興味のある方は少ないかも知れないけれど
宗教の周辺をうろうろしてゐると
「惡」の問題にぶつかるやうな氣がする

人「神は何故惡を創ったのですか
何故惡の存在を許すのですか」

神はどう応へるだらう

神「何を表現するのかは人の自由だ
人は何故惡を表現するのか
自分らで表現しておいて
神に何故と問ふのか
勝手過ぎやしないか」

人「何故表現する余地を残したのですか…」

神「雁字搦めに決めて欲しかったのか
自分らに都合のいい自由だけ欲しいと言ってもさうは行かない」

判らないけれども
神に反することができるほど
神は狭量では無いのだらう

ひふみ神示 極め13
人民は神の中にゐるのであるから、いくら頑張っても神の外には出られん。
死んでも神の中にゐるのぞ、
思ふさまやりて得心改心、
われがわれがで苦しむのも薬と申すもの。

扶桑11
人民と申すものは天狗ざから、自分はよいのだが、世の中悪いのざと申してゐるなれど、
世の中と申すものは大神のハタラキの現れであるから、
大神の中でのうごきであるから、
世の中が悪いと思ふのは、
大神が悪いと思ふことになるのぢゃぞ、
其処に底知れぬ程の魔の仕組があるぞ、
気つけおくぞ。

善惡正邪
生病老死
悲喜交々
悲劇も喜劇も
戦争も滅亡も
平和も繁栄も
全てを含めて宇宙であり神なのだらう

※ 勿論これは一つの極論ではありまして
個々各々の日常におきまして
此れはそのまま持ち込むものでは無いやうにも思ひます



以前

月の写真に拘ってゐて

結構撮った

画像加工してあるけれども


深夜早朝の怪しい時間に

河川敷の暗い場所で撮影してゐて

怪しい人影に忍び寄られた事があったな

木の枝を踏む音で気付いて

じっと見てゐたら

遠ざかって行った

後から考へると

結構危なかったのかもしれない