったのです。
(あ、ちなみに、この話をするときよく「努力することができるのも才能」という話をする人がいるのですが、この言葉は矛盾していて、そもそも天才とは努力では到達できないことを意味する言葉なので、「努力できない」のは才能ではなく「そこまでして結果を出したくない」ということであり、それはそれで良いんじゃないかと思います。ただ「努力する」という行為と「才能(天才)」はイコールになり得ません。努力とはあくまで「選択可能である」ことを指します)。
――話を戻しましょう。
多くの人にとって「天才」が存在してもらいたいものである以上、「天才の倒し方」というノウハウをまとめて文章にすることには意味はほとんどないし、
もし本当に天才の倒し方を見つけたい人は、その思いが本気なのであれば、必ず人生のどこかのタイミングで見つけることになるでしょう。
そして、それは非常にシンプルな方法であり、過去、大きな業績を残してきた多くの人がその方法を使っていたのであり、
そもそも「天才」という概念は、世間の人の「願望」が作り出したある種の「幻影」であることに気づくでしょう。
僕はこれまで、数多くの天才と一緒に仕事をする機会に恵まれ、彼らの持つ才能に圧倒されると同時に、仕事をする過程を通じて
「天才とはなんて弱い存在なのだろう」
と感じてきました。
その弱さとは、一言で言ってしまえば、
「改良できない」
ことです。
これをさらに詳しく言うのであれば
「お客さんのために改良することができない」
のです。
ちなみに、ここで言う「天才」と、多くの人が考える「天才」とは少し意味が違います。
多くの人が「天才」だと思っている人の成果物も、実は単に「改良」を重ねた結果だけかもしれないからです。ただ、改良を重ねる過程を見ることはできないので
いきなり完成品を出され、その素晴らしさを見せつけられたら「この人は天才だ」となります。しかし、それは単なる努力にすぎません。
僕がここで使っている「天才」の定義は
瞬時に、素晴らしい結果にたどり着ける能力
のことです。
つまり、「改良せずに結果を出せる」ことが天才であり、
しかし、瞬間的に95点に到達できたとしても、それを改良できなければ、最終的に、「100点まで改良し続ける」人間に負けるのです。
だから、「天才」は脆弱なのです。
カニを改良した「カニカマ」の味に親しんだ人は、本物のカニを食べたとき違和感を感じ、「カニカマ」の方がおいしく感じるという話がありますが、カニカマは、お客さんが好む味にひたすら改良を重ねることができるので、成長しない本物の「カニ」が最終的に負けることになります。
(ただ、この場合、人間は『本物』を求めるという、『味』とは違う欲求を持っていますので、本物のカニの方が良いと感じる人もいるでしょう。それは、たとえば、「ゴッホの絵が素晴らしくて、ディズニーの絵は子どもだましだ」と感じる人に近いかもしれません。そして、確かに「天才(天然)というサービス」が存在することも確かです。それは「改良しないことに価値を感じる」人であり、「視線がお客さんに向いていない」ことにサービスと感じる人ということです。しかし、たとえばアートのジャンルにおいて、あえて「客に理解できない部分を作る」人もいるので、その意味においても「本当の天才」は分が悪い戦いになるでしょう。それは、ギャンブルにおける、プレイヤーと胴元ほどの違いがあります。
先ほどのカニカマの例で言えば、お客さんに「本物のカニ」を求めるニーズがあるとすれば、天然のカニの餌と環境から操作して「最強のカニカマと同じ味のカニ」を作り、さらにそのカニは「人工のカニ」であることを隠すことでお客さんにとって最強のサービスとなります。また、その意味でも、「天才の倒し方」のノウハウを披露することは多くのお客さんにとってサービスにならないということになります)
もちろん、ある、一部のジャンルでは、確かに「決して倒せない天才」もいるでしょう。
たとえば、100m走のウサイン・ボルトは天才であり、100m走ではどれだけ努力しても、たぶんボルトにはかなわないでしょう。
ただ、そもそも「天才を倒したい」と考えるきっかけは「他者からの評価」であるとするなら、
100m走の選手を終えた後も戦いは続くでしょう。「走る」という行為を通して他者に様々なサービスを生み出していく、という戦いが始まれば
そして、その人が真に「天才を倒したい」と考えるのであれば、最終的な結果として(他者の評価や報酬などで)ボルトには圧勝することになります。
そして、「天才の倒し方」を真に求める人は、「天才とは脆弱である」という隠された真実を知ることになり、
と同時に、「消費者は、天才に存在してもらいたがっている」と気づくことになります。
こうして、僕の「天才の倒し方を見つけて本にする」という最大の夢は失われていくことになりました。
僕の過去を知る人であれば、僕はあくまで「学校のクラスの隅っこにいた普通のやつ」に過ぎませんが、そのことを口にすることは誰も求めていないのです。
(そして付け加えるならば、こうした文章を書くことも、自分が天才的な結果を出していることを前提にしてしまっており、そのことに反論したくなる人もたくさんいるでしょう。
その点でも「天才の倒し方」は多くのお客さんが求めている言葉ではありません)
それなのに、なぜ今、こんな話をしようと思い立ったかと言いますと、
「天才の倒し方」は多くの人にとってサービスにならないのですが、
しかし、ごく少数の人にとってはどうしても知りたい情報であり――というか、過去の自分がそうだったからです。
「天才の倒し方」を見つけたかったときの自分は、喉から手が出るほどそのノウハウを求めており、
