友情の文学誌 (岩波新書)/高橋 英夫

¥777
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「およそ人間のいる所、必ず友情が生まれるという考えも成り立つ。それは貴賤貧富を問わない。老若男女にかかわらない。その点で友情には無条件性、普遍性があるのは確かだが、文学史上の友情はそれとはやや違う別の側面を示してきた。人間について言えば、志や夢や理想を求めている人物に「友情」が見えてくるのだ。シチュレーションでは、別離や失意が覆いかぶさってくる中で、パセティックな内面的な輝きを放つ「友情」が見えてくるのだ。この傾向が文学史通じて顕著だったことは否めない。」



「文学」をめぐる様々な友情について書かれています。漱石と子規、芥川龍之介とその周辺、白樺派の人達、小林秀雄一派、そしておまけとして杜甫と李白からプラトンまで・・・。どの「友情」にもそれぞれに独自の、様々な諸相が見えます。

特に白樺派についての記述が面白かったです。白樺派は、漱石を「先生」と見て互いに切磋琢磨をしつつも、特定の「師」としてはみることがなかった。漱石的な「運命」「宿命」から自由になることができた。「成長」という白樺派に通底する主題が出てくるのには、こういう背景がある。というもの。それが武者小路実篤の「友情」と漱石の「それから」をうまく対比させながら書かれていて興味深いです。


筆者は繰り返し、「師弟」の中での友情と同年代の友情とを、それぞれ縦の糸と横の糸として、友情関係とはその2つによる織物であるということを主張しています。その上で、漱石と寺田寅彦はそのどちらも兼ねていたし、漱石と子規なんかは単なる「縦」だけではなく、互いに「師」であり「弟」でもあった、などなど。寺田以外の漱石門下については、縦の糸が強すぎたために、漱石死後の混乱があったのだ、なんてことも書いてあります。

また友情の「近さ」についても同じくらい重要視しています。
例えば芥川の友情の、過度の「近さ」。手紙や日記を見てみても確かに異常です。その上で、そのような「近さ」に依存しつつ、それに疲弊していった芥川象を提示し、だからこそ晩年のキリスト教への傾倒(特にマリア様への)、つまり最も近くて、かつ遠い存在への全面的な愛に繋がっていくのだとも述べています。芥川論の中には似た見方もよくありますが、こと「友情」という面からのアプローチは新鮮でした。


そんな感じで様々な「友情」が書かれ、最後は小林秀雄一派です。
小林秀雄の友人イジメ。そこに叙情や感傷を一切認めない、小林秀雄独特の、硬質で過激な友情を見てとります。そしてそれは、「友情は外見上の友情には止まっていず、個々の文学者の個性や存在感や知的スタイルに沈澱していった」当時の世代の特徴でもあると。
まぁ、あんなことをするのは時代の変化よりも、単に「小林秀雄」だから。って気もするんですが、それより面白かったのは、その小林流の、息がつまるような友情、それを「風」のように(本文より)癒してくれる唯一の存在が河上徹太郎であったということでした。僕は今までそれは青山二郎がしていたのだろうと思っていたのです。でも、小林と河上の間で文学的な「棲み分け」をしたエピソードなんかを見ると、確かに小林秀雄には似合わないやわらかな友情のイメージが感じられますね。

そして最後の最後は、小林秀雄一派でありながら、その亜流であった、吉田健一。
自由で奔放、家族でさえ友情を見出してしまう、吉田健一を最後にもってくるのは、その後の平成にかけての「友情」の形の変化を示唆する作者の狙いなのでしょうか。



ちなみに、筆者はたぶんモーホーです。


カブキの日 (新潮文庫)/小林 恭二

¥580
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さすがの小林恭二です。

いやー素晴らしかった。
これほど完成された「芸術小説」が今まであったかなってくらい。

懐かしさを覚える様なファンタジー小説でありながら、いかにもポストモダン文学って感じの知的で変幻自在な構成と筆致が見えるし、しかもそれでいて芸術の真髄とは何ぞやという主題をしっかりとえぐっています。
それらが力技ではなく、緻密に織り込まれているのがすんごい。


「革新」と「伝統」、「死」と「生」、「本質」と「形式」、「自由(混沌)」と「藝」。これらは伝統芸能においてよく主張される二項対立ではあるけれども、それらは本当に対立するものなのか。そもそも別の概念であるのか。それらを1つのものとして提示することができるのも藝術なのではないか。そういうことを筆者は小説という形式で問いかけています。
2つの物語が同時並行的に描かれ、それらが1つの話に収斂していくという手法は、さほど真新しいものではないですが、それぞれの物語の中で、読者を巻き込みつつこれらの対立軸を突き詰めていき、最終的には一気に加速しながら統合していくその流れの見事さに、僕は快感すら感じました。「すちゃらか」が名古屋丸へのアンチになっていたりと、ネタのふりまき具合も巧い。



物語では最後に蕪と月彦が、阿国と山三郎をそれぞれ継承することで、カブキはいわば「アダムとイブ」による原始の時代へと、歴史的な回帰を遂げるわけですが、そこの文章が特に素晴らしかったです。


「誰もが経験したことがないほど生命への共感を味わっていた。そしてそれは同時に死への共感にもつながっていた。生が素晴らしくて、なぜ死が素晴らしくないことがあろう。」

