ザックが交代枠を使い切らなかった理由が報道されている。

引用
『相手守備の間隙を縫うスルーパスを出せる青山を入れるつもりだったが、戦況を見て考え直したという。「攻撃にも体が強い選手がほしかったので吉田を前線に上げた。そうすると青山と交代で下げる選手がいなくなった」と説明した。』(共同)
引用終わり

結果、高さと肉体を誇る守備陣に対して吉田の高さで勝負するという迷采配を再び見せただけに終わった。
根が正直で率直なひとなんだろうけれど、こんな低レベルの種明かし、聞きたくなかった。

攻撃に身体の強い選手が欲しければ豊田や闘莉王だったろうとは書いた通りだ。

そうではなくて柿谷や香川のような選手を使ってワールドカップ出場国レベルの相手を崩せると思っていたから、そのようなメンバー選考になったはずで、それが南アフリカ以来、日本のサッカーファンの多数が攻撃面で望んでいたことであったはず。

だから、豊田や闘莉王を選ばなかった時点で、ここでの交代の選択肢は決まっていたはずで、そこは徹底して欲しかったと残念に思う。(書いたように自分ならば憲剛だが)

負けたからといって、誰も南アフリカの時のサッカーに戻してでも勝てとは言わないだろう。

しかし、だったらどうすればというところでは監督の数だけ、ファンの数だけ、評論家の数だけ意見はある。
悲しいのは、ザッケローニのとった策がなかでも一番稚拙な選択肢だったこと。

コートジボワール戦で戦術的対応ができなかったことに続いて、世界から取り残された監督であることが露呈されて、ザックのやり方を応援して来たものにしてみれば残念だ。
だが、監督がこれまでの方法論をこんなにあっさりと捨ててしまうなんて思わなかったもんね(笑)

それでも、日本代表はザッケローニ以前は彼の戦術レベルまでも達していなかったと自分は見ているわけで、まあ、4年間で結果は後退したけれど、内容はそんなでもなかったじゃんと負け惜しみ(なんの?)は書いておきたい。

良いサッカーをやるのは勝つためだが、勝てそうにない相手と対峙したときに何をどこまでやるのか。
それは常に難しい選択で、監督はその決断をするためにいる。

それなのに猫も杓子も「バルサのようにポゼッション70%にすれば勝率8割になる」からそれを目指してチーム作りすべきというクライフの言葉を振り回して、自分たちよりも強い相手と対峙したときには絶対にできない、あるいはやれば負けるだけの「良いサッカー、自分たちのサッカーをしよう」の大合唱がたったひとつの正義だった時代があるわけで、そのときよりは負けて諸説紛々になっている今の方がずいぶん健全なんじゃないのと思う。

ポゼッション70%にすれば勝率8割。
それは目指すサッカーのひとつの理想形ではあるけれど、互いにそれを目指すチーム同士がぶつかって両方が「ぽぜっしょん七拾ぱーせんと」になんてなるわけないのに、無邪気にそれを目指せと選手に語っていればサッカーコーチの肩書きを名乗れていた時代がようやく終わるはずで、少しほっとした気分ではいる。

サッカーコーチ、監督は指導者であると同時に勝負師でなければならない。
しかし、ザッケローニは残念ながら勝負師ではなかったのが日本サッカーの悲運。