湯島聖堂から10分ほと歩いて…
神田神社へ照れ
ここも行きたかった所…爆笑

神田神社  (神田明神)
【かんだじんじゃ】
当社は天平2年(730)に出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)により武蔵国豊島郡芝崎村―現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建されました。

その後、将門塚周辺で天変地異が頻発し、将門公の御神威として人々を恐れさせたため、時宗の遊行僧・真教上人が手厚く御霊をお慰めして、さらに延慶2年(1309)当社に奉祀いたしました。

戦国時代になると、太田道灌や北条氏綱といった名立たる武将によって手厚く崇敬されました。

慶長5年(1600)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、当社では徳川家康公が合戦に臨む際、戦勝のご祈祷を行ないました。

すると、9月15日、神田祭の日に見事に勝利し天下統一を果たされました。

これ以降、徳川将軍家より縁起の良い祭礼として絶やすことなく執り行うよう命ぜられました。

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。

以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。

明治時代に入り、社名を神田明神から神田神社に改称し、東京の守護神として「准勅祭社」「東京府社」に定められました。

明治7年(1874)には、はじめて東京に皇居をお定めになられた明治天皇が親しく御参拝になり御幣物を献じられました。

大正12年(1923)、未曾有の関東大震災により江戸時代後期を代表する社殿が焼失してしまいましたが、氏子崇敬者をはじめ東京の人々により、はやくも復興が計画され、昭和9年に当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート、総朱漆塗の社殿が再建されました。

昭和10年代後半より、日本は第二次世界大戦へと突入し東京は大空襲により一面焼け野原となってしまいました。

当社の境内も多くの建造物がほとんど烏有に帰しましたが、耐火構造の社殿のみわずかな損傷のみで戦災を耐えぬきました。


鳥居
鳥居を抜けて参道…
仲見世みたいなのもありますね爆笑


隨神門 
昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに再建プンプン

各所に配した文様は伝統的なテーマをもとにしつつ、オリジナルなデザインを使用えー

外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻を飾っているんよびっくり

また二層目に金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門公に由来するんだとかびっくり

その後、平成10年の『平成の御造替事業』によって、鮮やかに塗替えられたんやって照れ

外側正面に隨神像を配し、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神を安置えー

この像は熊本城域内の樹齢500年の楠で、加藤清正公お手植えと伝えられているものを使用しているんです照れ


手水は龍照れ
顔は…
おじいちゃんみたいやけど…ニヤリ


御社殿(国登録有形文化財) 
昭和9年に竣功。
権現造。
当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の社殿照れ

本殿・幣殿・拝殿さらに神饌所・宝庫が重なり合うように造られており、昭和初期の神社建築では新しい形式をもつんですえー

伊東忠太・大江新太郎・佐藤功一といった近代神社建築・都市建築を代表する建築家により設計プンプン

小屋組を鉄骨にして荷重を軽減し、柱間を少し狭めるなどして木造建築の姿に近づけ、鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が施されているんやってニヤリ

拝殿の手前を土間にし、その先を畳敷きの床にすることによって、参拝者が靴を履いたまま立って拝礼できるとともに、神職が床において祭式を行うこともできるという、現代社会に対応した構造が、昭和初期の段階で採り入れられているんだとかびっくり

昭和20年の東京大空襲にも耐え抜いたとかプンプン

平成元年に、参拝者の増加に伴い、本殿右脇にエアコン完備の「奥御殿」を造営。さらに、平成の御造替事業(平成6年〜11年)により、全面的に塗替・修復が行われ美しく甦ったんです照れ

江戸開府四〇〇年記念の年・平成15年9月、国登録有形文化財に登録爆笑

ちなみに、現社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造・総朱漆塗ニヤリ

江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われているんですえー

社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵の御紋が見えますおねがい

御祭神 
大己貴命 (おおなむちのみこと)
少彦名命 (すくなひこなのみこと)
平将門命 (たいらのまさかどのみこと) 

大己貴命 
だいこく様で縁結びの神様照れ
天平2年(730)ご鎮座えー
国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、縁結びの神様として崇敬されています照れ

また祖霊のいらっしゃる世界・幽冥(かくりよ)を守護する神とも言われているんよえー

大国主命(おおくにぬしのみこと)という別名もお持ちで、島根県の古社・出雲大社のご祭神でもあるよねニヤリ

国土経営・夫婦和合・縁結びの神様としてのご神徳があります照れ


少彦名命 
 えびす様で商売繁昌の神様照れ
商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様ニヤリ

日本に最初にお生まれになった神様のお一人・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)のお子様で、大海の彼方・常世(とこよ)の国よりいらっしゃり、手のひらに乗るほどの小さなお姿ながら知恵に優れ、だいこく様とともに日本の国づくりをされたんよえー


平将門命 
除災厄除の神様照れ
延慶2年(1309)にご奉祀えー

平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆け「兵(つわもの)」として、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったお方えー

