《ショートショート　1445》

『ささら』

　掃除の手を止めてテレビを見ていた母が、懐かしそうな声を上げた。

「あら。もうささら電車の出番なのね」
「なにそれ？」
「ああ、多恵ちゃんは知らないか。札幌の風物詩よ。雪の季節が来ると、市電線路の雪を除けるささら電車っていうのを走らすの」
「ささら？」
「そう。竹をびっしり束ねた箒みたいなものね」

　もうニュースは次の話題に切り替わっていたから、映像を見ることはできなかったけれど、想像はできた。

「なんでもハイテク化されていく時代に、まだ竹箒なのって感じがするけど」
「新しければいいってものでもないわ。他の方法や素材を試したけど、やっぱりささらが一番てことに落ち着いたんだってさ」
「ふうん」
「ああ、そういえば」

　小走りにキッチンに行った母が、シンク下収納をがさがさ漁り始めた。

「あったわ。うちにもささらが」
「へ？」

　うちには雪なんか降らないけど。いや、キッチン下に雪が降るようなら、もうこの世の終わりだ。母が言うささらというのは、おそらく台所用品なんだろう。興味半分にキッチンを覗き込むと、母が手にしていたのは箒というより棒のような謎の物体だった。

「竹ひごを束ねたって感じね」
「まさにそう」

　母が持っていたささらをわたしに手渡す。

「……。ねえ、お母さん。これ、新品みたいね」
「一度か二度しか使っていないもの」
「あーあ、もったいない」
「テフがかかってない、鉄の鍋釜にしか使えないからね」
「そうか。今の鍋だと傷ついちゃうのか。捨てないの？」
「うーん……」

　今まで穏やかな表情で話をしていた母の顔が、一転して曇った。

「どうしようかねえ」

（メリケンカルカヤ）

　母は、ささらを元通りにシンク下に収納するなりむすっと黙り込んだ。それから、わたしに対してではなくあさっての方向にしゃべり始めた。

「鍋釜洗うのは毎日のこと。家事に専念できるならともかく、働きながら朝晩のご飯支度をするなら、ささらで洗う必要がある面倒な鉄鍋なんか使ってられない。だから出番がなかったんの」
「……」

　母は、わたしを産んですぐに父と離婚している。父の身持ちの問題だけでなく、義両親との関係もよくなかったらしい。完全に縁を切りたかったから、補償を求めない代わりに今後一切関わってくれるなと宣言して、働きながらわたしを育てた。よほど懲りたのか、その後はずっと独りだ。
　仕事、子育て、家事を一人で全部こなすなら、確かにささらの出番なんかなさそうだ。だったら、なぜ今までとってあったの？

　わたしの疑問符を察して、母がそっぽを向いたまま答えた。

「ささらっていう言葉は。さらさらっていう音から来てるんだって。汚れを落とす時も、奏でる音は軽やかなの」
「うん」
「でもね。どんなにささらに音を出させても、鉄の鍋は傷つかない。汚れは落ちても本体はそのままなんだよ。汚れ、削れ、減っていくのはささらだけなの」
「あ」

　ふっと。母が小さな溜息を漏らした。

「身を粉にして夫を磨く。奉仕すればするほど、自分が削れて小さくなっていくの。でも、周りに聞こえる音はさらさらという軽やかな音。私がごく自然に、事もなげに家のことをこなしている。そう見られちゃうの」
「う……ん」
「だから離婚に踏み切った。でもね、ささらはなくならない。自分が生きるために誰かをささらで磨けば、結局ささらはちびていっちゃうんだよね」

◇　◇　◇

　母は、言うつもりだった続きの言葉を全部飲み込んだ。それから、あっさり話題を変えて年末年始の準備をどうしようかとはしゃぎ出した。不自然なほど明るく。
　上の空で相槌を打ちながら、じんわりと考え込む。

　ああ、そうね。夫婦は互いにささらを持っているんだろう。自分には使えず、相手を磨くためのささら。互いに切磋琢磨するっていうと聞こえはいいけど、いっぱい手を動かした方のささらが先に擦り減ってしまうんだ。

　わたしも母のことは言えない。わたしが今実家にいるのは、結婚に失敗したからだ。母の苦労を見てきたから、結婚には慎重だったはずなのに。やっぱり、世の中は自分の思うようには動かない。

　結婚という形を取るまでよく見えなかった相手の汚れが、どうしても気になってしまう。そこを自分のささらで磨いてきれいにしようとする。向こうだって考えることは同じ。
　決して悪意やエゴの押し付け合いじゃないのに、焦げついた自我はどんなに相手のささらで磨かれてもきれいにならない。ささらだけがどんどんよれて、縮れて、ちびていく。わたしのささらも、母のと同じようにひどく擦り減ってしまった。
　汚れてぼろぼろのささらで磨き合えば、どちらも疲れ果ててしまう。わたしも……離婚という形でしか自分を守れなかったんだ。

（フェニックスの枯れ穂）

「ねえ、お母さん」
「なに？」
「わたしさあ」

　転職するために仕事を辞めたことは伝えたけれど、その原因が離婚だったのは言わなかった。いや、母には離婚どころか、結婚したことすら明かしてなかったんだ。

「オトコと。別れたんだよね」
「……」

　諦めたように、母が目を伏せた。あんたには私と同じ苦労をしてもらいたくなかったのに……そう言いたげに。

「そうかい」
「うん。次の仕事が決まり次第リスタートする。心配しないで。それでさあ」
「ああ」
「さっきのささらはもらってくね。もう要らないでしょ」
「いいけど、何に使うの？」

　思わず苦笑する。

「お母さんと同じよ。使わないようにするわ。そのためのお守りなんでしょ？」

Single Mother　by KOKIA

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