コロナ禍で数年間会う機会がなく、先日久しぶりに会った友人がいました。

会話の流れから、ふっと伝えたくなったことを何とか言葉にしましたが、話しながら途中で諦めてしまったな。。と今は感じています。

たぶん、彼女の世界に住んでいる“わたし”のイメージを逸脱するきっかけだったと思いますが、それはただ私が彼女の世界に介入していたと言うだけで、彼女の中では何にも起こってさえいないのかもしれません。

 

言葉にしようと思考していたら、身体は動悸となって知らせてきたので、それで諦めてしまったのかもしれませんが、今この瞬間にあの出来事にタイムスリップしてみると、私の中にある彼女のイメージに、あたりまえのように従わなくちゃと働く機能と拮抗したのだと氣がつきます。

そのこと自体が良かったのか?悪かったのか?それはわかりませんが、何となく氣持ちを引きずり、モヤモヤしていたのでセルフヒプノです。

 

表面的に見えている出来事を拾っていきます。

できるだけ感情は乗っけずに、シンプルに会話中の経過を確認していきます。

私にスイッチが入った瞬間、それは【境界線】を掲げられたように感じた時でした。

 

“興味のあること、ないこと”

“覚えていること、忘れていること”

“私の記憶とあなたの記憶が違っている”

“正しいこと、間違っていること”

 

『それは違う、そうじゃない』

そう伝えたかったのかもしれないなぁと思う反面、彼女が伝えたかったこともそのまんま“それは違う、そうじゃない”だったような氣がしています。

 

身体にギューッと力が入っていく感覚、身体の緊張は呼吸も思考も感情も小さく固めてしまいます。

いろいろと“ああでもない、こうでもない”とやりたくなる思考を“ああかもしれないね、こうかもしれないね”って鳥瞰的に見つめて、深~い呼吸をしながら、胸のあたりに感じる感情を具現化したようなモノを緩めていくイメージをします。

これは、身体の感覚で変化を感じるまで、時間をかけてゆっくりと行います。

 

これが起こる必要があった。

早かれ、遅かれ。

イイでも、ワルイでもなく。

 

 

~話を聞くことが必ずしもケアにはならない~

~ケアのないところのセラピーは暴力である~