降り出した雨が次第に強くなると共に、部屋の空気が重く、暗くなる。
雨音に呼応するように、ランプの僅かな火が揺れた。
決して広いとは言えない部屋の中央に、テーブルと椅子。向かい合う形で、夫婦が座っている。
沈黙が始まったのはどれほど前か……部屋を満たすのは二人の呼吸と雨音だけだ。
喧嘩しているわけでも、冷めきっている夫婦なわけでもない。しかし二人は目を合わせず、テーブルの木目をただ見つめている。
「……はぁ……」
妻の小さなため息。絶望感からか、雨音のせいか、呼吸と間違わんばかりの小ささだった。
しかし、夫はそのため息に気づいた。
「……諦めないよ、俺は」
どうしようもない喪失感を振り払えきれず、弱々しく言う。
妻は顔を上げた。泣き腫らしたその顔に生気はない。
「……きっと、まだ子を授かる時期じゃないんだよ。もう少し、家計が安定してから……そう、まだチャンスはあるさ」
自分に言い聞かせるように、夫が言う。
「…………本当に、そう思う……?」
ボソッと、妻が呟いた。
「結婚して五年……ずっと授からなかった子をやっと授かれたのに、それなのに……」
枯れ果てたはずの涙が、再び妻の視界を覆う。
「それに、また流産したら……わたしもう……」
ポタポタと、テーブルに涙が落ちる。
どちらに原因があるかは分からないが、子供を授かりにくいのは確かである。待ち望む我が子は、もう恵まれないのかもしれない。
でも夫は少しの可能性でも信じたかった。きっとまた、子供を授かれると。
再び沈黙が辺りを包んだ。その時――
ドンドンドンッ!
「!」
突然、激しく扉が叩かれた。
「どなたか、どなたかいらっしゃいませんか?」
ドンドンドンッ!
切羽詰まったような、女性の声。
ただ事じゃない雰囲気だった。
「あ、はい!」
夫は慌てて立ち上がり、扉に向かう。妻も後ろに続く。
施錠を外し、扉を開ける。
「どちらさま……」
言いかけて、思わず息をのんだ。
そこには一人の女性がずぶ濡れでうずくまっていた。
「……いけない! 風邪引きますよ。早く中へ」
夫は慌てて、女性を部屋の中へと促すが、彼女は動こうとしない。
妻は素早くタオルを取りに行った。
「どうしたんです? さあ、中へ……」。
「あの……この子を……」。
彼の言葉をさえぎり、女性はその腕にしっかりと抱えていた赤ん坊を差し出した。。
一瞬戸惑ったが、良く見ると赤ん坊もびしょ濡れである。
すぐに察した妻が、真新しいタオルで赤ん坊を包み、女性から受け取る。
「あなたも、中へ……」
妻が催促するが、変わらず女性はうずくまったままだ。
「いえ……私はいいんです。お願いです、その子を……助けてください」
「え?」
彼女の意図がつかめず、戸惑う二人。
「私の存在を、その子にも、他の誰にも言わないで下さい。ここで私と会ったことは、忘れてください」
涙声で、必死に訴える女性。訳が分からず、二人は戸惑うことしかできなかった。
女性は一枚の手紙を二人に差し出した。その紙は、不思議と濡れていなかった。
「これを……あまり時間がないのです。もう行かないと……」
「待って。……何の説明もなしに、この子を置いていくの? あなたの子なのよね?」
赤ん坊を抱えながら、妻が静かに問う。
「……その子の為なんです。ごめんなさい!」
「あ……」
質問に答えず、女性は走り去って行った。激しい雨の中、その姿はすぐに見えなくなった。
二人は追いかけることもできず、女性の消えたほうを見つめる。
「この紙……」
夫は、女性が置いていった紙を拾う。広げると、不思議な文様が縁に描かれていた。その中央にあの女性のものと思われる文章がつづられている。
「『私は今、追われています――」
夫が文章を読み上げる。
「――この子に罪はありません。巻き込みたくありません。普通の家庭で、普通の子として育ってほしい。だから、私の子だという事実は誰にも言わないで下さい。後、決してゼンドガルスへ近づけないようにして下さい。わがままなお願いですが、どうかよろしくお願いします』……名前は書いてないな」
妻は、ぐっすり眠っている赤ん坊を見つめた。濡れた体を、タオルで優しく拭き取る。
(珍しい痣……)
赤ん坊を拭きながら、その痣を見つめる。
「どうする?」
夫が妻に問う。
「どうするも何も……どうしようもないじゃない。この子を返すにしたって、あの人がどこへ行ったかも分からないし」
「……そうだな」
しばらく二人は黙っていたが、やがて妻が口を開いた。
「私が、育てるわ。私の子として」
そう言って、夫を見つめた。その目は真剣だった。
「その紙に書いてあることなんかどうだっていい。自分子供を見ず知らずの家に置いていくような女なんかに、この子を返せないわ」
妻は、憤りをあらわにして言う。
「……そうだな。お前の言うとおりだ。これも何かの縁だ。二人でこの子を育てよう。そして、出来るならば、この子の兄弟を作ってやろう、な?」
ボウッ!
「うわっ!」
突然、夫が持っていた紙が音を立てて燃えだした。一瞬で灰となり、霧散する。
「……読み終わったら燃えるように、法術がかけられていたのね」
唖然としつつも、妻がつぶやく。
二人は法術の知識はないが、紙に書かれた文様にそういう効果があったのだろう事は、なんとなく分かった。
そういう仕掛けをする以上、あの女性は本当に自らの存在を隠したいのだろう。
子供が出来ない夫婦に、天からの授かりものか、悪のいたずらか。
二人は複雑な思いを抱え、赤ん坊を見つめた。
何も知らない赤ん坊は、すやすやと寝息を立てている。
それは純粋無垢そのもの。子供に何も罪はないのだ。
二人は赤ん坊に名前を付け、自分の子として育てた。
雨の日に、本当の母親が自分たちに預けていったことも、なにか事件に関わっていそうなことも、何もかも隠して。
その時の赤ん坊は、10歳で聖霊魔術総合学園に入学した。
普通の子に育って――本当の母の願いが通じなかった、唯一の出来ごとだった。
二度と現れることのなかった、本当の母親。その存在すらまだ知らない子供。
雨音がもたらしたこの子の人生は、はたして本当に幸せへの道だったのだろうか。
いつも頭によぎる迷いは、全て愛情に変えて。
これからもわが子として大切に育てていくことだろう。
ミクロフィラ ショートストーリー「始まりの雨音」
――完――