11月6日(木)晴
第十七章 尊い犠牲者
9月24日の秋の工事が
始まった。
工事の現場は広く、沢山の
人手が必要である。
それなのに、夏から流行した
伝染病の赤痢は下火には
ならない。
工事が始まって間もなく、
2人病死した。
10月になると、美濃には
北風が吹き始める。
藩士達は冷たくなった水にも
悩まされた。
5人が切腹、3人が病死
した。
その後も病死と切腹者が
続出した。
しかし、この間の事情や
犠牲者の数などに関する
記録は、ほとんど残されて
いない。
明治33年(1900年)
4月、宝暦治水碑建立から
100年の間に、犠牲者の
数は次々に追加された。
墓などの発見のきっかけは
偶然である。
羽島市の清江寺の場合は、
明治24年大地震で災害を
うけた寺の再建で敷地を
整理中、境内の藪の中から
発見された。
岐阜県養老町の天照寺では、
昭和33年(1958年)の
集中豪雨と翌年の伊勢湾台風
で道路や農地が流失した。
その跡に5柱のかめ棺が
洗い出された。

かめ棺 ネットより拝借
現在までわかっているのは
犠牲者総数92名で、うち
薩摩藩が89名である。
その中には、戒名を位牌に
書いてあるだけで、生前の
名前は不明の者、
2名含まれる。
薩摩藩以外の者では、幕府の
役人竹中伝六がいる。
庄屋の大田八右衛門の家に
1年間世話になっていた。
お世話になった庄屋に
めいわくをかけないように、
旅籠に移って切腹した。
よほど悔しいことがあった
のであろう。
腹を1文字に切り、はらわた
を壁に投げつけて死んだと
言われている。
29歳であった。
理由はわかっていない。
ただ、指図する側の幕府方
にもこんな犠牲者が出たと
いうことは、この治水工事が
いかに異常で大変であった
かと推察できる。
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