これは、
長いです。

神様、仏様菩薩とか、そういう存在についてです。

わたしは、実は親がまず信心深い方で、幼稚園は寺の幼稚園にいっていました。
当たり前に仏教を信心していて、仏教に関する書物を読んだり、将来は出家を夢みていました。

そして、小学校5年くらいには、寝る前には家の神棚と、守護霊様、守護神様に心の中でその日の反省や悩みなどを話し、最後には、今日1日お護り下さりありがとうございます。明日も宜しくお願い致します。
と、挨拶をして寝るのが習慣になっていました。

これは、誰かに言われた訳ではなく気がついたらしていたのできっかけは、覚えていません。

そんなある日のこと。
中学3年の頃の夜。
多分、思春期の年齢的なことがあったと思いますが、なんだか無性に淋しいような、不安な気持ちになって、眠れなくなりました。

わたし、どうしたんだろう。
あ、そうか。理由は分からないけど不安で仕方ないんだ。
それなら、とにかく、不安な気持ちが出るたびに安心するように言い聞かせて暗示をかけたらいいかも。

そう思ったわたしは、不安な気持ちが湧いてくる度に「…大丈夫。…大丈夫」と自分に暗示をかけるように、ひとつひとつ不安を取り除いていきました。
どんな不安か、などの不安の中身については一切考えず、とにかく大丈夫、の繰り返しでした。

多分、15分か30分くらいの、多分そんなに長くない時間が経って次第に気持ちが落ち着いてきたくらいのとき。

急にバッと意識が広がり、絶対的な安心と深い感謝しかない状態になりました。
そして永遠。

それしか言えませんが、とにかく安心と、感謝と、永遠。そして喜び。

わたしはただ存在そのもの。
時間もなく、永遠に、わたしはただ在る。
ただ在る。
存在そのものである。
全ての全て。

その圧倒的な感覚と、あふれる感謝。
宇宙には感謝しかない喜び。


1ヶ月半くらい、その感覚は続きました。
不思議と、その間の記憶はありません。ただ感謝と永遠しかないです。
ですが、徐々に感覚が薄れていくにつれ、日常の記憶も取り戻してきました。

・・・おもしろいですね(笑)
ちょっと残念な気はしますけど、多分感覚が戻らないまま生きていくのは大変だったと思うので、結果としては良かったかな、と。
記憶には残っていますし。


ただ、この体験以来、わたしの信仰は揺らぎましたし、結構ショックでした。
どう考えても、地球的な神様や仏様は、いなかったので。

神様仏様って、わたしがそれまで思っていたものではなかった。というかいない。
宇宙には、あえて呼ぶなら“存在”としか呼べないものしかない。
それは、祈る対象ではなく、ただひたすらに感謝し、喜ぶだけ。そしてそればわたしでもあり全てなんです。


わたしは、どうしようか考えました。
感覚が薄れていくにつれ、忘れてしまうから、せめて覚えておくためになにかしたい。
しばらく考えた末に、特定のイメージではない宇宙的な?神様・・・というか、“存在さん”に向かってなんの言葉も発せずにただ感謝の意識を向ける、ということにしました。

やがてそれから月日がたち、大人になって、結婚し、育児の忙しさに追われ、寝る前の祈りの時間は赤ちゃんの世話でいつの間にか忘れさりました。
宇宙人かそうじゃないか?などの悩みも日常生活の中に薄れていったころ。

はっきりいつぐらいとは覚えていませんが。
ある日、滅多にかからないインフルエンザにかかり、悪夢にうなされていました。

そんなさなか、夢に経本が出てきてお経が聞こえてきました。
また、姿ははっきりとはみえないけれど、薬師如来だな、と直感で分かりましたが如来が出てきました。

夢でお経を聞いているうちに少し落ち着いてきましたが、そのとき、ストンとある気付きがきました。

仏様菩薩様というのは、いわゆる慈悲だったり、哀れみだったり救済だったり、そういったエネルギーだが、
それは自我のないエネルギーの動きとして、マイナスが発生したらゼロになるように働きかける。

つまり、マイナスの・・・例えば悲しみ苦しみなどの偏りが生じたら、自動発生的にプラスの作用をするエネルギーが働き、慈悲だったり、救済だったり・・・それにより宇宙のバランスを保つ。

こう言ってしまうと、非常に味も素っ気もなくなりますが、実際は感情は抜きにして、エネルギーの性質と働きの問題。ただ中和しているんです。

それを、人間からみると
「奇跡的に助けてもらった」「不思議なお導きがあった」「バチがあたった」
など、感情的な情緒的な解釈になります。

これは、視点の特徴の違いもあると思います。

神様や仏様が、いない訳ではないが、よりエネルギー的に純粋に存在していて、自分の意思ではなく宇宙の法則に従ってエネルギーとして動いているだけです。

人間が思い描くような人格はない。
ただ、エネルギーの性質の違いはある。
それを、人格的に解釈しているのが人間。

より、善悪や感情、価値観などを入れずに純粋にエネルギーとしてみるようにしたら、宗教はなくなると思います。