友情の文学誌 (岩波新書)/高橋 英夫

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「およそ人間のいる所、必ず友情が生まれるという考えも成り立つ。それは貴賤貧富を問わない。老若男女にかかわらない。その点で友情には無条件性、普遍性があるのは確かだが、文学史上の友情はそれとはやや違う別の側面を示してきた。人間について言えば、志や夢や理想を求めている人物に「友情」が見えてくるのだ。シチュレーションでは、別離や失意が覆いかぶさってくる中で、パセティックな内面的な輝きを放つ「友情」が見えてくるのだ。この傾向が文学史通じて顕著だったことは否めない。」
「文学」をめぐる様々な友情について書かれています。漱石と子規、芥川龍之介とその周辺、白樺派の人達、小林秀雄一派、そしておまけとして杜甫と李白からプラトンまで・・・。どの「友情」にもそれぞれに独自の、様々な諸相が見えます。
特に白樺派についての記述が面白かったです。白樺派は、漱石を「先生」と見て互いに切磋琢磨をしつつも、特定の「師」としてはみることがなかった。漱石的な「運命」「宿命」から自由になることができた。「成長」という白樺派に通底する主題が出てくるのには、こういう背景がある。というもの。それが武者小路実篤の「友情」と漱石の「それから」をうまく対比させながら書かれていて興味深いです。
筆者は繰り返し、「師弟」の中での友情と同年代の友情とを、それぞれ縦の糸と横の糸として、友情関係とはその2つによる織物であるということを主張しています。その上で、漱石と寺田寅彦はそのどちらも兼ねていたし、漱石と子規なんかは単なる「縦」だけではなく、互いに「師」であり「弟」でもあった、などなど。寺田以外の漱石門下については、縦の糸が強すぎたために、漱石死後の混乱があったのだ、なんてことも書いてあります。
また友情の「近さ」についても同じくらい重要視しています。
例えば芥川の友情の、過度の「近さ」。手紙や日記を見てみても確かに異常です。その上で、そのような「近さ」に依存しつつ、それに疲弊していった芥川象を提示し、だからこそ晩年のキリスト教への傾倒(特にマリア様への)、つまり最も近くて、かつ遠い存在への全面的な愛に繋がっていくのだとも述べています。芥川論の中には似た見方もよくありますが、こと「友情」という面からのアプローチは新鮮でした。
そんな感じで様々な「友情」が書かれ、最後は小林秀雄一派です。
小林秀雄の友人イジメ。そこに叙情や感傷を一切認めない、小林秀雄独特の、硬質で過激な友情を見てとります。そしてそれは、「友情は外見上の友情には止まっていず、個々の文学者の個性や存在感や知的スタイルに沈澱していった」当時の世代の特徴でもあると。
まぁ、あんなことをするのは時代の変化よりも、単に「小林秀雄」だから。って気もするんですが、それより面白かったのは、その小林流の、息がつまるような友情、それを「風」のように(本文より)癒してくれる唯一の存在が河上徹太郎であったということでした。僕は今までそれは青山二郎がしていたのだろうと思っていたのです。でも、小林と河上の間で文学的な「棲み分け」をしたエピソードなんかを見ると、確かに小林秀雄には似合わないやわらかな友情のイメージが感じられますね。
そして最後の最後は、小林秀雄一派でありながら、その亜流であった、吉田健一。
自由で奔放、家族でさえ友情を見出してしまう、吉田健一を最後にもってくるのは、その後の平成にかけての「友情」の形の変化を示唆する作者の狙いなのでしょうか。
ちなみに、筆者はたぶんモーホーです。

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「およそ人間のいる所、必ず友情が生まれるという考えも成り立つ。それは貴賤貧富を問わない。老若男女にかかわらない。その点で友情には無条件性、普遍性があるのは確かだが、文学史上の友情はそれとはやや違う別の側面を示してきた。人間について言えば、志や夢や理想を求めている人物に「友情」が見えてくるのだ。シチュレーションでは、別離や失意が覆いかぶさってくる中で、パセティックな内面的な輝きを放つ「友情」が見えてくるのだ。この傾向が文学史通じて顕著だったことは否めない。」
「文学」をめぐる様々な友情について書かれています。漱石と子規、芥川龍之介とその周辺、白樺派の人達、小林秀雄一派、そしておまけとして杜甫と李白からプラトンまで・・・。どの「友情」にもそれぞれに独自の、様々な諸相が見えます。
特に白樺派についての記述が面白かったです。白樺派は、漱石を「先生」と見て互いに切磋琢磨をしつつも、特定の「師」としてはみることがなかった。漱石的な「運命」「宿命」から自由になることができた。「成長」という白樺派に通底する主題が出てくるのには、こういう背景がある。というもの。それが武者小路実篤の「友情」と漱石の「それから」をうまく対比させながら書かれていて興味深いです。
筆者は繰り返し、「師弟」の中での友情と同年代の友情とを、それぞれ縦の糸と横の糸として、友情関係とはその2つによる織物であるということを主張しています。その上で、漱石と寺田寅彦はそのどちらも兼ねていたし、漱石と子規なんかは単なる「縦」だけではなく、互いに「師」であり「弟」でもあった、などなど。寺田以外の漱石門下については、縦の糸が強すぎたために、漱石死後の混乱があったのだ、なんてことも書いてあります。
また友情の「近さ」についても同じくらい重要視しています。
例えば芥川の友情の、過度の「近さ」。手紙や日記を見てみても確かに異常です。その上で、そのような「近さ」に依存しつつ、それに疲弊していった芥川象を提示し、だからこそ晩年のキリスト教への傾倒(特にマリア様への)、つまり最も近くて、かつ遠い存在への全面的な愛に繋がっていくのだとも述べています。芥川論の中には似た見方もよくありますが、こと「友情」という面からのアプローチは新鮮でした。
そんな感じで様々な「友情」が書かれ、最後は小林秀雄一派です。
小林秀雄の友人イジメ。そこに叙情や感傷を一切認めない、小林秀雄独特の、硬質で過激な友情を見てとります。そしてそれは、「友情は外見上の友情には止まっていず、個々の文学者の個性や存在感や知的スタイルに沈澱していった」当時の世代の特徴でもあると。
まぁ、あんなことをするのは時代の変化よりも、単に「小林秀雄」だから。って気もするんですが、それより面白かったのは、その小林流の、息がつまるような友情、それを「風」のように(本文より)癒してくれる唯一の存在が河上徹太郎であったということでした。僕は今までそれは青山二郎がしていたのだろうと思っていたのです。でも、小林と河上の間で文学的な「棲み分け」をしたエピソードなんかを見ると、確かに小林秀雄には似合わないやわらかな友情のイメージが感じられますね。
そして最後の最後は、小林秀雄一派でありながら、その亜流であった、吉田健一。
自由で奔放、家族でさえ友情を見出してしまう、吉田健一を最後にもってくるのは、その後の平成にかけての「友情」の形の変化を示唆する作者の狙いなのでしょうか。
ちなみに、筆者はたぶんモーホーです。

