第9章 師範代としての日々
苫米地ワークスクラスは、週末の土日に行われていた。
会場は、新宿のレンタルスタジオだ。
クラスでは、アーティストたちが、BGMの生演奏をしていた。
そのため、週末ごとに音響機材の搬入と搬出をしなければならなかった。
私は木曜日の夜に夜行バスに乗って、岡山から東京に向かった。
夜9時に出発して、翌朝7時頃に新宿に着く。
高速道路を走行するが、走行中は激しい揺れがずっと続く。
夜中に数回、サービスエリアでトイレ休憩があるため車内が明るくなる。
リクライニングは可能だが、狭い座席のため体中が痛くなる。
私は音に敏感なので、耳栓をしていても、ほとんど眠れない。
寝不足と疲労と体の痛みを抱えて、金曜日の朝に新宿に到着する。
金曜の午後に、音響機材の搬入をする。
苫米地博士の六本木の事務所に行き、大きなスピーカーやアンプ、ミキサー、電子ピアノ、ギターなどを新宿まで運ぶ。
そして、会場で音響機材のセッティングをする。
搬入とセッティングが終わると、疲労困憊の状態で、一泊2000円の格安カプセルホテルに宿泊する。
カプセルホテルでは、いびきがうるさくて眠れない。
風呂場は混雑し、まるで収容所のようだ。
翌朝は、9時からクラスの受付が始まるため、準備のために8時に会場に行く。
クラスの補助講師の方々は、私をクラスのアシスタントとしては認めてくれない。
あくまでも私は、アーティストのアシスタントだった。
なぜ私がクラスの手伝いを始めたのか、補助講師の方々には理解できないようだった。
しかし、私は命がけだった。
ここで信頼を得て、苫米地ワークスクラスのアシスタントとして認めてもらうことができれば、苫米地博士から多くのことを学ぶことができる。
お金のない私にとって、そのような稀なチャンスを逃すことはできない。
私は、一生懸命働いた。
毎週、自費で夜行バスに乗って東京に通った。
重い機材の搬入と搬出。
音響の補助。
掃除や雑用。
そして、徹底的に集中して、苫米地博士のレクチャーを聞いた。
クラスが終わり、月曜日の夜に夜行バスで岡山に帰る。
火曜日から木曜日までは、ほぼ一日中、寝込んでいる。
肉体的にも精神的にも極限状態だったため、その間は体を動かすことすらできなかった。
そしてまた、木曜日の夜に岡山を出発し、夜行バスで東京に向かう。
それでも補助講師の方々は、私をアシスタントとして受け入れるつもりはなかったようだ。
数ヶ月後に、「水井さん、次回からお金を払って受講してくださいね」と言った。
私は苫米地博士にメールして、このまま音響のアシスタントを続けてもいいかを聞いた。
「水井くんは、このままアシスタントとして参加していい」と、苫米地博士は返事をくださった。
私は補助講師の方々に、「苫米地博士から直々の許可を得ているので、このままアシスタントを続けます」と不遜ながら答えた。
この頃が、一番つらかった。
信頼を得るには、一体どうすればいいのか。
とにかく一生懸命仕事をして、自分のことを認めてもらうしかなかった。
そのようにして半年が過ぎていった。
その頃には、補助講師の方々も、次第に私に対して、優しく接してくれるようになった。
クラスには様々な人がやってくるため、補助講師の方々も、警戒心を持っていたのだと思う。
親しく話してみると、ものすごく優しい人たちだった。
苫米地博士とも一緒に食事に行ったりして、親しく話せるようになった。
半年経って、やっとアシスタントとして受け入れてもらえたのだと実感した。
ところが、そんなある日のことだった。
苫米地博士が、ワークスクラスを終了する予定だと言った。
苫米地博士が突然そう言ったのは、当時、師範代と呼ばれていた補助講師の方々が忙しくなり、クラスの指導を続けることができなくなったからだ。
師範代の方々は、非常にレベルの高い指導者で、苫米地博士からの信頼も厚かった。
苫米地ワークスクラスでは、前半に師範代が補助指導をし、後半に苫米地博士がレクチャーとワークをするという流れだった。
