『山の冬』

ハラルド・ソールベリ 

(1901年)

 

 

 

***2019年11月23日の日記***

 

 

チベットには

「ゾクチェン」と呼ばれる

教えがあって、

 

それはもともとは

チベットに古くからあった宗教、

 

「ボン教」

 

・・・によって伝えられてきた

教えなのだそうです。

 

 

チベットではその、

土着の「ゾクチェン」を、

 

当時の外来の新興宗教であった

仏教に取り入れて

継承してきたようで。

 

だからだと思いますが。

 

チベット仏教には、

一種独特な匂いがあるように

感じます。

 

 

これと似たようものが、

 

アイルランドの

キリスト教で。

 

アイルランドに

カトリックのキリスト教を広めた

宣教師である聖パトリックは。

 

かつて、

少年時代に奴隷として

アイルランドで何年も

過ごした経験があり。

 

そこで、

その地に根付く

土着の信仰だったドルイド教や、

 

それを心の支えにしていた

奴隷仲間の人達の思いに

直に触れるような経験を

したことから、

 

パトリックは、

その土着の信仰を完全に

消し去ってしまうことが

出来ずに。

 

ドルイド教とカトリックの教えを

うまく融合させて、

 

伝えていったのだそうです。

 

そのせいか、

アイルランドのキリスト教もまた、

一種独特な匂いを纏うことに

なりました。

 

 

ケルトが大好きで。

 

なおかつ聖書にも何かと

縁のあった私としては。

 

あの美しい『ケルズの書』は、

 

眺めるだけで、

倒れそうになりますニコニコ

 

素敵すぎて。

 

 

そこにもともとあった古いものを

壊したり奪ったりして、

 

新しく自分たちの形で

そこを覆いつくそうとした

 

「ローマ型」のキリスト教の

布教の在り方としては、

 

アイルランドのこのケースは、

とてもレアな形だったなぁ。

 

・・・と思いましたし。

 

 

そこになんというか。

 

「貴重さ」

 

・・・を感じたりしたものですおやすみ

 

 

仏教もまた。

 

様々な地で、

静かに根を下ろしていきましたが。

 

ローマ型キリスト教ほど、

「我」が強くなかったせいか。

 

それは。

 

伝わっていった場所によって、

育ち方にも多少違いが生まれて。

 

だから、その「匂い」も微妙に。

 

違うものになっていったような

感じがします。

 

 

私は。

 

日本の仏教にはあまり心惹かれる

ことはなかったのですが。

 

チベットの仏教にはなぜか。

 

ものすごく

惹かれたものですおやすみ

 

 

*******

 

 

話がだいぶ逸れて

しまいましたが。

 

 

そんなゾクチェンの教えによると、

 

その修行を完成させた人は

死んだあと、

 

肉体が虹の光となって

消えていくのだそうで。

 

それが、

「虹の身体」と

呼ばれているもので、

 

修行の完成の証にも

なるようなのですが。

 

 

それが出来るように

なったとしても、

 

それでも、

「輪廻の輪」から外れることが

出来ないというので

あるのならば。

 

 

本当に大事なことは。

 

やっぱり、

そこではないのだな。

 

・・・と。

 

 

私はあの時、

 

確信したのです。

 

 

パーティーの時の、

 

チベット僧の言葉と、

あの表情から。

 

 

*******

 

 

2006年から2007年に

かけては。

 

そうやって、

様々な出会いやイベントが

たくさん続きました。

 

 

暦の会は結局、

3回くらい行っただけで、

その後はもう、

行かなくなってしまいましたが。

 

あそこでは、

暦の会の彼や彼女とも

出会いましたし。

 

 

あの場に参加したことで、

私が本当に得たものは、

 

松本ひろみ先生との出会い。

 

つまりは、

シモン・ハレヴィさんの伝える

 

「ユダヤの伝統の中で

培われてきたカバラ」

 

・・・との出会いだった。

 

・・・と。

 

今は思いますおやすみ

 

 

そうして出会ったカバラによって、

 

私はそこから、

 

自分の「自我」について、

真面目に考えるように

なっていったのですから。

 

 

あの頃に私は、

やっと。

 

「美を出現させる」

 

・・・という、

自分の中にあった魂の目的を、

意識的に自覚するように

なったのだと思います。

 

 

当時でもすでに、

なんとなく解っていたことは。

 

今までずっと放置してきた

自分の自我のことを、

 

まず、しっかり理解したら。

 

その次にやることはきっと。

 

その「自我としての意識」を、

「魂の意識」にまで

昇華させることだ。

 

・・・ということで。

 

 

それが完成した時はきっと。

 

私の中に、

「美」が。

 

 

魂の美しさが

出現するのだろうと。

 

そんな風に思っていました。

 

 

 

もちろん。

 

「生命の木」は、

「個人」のことから

「全体」のことに至るまでの、

 

顕現した世界のすべてのことに

当てはまるシステムですから。

 

「美を出現させること」の意味が、

それひとつではないことも

解っていましたが。

 

 

世界をどうこう言う前に。

 

まずは自分自身が

「美」を体現できるように

ならなければ。

 

何も始まらない。と。

 

 

そんな風に思いましたおやすみ

 

 

*******

 

 

そのあたりが、

自分の中でだんだんと

見えてきた時。

 

ハッ!と、

気づいたことがありました。

 

 

レイオルトが、

最後に残していった言葉。

 

 

「必要なことは統合」

 

 

・・・というあの言葉の意味が、

はっきりと解った気がしたのです。

 

 

 

「あなたは誰?」と、

何度訊ねても。

 

レイオルトは昔から。

 

「私はあなたです」

 

・・・としか、

答えてくれませんでした。

 

 

そしてそれはきっと。

 

レイオルトは、

私の「魂」

 

私の、

ハイアーセルフだ。

 

・・・ということを意味して

いたのだろうということにも、

 

だんだんと気づき始めては

いましたが、

 

そのレイオルトが言っていた

「統合」というのは。

 

自我としての私(Lyrica)と。

真我としての私(レイオルト)の統合

 

・・・という意味だったのでは

ないのだろうか?

