無理をしたように笑う子だ、というのが最初の印象だったことを覚えている。
「やりたいこと全部やるためなら仕方ないですから」
家のことをやらないとならないからと言って一人早めに部活を切り上げる準備をするとき、本当に大丈夫には思えないような顔をして笑う子だと思ったのをよく覚えている。
「それじゃあさようなら、酒々井先生」
色んなものを鞄に押し込めて武道館を出たのを見て、ちょっとだけ可愛がってやりたいと思った。
それがたぶん最初だったと思う。

寂しい子ほどかわいい話

病室の白いベッドの上から、好きですと喉を振るわせて彼女は言った。
小柄で未成熟な体に詰め込まれたものを吐き出すような言葉だった。
「……わかった、また明日な」
そう言って病室を出て行きながらふうっと小さくため息を吐く。
何もかも全部一人でしょい込むようなあの寂しくて苦しい娘の手を取れるだろうか、と考える。
私は彼女の教師だ。そして、夫と息子がいる母でもある。
今のままであの子の手を取ってやることはできないな、と直感的に思った。
近所に住む夫の家族に支えて貰わなければ母親業も教師業も全部器用にこなせるような大人じゃないことを私が一番わかっていた。
携帯を確認すると、近くに住む義母がいつ帰るのかと連絡を寄越してきた。冷蔵庫の中身はどのくらい残っていたのかを考えるのも億劫で、スーパーで夕飯を買って帰ろうと思った。

***

家に帰ると一人息子の英人が「お帰り!」と駆け寄ってきてくれた。
「瑞穂さん、私も一緒に食べていいかしら?」
「普通のお弁当ですけど……」
「まあ今日は忙しかったみたいだものねえ」
遠回しに手抜きを責めるような義母の口撃には聞かんふりをして、三人分のお弁当をレンジで温めた。
「ママ、おれチキン南蛮が良い!」
「もちろん買ってあるよ」
「やった」
小さくガッツポーズをする息子は素直で可愛らしいが、義母はいつもこんなものを食べさせてるのだろうかという顔をしていた。
私だっていつもこんなことをしている訳じゃない。定時で上がれた時はちゃんと夕食を作っている、今日は特別だ。
英人には好物のチキン南蛮弁当を、義母にはお寿司の握りを渡し、私はちゃんぽんをレンジて温めた。
過労で倒れたというあの子はベッドで今頃寂しい気持ちをしてるのだろうか、と思う。
「ママー!」
「なあにー?」
ほんの一瞬の猶予もなく息子がテレビを指差して喋りだす。お気に入りのアニメキャラが出ていたらしい。

私には、あまりにも時間がない。

夫が帰ってきたのは夜の12時を過ぎてからだった。
眠りにつく前のティータイムをぼんやりと過ごしていると「ただいま、」と夫が帰ってきた。
「おかえり」
「俺の分のお茶あるか?」
ポットの中身をマグカップに入れて渡すと、微かに甘い女物の香水の匂いがした。
分かっているがつくづく夫のプレイボーイさには嫌気がさす。
「剣道部で倒れた子がいるんだって?」
「うん、それで付き添いで病院に行ってた。英人はお義母さんが預かってくれて」
夫は同じ学校の中等部で技術教師をしているから人づてに聞いたのだろう、公立と違って私立は教師の入れ替わりが少ないせいで情報の流れもおおかた予想がつく。
「そっちは?」
「こっちは特になし、中等部は平和だよ」
嘘つけ。ならそんな女物の香水の匂いを残さないでくれと言いたくなる。
わざとなのか抜けているのか分からないけれどこういうところはつくづく頭が痛い。
「……ねえ、私がうちの受け持ちの子に告白されたらどうする」
うちの学校は女子高だから女同士の色恋沙汰なんてのは珍しいことじゃない。時折聞くことだ。
しかしそれを表立って規制するほど野暮なことは無いというのが私たち教師の共通見解であり、勉学や風紀を乱すことにならない程度ならば目を瞑っておいてあげようというのが暗黙の規則であった。
夫は「子どもみたいなこと聞くな」と笑った。
「思春期の一過性の思い込みみたいなものだろ、ああいうのは」
「でも私、あの子のこと好きよ。あの子の香水の匂いを残して家に帰るような仲になってもいいくらいには」
「……未成年だろ?」
「高校出るまでは手を出すつもりはない、本気で好き」
これは夫への試験だ。
今ここで一緒にお茶を飲む夫を取るか、いま病院で一人寂しく眠っているあの子を取るか、決めるための。
ずっとプレイボーイぶりを見ないふりしてあげたのだ、あなたが私だけのものでない以上あなたに私を独占する権利はない。
「嫌だ、」
夫はぽつりと言った。


「俺の妻で英人の母親でないお前なんて、いやだ」

答えは出たらしい。
「そう、あなたそんなに子どもだったんだ」
最後の望みがぽきりと折れる音がした。