受講料も高額であり、社会的に成功した方々ばかりが集まっていた。
多忙な苫米地博士は、午後からの指導しかできないため、師範代がいなくなるとクラスの開催が困難になるということだった。
その翌週のクラスの終了後、苫米地博士とアーティストたちが雑談をしていた。
クラスを終了するという話題になった。
アーティストが、「もうワークスは、やらないんですか?」と改めて苫米地博士に尋ねた。
「うーん、教える人がいないからね」と、苫米地博士は言った。
私も、クラスが終わってしまうのは残念だった。
この半年間、つらい下積みだったが、クラスの場にいられることは私にとって大きな喜びだった。
お金のなかった私が、苫米地博士のクラスに毎月参加できたのは、稀有なる恩恵だと思った。
毎週、岡山から東京に夜行バスで通い、ボロボロになりながら手伝いをしても、苫米地博士に直接学べる喜びのほうが遥かに大きかった。
だから、クラスが終わってしまうのは悲しかったし、なんとか継続してもらえないかと願っていた。
しかし、師範代の方々がやめてしまうなら、クラスの継続は不可能だ。
苫米地博士から極意的な技術を教えてもらえるチャンスは、もう一生、得られないかもしれない。
すると苫米地博士は、不意に、私に向かって言った。
「水井くん、できるでしょ」
「はい?」
私は何を言われたのか、わからなかった。
苫米地博士は、続けてこう言った。
「水井くんならできるでしょ、師範代」
「えっ、師範代ですか?」
私が師範代をするということなのか?
「大丈夫、大丈夫。できるから」
そして苫米地博士は、アーティストの方を向いて、こう言った。
「来月から、彼に師範代をしてもらうから」
翌月から、私は、苫米地ワークスクラスの師範代になった。
朝早く、新宿のスタジオに行き、音響機器のセッティングをする。
受付のテーブルを設営し、受講生の受付をする。
そして正面に立ち、受講生に基礎的なワークの解説と指導をする。
苫米地博士が会場にやって来る午後2時頃までの約4時間、私の指導が続く。
このような指導をするのは、はじめてのことではなかった。
私は十代の頃から様々な場所で、このような指導をしたり、イベントの運営をしてきた。
小学校でも、介助教員として子供たちへの指導も経験した。
きっと苫米地博士も、そのような私の資質を見抜いていたのだろう。
毎週末、東京に通った。
夜行バスで眠れない夜を過ごし、ボロボロの状態になりながら指導し、格安のカプセルホテルで眠る。
カプセルホテルが満室の時には、安宿やユースホステルに宿泊する。
快適に過ごせる環境ではない。
疲労が蓄積していく。
週末の指導を終え岡山に帰ると、蓄積した疲労のせいで、数日間はまともに動くことすらできない。
そのような日々が、数ヶ月間続いた。
高額なクラスだったため、受講生の数は、次第に少なくなっていった。
まだ苫米地博士が、本を二冊しか出版していなかった当時だ。
それでも、医師や経営者など、その分野のプロフェッショナルの方々が熱心に受講されていた。
私は毎週末、六本木の事務所から沢山の音響機材を新宿のスタジオに移動させることが、かなりの負担になっていた。
受講生の人数も少なくなっていたので、クラスの会場を六本木に変更したらどうかと苫米地博士に提案した。
六本木には、苫米地博士の事務所があり、あまり使われていなかった会議室があった。
そこでクラスを開催することができれば、機材の運搬をする必要がなくなる。
また、苫米地博士が六本木と新宿を往復する手間も省ける。
新宿のスタジオも、使用料が高かった。
このような経緯で、苫米地博士はクラスの会場を六本木に変更することに同意してくれた。
私は、六本木の会議室を大掃除した。
そして、クラスが開催できるようなスペースにした。
会議室は、新宿のスタジオに比べて、かなり狭かった。
アーティストのBGMの生演奏はできなかった。
そこで私は、師範代としての指導と同時に、音響機材を操作し、特殊な音響のBGMを流した。
変性意識を生成する音源と複数のBGMをリミックスし、6チャンネルのスピーカーから流した。