 

 

そしてそれこそが、

 

「美を出現させる」

 

・・・ということに、

なるのでは?

 

・・・と。

 

 

自分の中で。

 

何かがカチッと、

ハマったような感覚になりました。

 

 

そうして、思ったのです。

 

 

今後私は。

 

「レイオルトから聞いた」とか。

「レイオルトがこう言っていた」とか。

 

そうやって、

レイオルトを頼ることからは、

卒業しなければいけないな。と。

 

 

Lyricaが、

Lyrica自身として。

 

あのレイオルトを

体現できるようにならなければ

いけない。と。

 

 

そう思ったから私は。

 

レイオルトに何かを問いかける

ということを、

 

一切やめたのです。

 

 

*******

 

 

ここで少しだけ、

「言葉の定義」なのですが。

 

 

ここでは、

 

自我=今の自分

 

真我=魂としての自分

 

・・・で書きました。

 

 

けれども。

 

仏教とかインド哲学みたいな、

東洋系の教えでは、

 

「真我」は、

 

「すべてである私」

 

・・・を定義する言葉として

使っているように見えます。

 

 

カバラで生命の木を

勉強した時は、

 

「ティフェレット」は、

魂であり、真我であり、

ハイアーセルフであり。

 

・・・と習いましたが。

 

これはもしかすると。

 

西洋の伝統の中に、

東洋の伝統をミックスさせようと

した時に起こった、

 

勘違い。

 

・・・なのかもしれません。

 

 

ユダヤ教も、キリスト教も

イスラム教も。

 

ずっとそこに。

 

「神」

 

・・・という存在を頂いたうえで、

 

その「神」を、

 

「自分以外の存在」

 

・・・として物を考えてきました。

 

 

西洋では、

 

そういった思考形態に

慣れてきていましたから、

 

そういう文化の中では、

実は解っている人でさえ。

 

便宜上、

 

「神」

 

・・・という言葉を

使ったことでしょう。

 

 

なので。

 

生命の木でも、

一番上の「ケテル」には、

「神」が当てはめられて

いますが。

 

 

東洋的な物の見方をすると。

 

その「神」が、

「真我」になるわけです。

 

 

「本当の自分」

 

「すべてである私」

 

・・・のことです。

 

 

究極的に言うとすれば。

 

「無」

 

・・・です。

 

「無でありすべてであるもの」

 

「Nothing but Everything」

 

・・・です。

 

 

本当は。

 

こんなことは、

言葉だけ理解したところで、

あんまり意味はないです。

 

 

でも、それでも。

 

「頭で理解する」

 

・・・という段階の時は。

 

その「用語」が、

混乱のもとになることが

ありますので。

 

いちお、

書いておきました。

 

 

めんどくさいですね。

 

言葉って無気力

 

 

*******

 

 

話を戻しますが。

 

 

あの時解ったのは。

 

「私はLyricaです」と思っている、

今回の人生での自我が。

 

真我そのものを

体現できるようになることが、

 

私の今生の目的だったのだな。

 

・・・ということでした。

 

 

何世紀にも渡り、

何度も何度もここに

生まれてきては、

 

それぞれの時代の「自我」の

旅を見守り続けてきていた、

「レイオルト」

 

・・・という真我(魂)をです。

  

 

例えば。

 

魂の色が無色透明

だったとしたら。

 

その魂は、

「自我」という「色」を

身に纏っていて。

 

 

その「色」を

「個性」というのならば。

 

その「個性」を

創り上げたのはきっと。

 

今回の人生だけではなく、

「過去生」での経験もまた、

 

関わっているのだろうと。

 

 

そんなことも、

なんとなく解ってきました。

 

 

*******

 

 

自我も魂も。

 

結局は、

幻想です。

 

 

そして。

 

そう思っている私ですら、

それは。

 

あの、

19歳の時に一瞬垣間見た、

 

「すべてである私」

 

・・・の意識を記憶している、

自我の一部でしかありません。

 

 

ただ、

それだけのことです。

 

 

でもそれだけでは。

 

自分の中に、

「美」は出現しないのです。

 

 

 

そうやって。

 

いろんなことが

解っていくにつれ。

 

感動もまた、

大きくなっていきました。

 

 

 

この幻想の世界の中で

繰り広げられる

ゲームというものは。

 

なんて手が込んでいて、

なんて奥深いものなのだろう。

 

 

本当に。

なんて面白いんだろう。

 

・・・と。

 

 

でも。

 

そうやって

感動している自分も。

 

やっぱり、

 

「自我」

 

・・・なのですおやすみ

 

 

つづく

 

 

*******

 

 

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