イランでは1979年に政権を打倒する革命が起き、以来イスラムの政教一致の国と言われてきた。しかし2024年のいま本当に国民はイスラムによる政治を信じ、敬虔なムスリムとして生きているのだろうか。実際は宗教が弱体化し、若者のイスラム離れが進んでいるそう。
10年くらい前までは、ほとんどのイラン人がムスリムとしての存在意義を持っていると思われていた。もちろん今でもそうした人たちは一定数いるものの、近年、イスラム教は世界に存在する宗教の一つに過ぎないと考える若者たちが現れはじめた。
イスラムでは、ムスリムの子は生まれながらムスリムであり、棄教が明るみになれば死罪とされるため、簡単に離脱することは出来ない。だが、若い世代に共通するのは、「自分達はたまたまムスリムに生まれただけ。大切なのは人間性であって、宗教ではない」という考え方である。
例えば二十代のサダム君は、大学生の頃までストイックな信者だった。礼拝や断食を欠かしたことはなく、一滴の酒も飲んだことは無かった。コーランこそが、人や社会、国家を正しく導く指針であると信じて疑わなかった。
その信念が大きく揺らぐことになったのは、イギリスへ語学留学したときで、初めて非イスラム教国を目の当たりにして強い衝撃を受けた。町では治安と秩序がイランよりもはるかによく保たれていた。最も驚いたことは、イギリス人は、ムスリムであるイラン人よりもずっと誠実で、信頼できて、勤勉だった。
「イスラムは、何か間違っているのでは?」。そう自問せざるをえなかったサダム君は、キリスト教会の門を叩いたこともあったが、馴染むことができないで帰国の途についた。彼のイスラムに対する漠然とした疑念は、のちに一人の女性と恋に落ちたことで確信へと変わっていきます。
コーランでは、女性の価値は男性の半分と明確に規定されていて、男に従わない女は殴ってもよいと記述されているそう。だが、サダム君の彼女は、彼自身が恐れ入るほど聡明で忍耐力があり、自分の半分どころか、その何倍もの価値があるように思えた。
そして、ついに「コーランは神の言葉じゃないと確信した。もし、神の言葉なら、現代にも通用する真理を語っていなければならないはず。現代は男女平等で、男性よりも優れた女性だって沢山いるのに、コーランでは一貫して男尊女卑が説かれている。それはこの本が、未来を予見できなかった昔の人間によって書かれたものであるという、何よりの証拠だからだ」。
「もし神がいるとしたら、それは人間の心の中に居るのでは。良心と言い換えてもいいかも知れない。いずれにせよ、遠い宇宙の彼方から、あれこれ命令してくるアッラーなんて神は存在しないよ」
頭からつま先までどっぷりとイスラム教に浸かっていると思っていたイラン人が、ガチガチの宗教的呪縛から解き離れつつあるというのは良い流れだと思います。
彼がキリスト教に馴染めなかったのは、イスラム教もキリスト教も結局は同じ一神教であり、イスラム教に対する疑問は、キリスト教にもあって納得出来なかったのでしょう。
それから神道では人間に内在する神を一霊四魂といいますが、誰に教わった訳でもなく、自分の心の中に神が居ると考えるなんて、なかなか鋭い感性の持ち主だと思う。日本の神道を学んだら、目から鱗になるかも知れません。
※本文は、若宮總氏「イランの地下世界」からの引用