その理由は、自分に自信がなかったからです。
自分が仕事で結果を出せると思ってないので、天才の成果物から学ぼうにも、
(こんなものが自分に作れるわけがないじゃないか……)
と不安になって一歩も前に進むことができないのです。だから僕が本質的に求めていたのは、「天才の倒し方の具体的なノウハウ」という装いをした「希望」だったのでした。
そんな過去の自分(もしくはそれに近い人)に対して、天才の倒し方を伝えるのは、ある意味で義務だと思ったので
今回、書いておこうと思ったのです。
それでは「天才の倒し方」をお伝えしたいのですが、
それは一言で言うと
「段取りの徹底」
です。
不安で思考が縛られていたときはこのシンプルな法則に気づかなかったのですが、これは、天才の特徴を考えてみれば必然的にたどり着く答えであり、
というのも、先ほど定義したとおり、天才とは「瞬時に、結果にたどり着く能力」だからです。
つまり、天才の持つ能力とは
「プロセス(段取り)を飛ばせる」
ことに他なりません。
「いきなり走って、早い」
「いきなり歌って、うまい」
「いきなりしゃべって、面白い」
普通の人が一歩一歩進んで行くところを、いきなりゴールまで行くことができる、それが天才です。
しかし、「長所は同時に短所になる」――天才の弱点はまさにそこにあります。
彼らは、「段取りを飛ばせる」という能力に足を引っ張られ、改良ができないのです。
では、どうすれば天才を超えられるか。
それは、天才が飛ばしてしまう段取りを徹底的に行うということです。
その段取りのポイントはたくさんありますが、その中で最も重要なのは
「できるだけ完成品に近い状態を作り、疑う」
ことです。
とにかく完成品に近い状態――お客さんがそれを「良い」か「悪い」かを判断できる状態にもっていき、お客さんの正しい意見集め、精査し、改良し、完璧に近づける、ということです。
これはいわゆる「マーケティング」とは全く異なるものです。
世の中で考えられているマーケティングとは「お客さんに欲しい物をきいて、お客さんがこれだと言ったからこれを作ろう」という、ある意味で「言い訳」を集めていると言えます。
しかしお客さんは、何が欲しいのは自分で言葉にすることはできません。
ただ、お客さんは成果物に対して「判断」はできるのです。
つまり、完成品に近い状態であれば
○ か ×
はつけられる。
そしてそれ以上のことはできない。
では、×をどうやって○にするのか。
それを徹底的に、試行錯誤するのです。
それをやっているのが、アニメーションスタジオのピクサーであり、スターバックスが、少年ジャンプが、ユニクロがやっていることであり、過去の松下が、HONDAが、SONYがやってきたことです。TOYOTAのカンバンシステム「いつでもだれでも作品を疑って良い、疑ったなら検証する」でにも共通するものがあります。そしてTOYOTAのカンバンシステムを取り入れたのがピクサーです。また、組織だけではなく個人においても、ウォルト・ディズニーが、チャップリンがやっていたことであり、全盛時の黒澤明が脚本家を3人・4人体制を敷いていたのも近いものがあるかもしれません(ただ、後期の黒澤は一人で脚本を書き、段取りを飛ばす「天才的手法」に変わっていくことになりました)
また、それ以外にも存在する、様々な段取り
「ベンチマークを見つける」
「似た商品の課題を明確にする」
「反対意見を一度受け入れ、検証する」
「前回の成功の方程式を踏襲していないか検証する」
「自分の伝えたいメッセージとお客さんの求めていることの接点をコンセプトとする」
「一度決めたコンセプトを、途中で疑う」etc……
これらの段取りを徹底するのです。
これは、極めて苦しい作業になりますが、それをやらない(やれない)から、天才は脆弱なのです。
つまりは、「やればできる」という言葉は、真実であり、
才能とは「選択」の問題なのでした。
これは気休めの言葉でも、善意のウソでもなく、
誰もが、何かのジャンルの天才になることができます。
これらの苦しみを、引き受ける「覚悟」さえ持つことができれば。
この言葉に対して、反論する人もいるでしょう。
そして反論したくなる理由は、やはり、その人にとって「天才は存在してもらいたい」からです。
「誰もが、何かのジャンルの天才になることができる」――この真実は、天才を倒す道を選んだ人にしか体感できません。
クラスの隅っこにいた普通の男である僕は、高校生のとき「この人の面白さには絶対に勝てない」と思っていた人が4人いました。
それから10年後、その4人の内の一人が結婚することになり、結婚式で高校で一番面白かった4人が一堂に会することになりました。
その結婚式の余興でそれぞれがマイクを持って場を盛り上げたのですが、圧倒的な笑いを取ったのは僕一人でした。
(やった、やっと僕は彼らに勝った……!)
このときの感動をクラスメイトの一人に涙ながらに語ったのですが、彼はぽつりとこう言いました。
「お前、まだ『面白い』とか『面白くない』とかそんなこと気にしてたの?」
――ちなみに、この道を選ばない人がいても全く問題はありません。生産者を生かしているのは消費者であり、それは社会における単なる「役割」にすぎません。
ただ、個人的には、天才を倒す道を行く人が、一人でも多く現れることを願います。
それは、もちろん、消費者としてその人の成果物を味わいたいという気持ちもありますが、それ以上に、
「ああ、この人はお客さんのためにとてつもない改良を重ねてきたんだなぁ」という感動は
この道を行く者だけが感じ取れる、最高の喜びだからです。