明治7年(1874)に一時、摂社・将門神社に遷座されましたが、昭和59年に再びご本殿に奉祀され今日にいたってるんやってキョロキョロ


狛犬 
昭和8年5月、氏子有志により奉献プンプン

狛犬は、神社の守護役あるいは神さまの使いとして、邪気を払う役割を持つ存在プンプン

向って左側の一角獣を「狛犬」、右側を「獅子」と言いますが、両方あわせて「狛犬」というのが一般的なんやってえー

当社の狛犬は、正面を向いているという非常に珍しいもので、造形については、動物彫刻を得意とした池田勇八が原型を作成しているので、よりリアルで精悍な表情をしているびっくり


魚河岸水神社 
御祭神 
水神、弥都波能売命(みつはのめのみこと)

日本橋に魚市場があったころに徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため市場の守護神・大市場交易神として神田明神境内に祀られたが、明治6年(1873)9月に当時の魚市場内(日本橋長浜町2丁目4番地、現在の日本橋室町1丁目、本町1丁目周辺)に鎮座していた常磐稲荷神社の合殿に祀られたんだとかえー

明治24年(1891)に社名を魚河岸水神社と改め、更に明治34年(1901)9月、再び神田明神境内に遷座し末社として祀られ、盛大に水神祭が執り行われたとか爆笑


二頭身の狛犬…爆笑 
子狛犬を踏んづけてますねニヤリ 


小舟町八雲神社 
ご祭神 
建速須佐之男命  

鉄製天水桶
千代田区指定有形民俗文化財(平成17年4月1日指定)
この天水桶は、地上の高さ1,4メートルほどになる一対のものえー
なお、四角形の基壇と台座は石製照れ

銘文によれば、天水桶の奉納者は、江戸の魚問屋中に属する商人・遠州屋新兵衛他十名で、塩干肴や乾物などの流通を担った商人のことで、日本橋にあった魚市場の界隈に軒を並べて商いをしていたプンプン

鋳造したのは、江戸深川上大島町(江東区大島)の鋳物師・大田近江大掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜八)ニヤリ

釜屋六右衛門家は、11代続いた御用鋳物師の家系で、初代六右衛門は近江国栗太郡辻村(滋賀県栗東市辻)から寛永17年(1640)に出府しているプンプン

当初は芝に居を構えていたが、万治元年(1658)に大島村に転居えー
梵鐘、天水桶、茶釜、鍋、釜などを製造していたが、明治維新後に廃業…ショボーン


大伝馬町八雲神社 
御祭神 
建速須佐之男命  

鉄製天水桶
千代田区指定有形民俗文化財(平成16年4月1日指定)

この天水桶は、地上からの高さが1,4メートルほどになる一対のものびっくり

寸法は高さ76,7cm、口縁部の周囲287,3cm、口縁部の内径82,5cm。八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天水桶は鋳鉄製照れ

天水桶の口縁には「巴」が連続する文様が見られ、また台座は蓮弁(れんべん)を模した形にするなど、装飾も施されているんですえー

銘文によれば、この天水桶は、江戸深川上大島町(江東区大島)在住の御鋳物師(いもじ)である大田近江掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)が作成したもので、江戸の問屋仲間の一つ太物問屋仲間が天保10年(1839)6月に奉納したものニヤリ

太物問屋とは、反物などの流通を一手に扱う商人のことで、江戸でも日本橋界隈を中心に軒を並べていましたプンプン

大伝馬町八雲神社の運営費用は、最初は、宮元である大伝馬町が伝馬入用から賄っていましたが、後に太物問屋仲間が賄うようになりますえー

そのため天水桶には大伝馬町の名と共に太物問屋仲間の名前が刻まれていました照れ


江戸神社 
御祭神 
建速須佐之男命

大宝2年(702)に江戸の地・現在の皇居内に創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬されているんです照れ

慶長8年(1603)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616)に神田明神が現社地に遷座するとともに江戸神社も現社地に移ったプンプン

江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称されたんです照れ

慶長10年6月7日に初めて神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われたプンプン

明治元年(1868)に神社名を「須賀神社」に改めえー
同18年2月の火災により社殿を焼失、神田明神に仮遷座したガーン

その時に社名を今の名称である「江戸神社」に三度改めたとかえー

平成元年5月、今上天皇陛下ご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、翌12月に神輿庫を改修して、千貫神輿(昭和33年、鹿野喜平・作)を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至っています照れ

2年に一度の神田祭の時に、江戸神社千貫神輿が宮入しているんやってニヤリ


力石 
力石とは、若者たちが「力くらべ」に使った2〜30貫くらいの石のことで全国各地の神社仏閣などにあったやつえー

神田明神の力石は直径80cm・短径67cm で、文政5年(1822)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものとかびっくり

