子どもの頃、よく母さんが口癖みたいに言ってたっけ。
『お父ちゃんはラグビー以外なんも出来ん人やけんしょんなか』
看護師の仕事をしながら身体の悪い祖母の代わりに一人で家事をこなしていて、母さんは全部一人で何でもできるすごい人だった。
だから母さんがいたらどうしただろうって今でも時々考えてしまう。
たぶん、私はずっと母さんになりたかったんだ。

君は腕に抱かれて

目が覚めるとそこは真っ白い見慣れない部屋。
消毒液の匂いと腕に刺された点滴でここが病院だとわかった。
「竹浪、」
そこに座っていたのは不安そうな眼差しをした部活の顧問である酒々井だった。
というか子どもや旦那さんは良いんだろうかと思った……うん?窓の外が暗い、今何時だ?
「いまなんじ?」
「7時半、でも親御さんに連絡しといたから今日はゆっくり休みな」
体育教師らしい日焼けしているけれど少しだけオレンジの匂いがする手が私の頬を優しく撫でた。
撫でられる心地が心地よくてその手を重ねるとしょうがないなというように顔も髪の毛もたくさん撫でてくれる。
「猫みたい」
ぽつりと酒々井が漏らす。女性にしては低くて落ち着いたその声が、好きだと思った。
ずっとこのまま甘やかされてしまいたいと思う。骨の髄が煮溶けるまでその温かな手で甘やかされたい。
「あのー、」
聞き馴染みのある声で思わずその手を外して飛び起きるといつもの顔がそこにはあった。
私の中学の同級生にして父親が籍を置くチームのスタッフ、そして父の密やかな恋人・佐藤充希。
「……びっくりした」
「うん、豊さんの代わりに荷物を届けに。着替え要るでしょ?」
「そういうことね。うん、ありがと」
着替えを詰め込んだらしい紙袋を横に置くと酒々井に軽く目配せをして病室を立ち去る。
「……あの子、恋人?」
「いや、東京に来てから家族ぐるみで付き合いがあるもんで必要なときはこうして世話焼いてくれる良い友人ですよ」
その問いが嫉妬であればいい、と思った。
「私も帰らなきゃ、息子が待ってるしね」
「うん」
帰らないで、という事は出来ない。
だってこの人は母なのだ。帰りを待つこどもの気持ちは私が一番知っている。
「酒々井……先生」
「なに?」
声帯を震わせた好きという言葉が、何の狂いもなくその耳に届くことを祈った。



秋恵ちゃんの恋のお話