「月彦の麻衣は死の栄光を人に知らしめるような、気品と華やぎに満ちていた。そこには永訣としての死ではなく、次なる生命の段階へ進むため、いったん行動を休めて蛹になるような、そんな高揚した気分があった。
蕪はあくまで生の美しさ、生の喜びを踊り上げることで、愛人に「生はこんなに素晴らしいのよ、だから早く戻ってらっしゃい」と語りかけているようだった。
舞台上には生の華やぎと死の華やぎが交錯して、目も眩むばかりの生死の実相が顕現していた。」



生きながら死に、死にながら生きる、傾き者の姿。
歌舞伎を見に行きたくなっちゃう。



また、この小説では「亡霊」の話が折々に挿入されています
崇徳院であったり、「京右衛門」であったり、船舞台の人攫いであったり。また、京右衛門が、キリ場に阿国と山三郎が登場する演目を選ぶのも、きっと彼らがカブキの神様の亡霊に取りつかれていたがゆえなのではないでしょうか。
亡霊とは、藝術の、このような死と生の危うい緊張関係を保ったまま、永遠の命を手にしてしまったもののことなのでしょう。
物語の序盤で、「襲名披露への拍手は家門への拍手である」「人々が熱狂するのは、偉大な魂が受け継がれてきたという、その事実に対してである」というフレーズが印象的ではありますが、
京右衛門の死後、坂東京堂に継がせることで、その亡霊を沈めたという箇所から見ても、
亡霊の生々しい「生と死」をそのままに引き受けていくことが、やはり襲名という儀式の本当の姿なのだ、という作者の主張が垣間見れる気がします。



夕子ちゃんの近道 (講談社文庫)/長嶋 有

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長嶋有。

年齢の出自も分からない主人公が、なぜかフラココ屋というアンティークショップに住みついているところから始まる不思議な小説。
主人公とフラココ屋周辺の人との何気ない交流が描かれています。隣人の姉妹が双子で、姉が藝術学校に通う天才肌、妹が定時制学校に通うコスプレ好きのちょいメンヘラとか言う設定に、それなんてエロゲとツッコミたくなる気もしますがそういうお話ではございません。



さわやかな印象が残ります。
何か主人公が大きなことをするわけでもない。ただ周りの人間とのんびりと日常を送るだけ。ゆっくりと時間が流れています。
おそらく、その「さわやかさ」は、過去を決して否定しない登場人物たちの姿勢からも生まれるものなのでしょう。例えば、「アンティーク」や「相撲」といった「過去」を象徴したワードがポジティブなイメージで使われていることはとても重要です。やみくもに新しさを求めるわけではなく、周りの人や者との、時の流れに順じた穏やかな付き合いを続けていく。そんな人達の生活。


また小説の形式としても、一人称視点で、全て主人公の言葉で書かれているのですが、自分に疑問やツッコミを入れながら進めているところが特徴的です。例えばこんな感じに。

「いいや、伝えなくても。向かいの、遅くまで作業していたらしいバイクショップの若者が肩をすぼめて向こうの道を歩いて行くところだ。楽しくない夜に呑むワインだって、まずいよりはおいしいほうがいい。布団に戻る。瑞枝さんの家にはコルク抜きがあるだろうか。あるだろう。さっきは適当に返事をしてしまったが、瑞枝さんの子供の生死の提供者になっていいかどうか、改めて考えてみた。いいといえばいいし、困ると言えばすごく困る。そう思った。セックスはしたいだろうか。まあやぶさかでないと思った。」

(引用ところがアレですが、ここが一番しっくりきたので・・・)
このような記述が続くことによって、意識の分断を妨げられつつ、心地よい連続性が与えられている、そしてそのことがこの小説のさわやかな印象をさらに強いものにしているのは間違いありません。



ただし、読み終わった後、いささかの寂しさが生まれる小説でもあります。

穏やかに時がながれているとはいうものの、実は時間とともにほんの少しずつ環境が変わっていきます。例えば、夕子ちゃんはできちゃった結婚をするし、瑞枝さんはちょっと遠くに引っ越してしまう。店長はフランスに買い物に行く。そして主人公だけが、ちょっと取り残されている。いつのまにか連続性を持ったままでいるのは主人公だけになっていることに、読者は気づいてしまいます。ストーリーがないようで、実はしっかりとしたストーリーがあるんです。

主人公がかつて通っていた大学に行った時の描写

「『大学って不思議だな』車が門を出たところで振り向いて僕は言った。とても入ったり出たりしやすくて。実際に自分の家のように出入りするのに、ある時から突然、出たり入ったりしなくなる。」

来年同じ気持ちをもつだろう僕は、この文章にちょいとセンチになってしまいました。


自分は変わろうとしなくても、周りは少しずつ変わっていってしまう。
そのうちその差は思いのほかに広がっていて、自分のほうが変わらなくてはいけなくなる。でも別に変わりたいとも思わない。
妊娠した夕子ちゃんを見て主人公が思わず「いいなぁ」って思うのもなんとなくわかります。何かきっかけがなければ。同じ無精者として主人公には感情移入してしまいますね。


結局、主人公がなんとなしにフラココ屋を出ていくところで、この小説は終わります。
そしてこの数カ月を「旅をしているようだった」と振り返る。
でもだからと言って旅を止めるということでもないのでしょう。
主人公はきっと新たな場所で、新たな旅を始めるのだと思います。また新たな場所で無為でおだやかな日々を過ごしているに違いない。きっとそういう人間のはずです。





余談ですが、古き良き力士として「貴闘力」が称賛されている中で、「店長」だけが、「あいつ競馬場で大負けしてたの見たよ」ってポロリというセリフが個人的にはツボでした笑。