こんばんは(*^^*)


今夜は3月に講演会でお話しした内容を
こちらでもご紹介させて頂きます。
(文字数に制限がありますので
【前編】【後編】に分けています。)


主催の''あゆみの会さま''が
録音した声をテキストにして下さいました。
摂食障害に関する内容ですので
ご興味のある方はお読み下さい。







=講演=

食べられないから生まれたレシピ【前編】




 

<拒食症のはじまり>

高校生の時。それまで大きな病気をした事は無かった。親は「勉強しろ」とうるさく言わなかったのに、テストの前になると「良い点を取らないと」とノイローゼのようになっていた。だけど、周囲にそれを悟られ、真面目だと思われるのも嫌だった。張り詰めていたものがプツンと切れたのだと思う。友人の前で泣いてしまい、やがて学校へ行けなくなってしまう。友人がお見舞いに来てくれても恥ずかしくて会えず、鬱々と家に引きこもるようになる。食べる量も減り、57㎏あった体重が40㎏台に。数字が減っていくことが楽しく、気がつくと数字を減らしていくことが生きがいとなっていった。

 




<救急車で病院へ運ばれるまで>

元々極端な性格だった。英語・国語は5であったが、数学・理科は1だった。7080点取るくらいなら、0点で良いと思っていた。高校の先生は「こうでなければならない」という性格の私に、「もっと外の世界を見ろ」と言いたかったのだと思う。大学進学を勧めてくれた。そして無事に大学入学。一人暮らしを始める。ところが母方の祖母が亡くなり、地元に帰ってくる事となる。甘えられる存在であった大好きな祖母を失ったショックは相当であったが、母はそれ以上にショックが強く、病んでしまう。家の中は両親のケンカは絶えず、家に居るのは嫌だったが、母を放っておけないと思っていた。私は更にどんどん食べられなくなってしまう(今から思うと、痩せていく事で、「ケンカばかりしないで私を見て!」と気を引きたかったのかもしれない)。明らかに拒食症だった。だけど私は「胃が痛くて食べられないだけ」「拒食症ではない」と主張していた。頑張って体重を減らしたのに増やそうとする人、助けてくれようとする人はみんな敵に見えた。だけど母だけは違っていた。私と近すぎて感覚が麻痺していたのかもしれない。「みずきは胃が痛いだけ」「病気じゃない」と私の言葉を信じ、父や親戚に説明してくれた。しかし体重は23㎏まで減少し、意識を失って救急車で病院に搬送される事となる。

 




<入院中の生活>

意識を失って病院へ運ばれたが、意識が戻り、起きている時は普通に話が出来たので、危機感は無かった。動いちゃ行けないのに、動きたい。車椅子を使わずエレベータに乗ろうとすると、足がガクンとなり、倒れ込んでしまう。その時体重は23㎏。体脂肪率はもはや測定不能のエラーとなっていた。やがて幻覚・幻聴・妄想といった精神症状が出始め、何をするのも怖く、母とは離れられなくなってしまう。結局母は私が入院していた半年間、1度も家に帰ることが出来なかった。体重は点滴で一時27㎏となる。パンパンに膨れたので、大変な恐怖であったが、その殆どはむくみだった。利尿剤を服用すると7㎏減少した。そうこうしている内に精神科移動の話が浮上する。しかし「そこへは行きたくない!嫌だ!」という思いが強く、「今の状況を打破する為には、何としても食べなきゃいけない」と考えるようになる。病院のベッドでは将来の自分を考えていた。1年後の自分は「まだ何も出来ないだろう」。2年後に「何かを始めていよう」。3年後は「それを進め」、4年後に「結果を出そう」という具合に・・・。そう考えておかないと不安で仕方がなかった。やがて再び27㎏となり、病院を退院する。





<退院後の生活>

家に帰ると浦島太郎状態だった。周りは就職などと自分達の道を歩んでいた。なのに普通の生活が出来ない自分が情けなかった。世間が怖かった。怖くてカーテンが開けられなかった。食べないのに、目の前にある食べ物を全て食べてしまいそう、過食症になってしまうのではないかと怖かった。母はそんな私の不安を和らげるため、代わりに目の前の食べ物全てを食べてくれた。母はもの凄く太っていった。私は自分が細いのを認識するため、家族には太って欲しいと思っていたが、自分を犠牲にしてまで私を「安心させてあげよう」「守ってあげよう」としてくれる母に対し、「こんなにしてくれる人の為に治したい」「恩返しがしたい」と思うようになっていった。とはいえその頃薬を大量に服用しており、体もおかしくなっていた。幻覚もあったので、心療内科を探すも、いくつも門前払いをくらってしまう。「なぜここまで放っておいたのか!」と訪れる病院の先生に母が怒られるのが辛かった。私は母に「ごめんね」と言った。母は「もう治らなくても良いから、生きていて欲しい」「生きているのが辛いなら、一緒に死のう」と言ってくれた。だけど私は母を死なせたくなかった。もう治るしかなかったのだ。






後編はこちら▼

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