共感と芸術
共感。
共感しない考え方は、ないのと同じ。
ひとりで思っただけの考えは、いずれ消えて、どこにも存在しない。
でも、ひとりで2回同じ事を思えば、それは存在する。
ひとり、一回は、今の時点では存在できない…いつかあったけどもういない。
二人でなにやら話をしている。
離れた所から様子を見ていても、二人の間に共通の認識が生まれたのがわかる。
二人は、共感して満足している。
二人に共感されたその認識は、既に二人から独立して、存在し始めた。
それは近いうちに、もっと多くの人間にも共感されるかもしれない。
そうなったら、立派な思考方法として、世の中に居場所を持つことになる。
共感した考えが、思考方法として居場所を持つか持たないかは、二人の立ち位置が関係している。
寄り添う近さでひそひそ共感しても、それは思考方法としての居場所はない。
ここだけの話、内緒話、悪口、秘密の話など、堂々と主張できない内容だから。
距離をおいての会話で共感した内容は、怒りか、喜びか、驚きか、または真剣な議論か。
いずれにしても、距離をおいた同士の会話は、多数の共感を得られるような、大きな内容と言うことだ。
昔LSD(麻薬)の経験者の話が面白かった。
ふたりは話さないのに、同じ映像を観ているような感覚になれたのだそうだ。
それだけではなく、少しの会話で、ストーリーも進み、一緒に笑い転げたとか。
そして、最高に興味深く驚いたのは、空を観ていると、離れた場所で誰かが
LSDの世界を共有しているのがわかると話してくれたことだった。
二人の人間が、イメージを強烈に共感したら、それは映像として実在する。
その映像は、そこにいない人にも、見えるのではないかと思っていたから。
クスリの助けを得なくても、ある距離を置いた同士が、心の底から湧き出る程強く共感したら、
それは、きっと映像として存在するのではないか。
だからたくさんの人間の共感を得る…それが芸術家の作品だろうと思っている。
芸術家は、画で、音楽で、踊りで、多くの人と自分との共感を具象化した。
だから、共感を得られない作品は、芸術とは言えないのかもしれない。