『あの人に私を見て欲しい』と思った時、まだ小さかった私がラグビーボールを取ることを選んだのはきっとあの人が父ばかり見ていたからだった。
ラグビーボールを追いかける父の背中を追っていた訳じゃなくて、そんな父の背を眼で追いかけているあの人を見ていたからだった。
「春賀ちゃん、中学入ったらラグビー始めるんだって?」
「うん」
「いいな、ラグビーが出来るって」
そう声をかけてくれた時、ようやく私もこの人の視線のうちには入れた気がして嬉しかったのを今でも明確に覚えている。

君の恋人は私じゃない

ラグビーボールを追いかけるのは、楽しかった。
皆が私を支えてくれて私もみんなを信じて芝生の上を走る痺れるような幸福感は他の何物にも代えられない。
だけど、当初の目的は一度だって果たされることは無かった。
選手としては引退した父をあの人はまだ好きなままで、その視線が私に向けられることは無かった。
「それってもうファンとかじゃないでしょ」
飯沼嘉穂が呆れたようにそう言った。
中学に入ってから入った府中のラグビースクールで仲良くなった彼女はいつだって率直な物言いで、私の恋のモヤモヤした部分を晴らしてくれた。
「そうかな」
「絶対そうだよ、いくら家族ぐるみで友達だからって週末わざわざおうちまで来たりしないよ!」
「違うと思うけどなあ」
「いーや、絶対もうそれファンとか友達じゃないよ」
「絶対に?」
「絶対に!」
嘉穂がいつになく強気の口調ではっきりと言い切るので、もしも本当にそうだったらどうしようかとぼんやり考えた。
私じゃなくてお父さんが好きなあの人のことを、私はちゃんと諦められるんだろうか。

そうしてその時は案外すぐに来た。
お父さんとあの人と2人で温泉に行くことになり、私たち四姉妹はあの人のお母さんと山梨の温泉に行くことになった。
その時点からおかしいな?と思っていたけれど、2人が帰ってきたとき何か空気がほんのりと甘いものに変わっていた。
最後の決定打はお父さんの鞄からあの人のパンツが出てきたことだった。
全員分の洗濯ものを洗う時、明らかに父親のものにしては小さくて明るい色味のボクサーパンツが出てきてようやく私はその事実を知ったのだ。

「……それは、ご愁傷様」
嘉穂は何とも言えないような顔で私にそう答えた。
たいして遠くもない練習場から帰らず嘉穂の家にお泊りしたのは、お父さんの顔が見たくなかったからだ。
事情を全部聞いてくれたうえで嘉穂は私のことを黙って聞いてくれた。
今日はパス練習も走り込みも全然うまく行かなくてコーチにも叱られたし、お父さんの顔も上手く見れなかった。
秋姉はいつも忙しいから気づいていないだろうけれど、夏姉と冬湖は気づいたようでお父さんと喋らないで済むように気遣ってくれた。
「ラグビー辞めようかな」
元々あの人に見て欲しくて始めたのに、あの人が見てくれるわけはないと分かるなら辞めてもいいような気がした。
確かにラグビーは楽しいけれど本来の目的が達成されないのなら続ける意欲も薄れてしまう。
「それは駄目」
「なんで、」
「春賀のパスで走ってる私の気持ち考えてよ、それに春賀が辞めたら15人制の試合できなくなるじゃん」
左ウィングをポジションとする嘉穂はうちのスクールでは一番のトライゲッターで、私はスクラムハーフとしていつもスクラムボールを嘉穂に投げていた。いわば相棒のような感情がそこにはあった。
「こっちいるのがしんどいならさ、島根行こうよ。石見翡翠館」
彼女があげた高校は女子ラグビーの名門と言われる私立校で、それもいいかもしれない気がした。
ここではない遠いところでラグビーに包まれて暮らしたらきっと全部忘れられるだろう。
「いいね、それ」




二年後の春、本当に島根に進学して新しい恋にめぐり合うことをまだ知らなかった頃の話である。

春賀ちゃんのお話。