ヘッドホンによる3D音響も導入した。
その頃、苫米地博士は特殊音源の制作を進めていた。
それは携帯電話の着メロだったが、世界的に話題になり、ディスカバリーチャンネルが取材に来たほどだ。
苫米地博士もさらに多忙になり、朝までフル回転で仕事をしていた。
いつ寝ているのかも、わからないほどだった。
私も、クラスの会場を六本木に移してから、さらに忙しくなった。
クラスは、週末の土日に行われていたが、全日程参加できない受講生もいる。
その受講生たちのフォローをするために、クラスが終了した夜20時から23時まで、私が一人で補習を行なった。
朝9時からクラスの準備を始め、14時頃まで私が復習を中心とした指導をし、その後、苫米地博士が新しい技術を指導する。
そして、クラスが終了した後、夜23時まで私が補習を指導する。
約14時間の労働だが、内弟子という立場なので、当然、報酬はなかった。
ただ、この頃から、ありがたいことに、私の交通費と宿泊費が支給されるようになった。
大変な毎日だったが、苫米地博士の技術を学べることは、私にとって大きな喜びだった。
苫米地博士は、知識や技術の伝達だけではなく、無意識の伝達ということを重視していた。
無意識の伝達というのは、無意識レベルで行われる学習のことだ。
苫米地博士の無意識から、受講生たちの無意識へと情報が伝達される。
密教の世界では、このような伝授が師匠から弟子へと行われているという。
このような伝授の能力は、苫米地博士が持っている特殊能力のようだった。
苫米地ワークスクラスを手伝った三年間の間に、私は苫米地博士から無意識レベルの情報を膨大に伝授されたと思う。
その結果、私自身も、ある種の特殊能力を使うことができるようになった。
人の無意識に同調する能力。
人の深層レベルの心を読み取る能力。
その人が抱えている問題を解除する能力など。
元々私は生まれつき、ある種の特殊能力を持っていたし、歌手としての仕事にもそういう能力を使うことがあった。
しかし、苫米地博士の元で学ぶことによって、それらの能力がさらに磨かれ、私が意図せずとも自然に能力が発動するようになった。
ところが、それはある意味で大きなリスクだった。
私は、相手の顕在意識と無意識の間に存在する壁のようなものを、意図せずに解除してしまうようになった。
それをポジティブに考えるなら、その人の潜在的な能力を解放する意味を持つだろう。
しかし、もしその人が無意識の領域にネガティブな感情を抑圧していた場合、フタが外れるように、それが表面に浮上してくるのだ。
苫米地博士は、「トランス・マシーン」という言葉をよく使った。
無意識に介入する技術を身につけると、人はトランスマシーンになる。
周囲にいる人々を、自然にトランス状態にしてしまう。
通常、人間がトランス状態になると、そのトランスを引き起こした人に対して、強いラポール(親近感)を抱く。
それは、トランス状態になると、幼児の頃の自分の意識状態に退行してしまうからだ。
その時に、無意識レベルでは、トランスを引き起こした人を、擬似的な親だと認識してしまう。
そのため、もしその人が親に対してネガティブな感情を抑圧している場合、その感情が、トランスを引き起こした人に投影されるのだ。
このような現象は、精神医学の世界で「転移」と呼ばれている。
初期の段階では、陽性転移といって、トランスを引き起こした人に強いポジティブ感情を抱く。
しかし、些細な不満がきっかけで、それが一気にネガティブ感情へと反転する。
この状態を陰性転移という。
精神分析療法では、このようなプロセスを意図的に起こさせ、それを乗り越えさせることによって治癒を行う。
しかし、この転移に関わるプロセスがうまくいかないと、大きなトラブルに発展するリスクがある。
私は三年間、毎週、朝から晩まで徹底的に深い変性意識を生成する訓練をした。
苫米地博士は、受講生たちの脳のリミッターを外し、圧倒的に深い変性意識が生成できるように誘導していた。
