こんばんは、干支読みのスワンです。
最近家族の講座やっていますが、さまざまな家族に在り方について、答えのない話を語り合う機会となっています。家族の有り様は色々あってしかりですね。
今日はおかんと同居しながら、気づいたことなど日記風味で書いてみますー。
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今朝もはよから出かけて仕事から戻ってきたら、部屋がモーレツに焦げくさい。
急いで換気扇を回し窓を開ける。
ゴミを見ると、今夜楽しみにしてた高級ハンバーグの抜け殻が、、、(涙)
ヤラレタ。
1ヶ月ほど、故郷の妹の家にお世話になり、帰ってきたおかんは、食事を我々夫婦と共にしなくなった。
多分、規則正しい人間の生活wを思い出し、私たち夫婦の生活に合わせるのがしんどくなったのだろうと憶測するが、
これが意外にもよき展開となっておる。いい感じの距離感でいられるのだ。
そして、食事をともにしないと家族感は弱まり、単なる同居人感がアップするとわかった。
心の距離感があく。干渉が薄まる。
一見、よろしくないように聞こえるかもしれないが、故にそれほど腹も立たなくなるというメリットも見つけた。
引きこもりも思春期も、そうやって互いの距離をちゃんととっているんだな。傷つかないように、家族を傷つけないように。
裏を返せば家族含め、いわゆる絆を育てるにあたり、「食事を共にする」という行為がどれほど大きいことか改めて実感。群れの法則でもあるが。
同時に、家族というものは一緒に食事をするものだという刷り込みがあったことにも気づく。
うちは二世帯家族で商売をしていたし、下町でお風呂屋さんに通っていたから、全員で食卓を囲むことが難しい状況だったので、おかんも私もかえってそこは強迫的なものが染み込んでいた。あの頃は15年で崩壊したけど。w
確かに、心理的にはとても大切なイベントであることは間違いないが、致し方なく毎度食卓を囲めない家庭は少なくないし、やらねば!と儀式として頭数揃えるくらいならば、その回数で罪悪感をもつのではなく、中味を充実したいものだ。
そこでどんな体験を共有するか。この方が大事。これは、私の幼い頃の実感でもある。
そんなわけで、我々夫婦は、おかんと共食しないことで、おかんの飯のタイミングをヤキモキすることから解放されて、好きに外食したり、夫婦の時間を確保できるようになった。
自分のタイミングで食事してくれると助かるわ〜と話していたばかりだったのだが、
忘れていたのだ。
おかんはキョーレツな面倒くさがりな上、調理ができないことを。
楽しみにしていた宇宙せんべいも、禁断のペヤング(非常食)も、せんべい汁用の南部せんべいも、おやつとしてヤラれた。
いかん、ヤラレる予防に、ご飯ぐらいは炊いておく必要があるようだ。
2年経って、これもあれも慣れてきた。命に関わる以外は、大したことない。夫も同じ考えだ。
ルールに従ってほしいのは私たちの勝手であり、最低限おかんを尊重している我々に対して、おかんは最大限我々の生活を尊重してくれている。
それでも、生活をともにすることは、物理的な広さが足りない故、なかなか快適とはいかない。
人生は、自らが快適に生きられるための工夫の連続だ。
解決をしようとすることよりも、この中でどうしたらより快適に過ごすことができるか、工夫をしつづけることが必要なのだ。
空く目処がたたない高齢者用のマンションに申し込みをしてあることも、我々の心のどこかで、吐いた息を通す穴になってくれている。
よし、ご飯は炊こう。食卓をともにしないというのも決めないでおこう。たまには一緒に食べよう。毎日いつもじゃなくても。
今日、焦げくさい部屋から得た心の変化と工夫でした。