歌手や役者の世界でも、変性意識や転移という概念は知らずとも、このような訓練が伝統的に行われてきた。
それゆえ、彼らにも転移の現象が起こりやすい。
熱狂的なファンに愛されるのと同時に、一部の人々に憎悪される。
人間の無意識に関わる仕事というのは、そのようなリスクと隣り合わせなのだ。
陽性感情が陰性感情へと変化する時、そこには強烈な憎悪が生まれる。
でもそれは、本当はトランスを引き起こした相手に対する憎悪ではなく、その人が抑圧していた親に対する憎悪だ。
そのことに本人が気づかない限り、根本的な解決にはならない。
私は、その後の人生で、この転移に関わるトラブルに、何度も巻き込まれることになる。
苫米地ワークスクラスの師範代として、三年間、私は徹底的に修行した。
その三年間は、私の生活のすべてが、苫米地博士から伝授された技術の習得のためにあったといってもいいだろう。
そして、日本の第一線で活躍する方々に直接指導をする機会が得られたことも、教える側としての貴重な修行となった。
三年目になって、師範代としての手当として日給一万円をいただくようになった。
それは本当にありがたかったが、私も三十代になり、自分の将来のことを考えるようになっていた。
このままクラスの指導を続けていても、将来が不安だった。
現状の仕事を続けるか、それとも、もう少し安定した職業に就くかを考えなければならなかった。
ある日私は、苫米地博士にメールで給料のことを相談した。
岡山から東京に通っているため、岡山で就職をすることができない。
しかし、現状の手当だけでは将来が不安だ。
安定した生活ができるように、手当を増やしてもらえないだろうかと。
苫米地博士は、そのことに同意してくれた。
しかし、それは同時に、私が苫米地博士の内弟子という立場を辞めるということを意味していたのかもしれない。
なぜならば、内弟子というのは、安定した給料をもらって仕事をするという立場ではないからだ。
師の技術を伝授してもらう代わりに、師の仕事をできるだけ無償で手伝うというのが内弟子という立場だ。
苫米地博士は、私に言った。
「水井くんは、私から、まだ学びたいという気持ちがあるのですか?」
そして苫米地博士は、私に給料は払うが、師範代としての仕事は辞めるようにと言った。
苫米地博士から見れば、私は内弟子であり、苫米地ワークスクラスを特別待遇で受講している生徒でもある。
ある意味では、クラスの受講料分も手当に含まれている。
それなのに通常の給料を求めるということは、内弟子を辞めたいと言っているようなものだろう。
それは師弟関係において、極めて不遜な要求であることは明らかだった。
もちろん、苫米地博士は、お金にこだわるような方ではなかった。
問題は、弟子としてのあり方だったのだと思う。
弟子には、弟子の作法というものがある。
師の技術を、命がけで学ぼうとするのが弟子というものだ。
弟子が己の立場をわきまえず、不遜な態度に出れば、破門されるのは当然のことだろう。
むしろ、そういう師弟関係を順守しなければ、秘伝的な技術を継承していく資格もない。
ただ、今になって思えば、このような運命になったのは、やはり苫米地博士と私の方向性が違っていたからではないかと思う。
なぜなら、その後の私は皮肉なことに、苫米地博士が科学者として批判する立場であるスピリチュアルの業界へと関わることになったからだ。
もちろん私は、その後の人生において苫米地博士の教えを否定したことは一度もなく、むしろ苫米地博士に直接学べたことは、私の人生にとってかけがえのない貴重な体験であったと深く感謝している。
しかし、運命というのは、本当に不思議なものだと思う。
少なくとも私の人生は、極端から極端へと、大きく揺れる振り子のようだ。
ただ、これだけは言いたいと思う。
師範代をしていたあの頃も、その後も、苫米地博士が探求していた人間の無意識の可能性を、私自身も探求し続けてきたのだと。
そしてこれからも、人間存在というものの無限の可能性を、どこまでも深く追求していきたいと。