平成3年4月1日、文化財に指定されました照れ


角田竹冷の句碑
角田竹冷大正9年(1920)頃に建立された碑で、表面にえー

 白うをや はばかりながら 江戸の水 

 という俳人・角田竹冷の俳句が刻まれているキョロキョロ

意味はえー
白魚もとれる神田川の水は、恐れおおくも、その昔将軍さまのお茶の水にも召されたという江戸一番の名水照れ

角田竹冷(1858〜1919)は、本名を真平といい、代言人(今の弁護士)をつとめるかたわら、俳人としても名の知れた人物えー

尾崎紅葉らとともに秋声会を結成し正岡子規の日本派と並んで俳句革新運動を展開。また、旧神田区(千代田区の一部)の初代区会議長・衆議院議員をつとめるなど政治家としてもその手腕を発揮したんやって照れ


鳳輦神輿奉安殿 
神田祭において、一の宮・大己貴命がお乗りになる一の宮鳳輦、二の宮・少彦名命がお乗りになる二の宮神輿、神田明神大神輿を奉安照れ

神田祭の時にこの場所で「鳳輦神輿遷座祭」を執り行うとの事ニヤリ


末廣稲荷神社 
御祭神 
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

宇迦之御魂神、級長戸辺之命、級長津彦之命を祀っていた旧社で元和2年の頃の社で極めて古く、昔から庶民信仰が強かったとかえー

現社殿は昭和41年に再建プンプン

藤の花…見頃でした照れ 


三宿・金刀比羅神社 

三宿稲荷神社 
御祭神 
宇迦之御魂神

創建年は不詳ショボーン
江戸時代より神田三河町二丁目(他に皆川町、蝋燭町、旭町の一部が合併され、昭和10年に司町一丁目と改称えー

さらに昭和41年より内神田1,2丁目の一部に編入される)の守護神として信仰されていたえー
その後、当社12代神主・芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎プンプン

現在の社殿は、昭和41年10月7日に再建され、金刀羅大神と共に御鎮座プンプン


金刀比羅神社 
御祭神 
大物主命(おおものぬしのかみ)
金山彦命(かなやまひこのみこと)
天御中主命(あめのみなかぬしのみこと) 

天明3年(1783)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋二丁目両国町会)に創建プンプン

江戸時代には、神祇泊白川家の配下となり、祭祀が斎行されていたが、明治6年(1873)7月に村社に定められたかついては隅田川の船人たちの守護神として信仰され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業や遊芸を職とする人々の厚い信仰を集めたんやって照れ

昭和41年10月7日、両国より神田明神境内に遷座し、三宿稲荷神社とともに御鎮座されましたニヤリ


浦安稲荷神社 
御祭神 
宇迦之御魂神

元は江戸平川の河口に近い所(現内神田鎌倉町附近)に祀られていたもので、天保14年に遷座されました照れ


合祀殿 
平成24年に旧・籠祖神社社地に建立照れ

籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀しています照れ


祖霊社 
神田明神を尊崇なさった氏子・崇敬者の先祖をお祀りするお社えー


獅子山 <千代田区指定有形民俗文化財>
獅子山に乗る石獅子は武州下野の名工石切藤兵衛(別名・油売藤兵衛)が生涯でわずか3つしか造らなかったものの中の1つと伝えられ、3つの獅子は「坂東三獅子」として有名なんやってびっくり

能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したものみたいキョロキョロ

今日では、かわいい我が子に厳しい試練を与えるたとえとして知られています照れ

石獅子 
夫婦2頭
千代田区指定有形民俗文化財(平成3年4月1日指定)

本石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料とかびっくり

斎藤月岑・編『武江年表』には「文久2年(1862)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられてますプンプン

かつては神社境内参道の両脇に岩組の石獅子として据えられていたが、関東大震災により崩壊し子獅子を紛失、親獅子2頭を保存していたが、今上天皇陛下ご即位を奉祝し子獅子を新調し新たに「獅子山」として建立されたんやって照れ


神楽殿
色彩がめちゃ綺麗ラブ


だいこく様尊像 
高さ6,6メートル重さ約30トンで石造りとしては日本一のだいこく像として建立プンプン


えびす様尊像 
神田明神境内に新たに建立された鳳凰殿のとなりに、当社二の宮のご祭神『えびす様』のご尊像が建立プンプン

えびす様は正式の名前を少彦名命(すくなひこなのみこと)と言って、神話に木の実を舟にして海の彼方にある常世から来訪された小さな神様と伝えられています照れ

また『だいこく様』と力を合わせ日本の国作りを行われ、病人に医薬の道を教え、酒造りなど豊かな知恵を人々に授けられた福の神でもあるんよえー

今回建立されたご尊像は、海の仲間(イルカやタイやトビウオ)に守られて大海原を渡られる『えびす様』のお姿が造形されています照れ


ハート御神籤結びラブ


神田明神の境内にある「神田明神文化交流館EDOCCO」内のカフェ「MASU MASU(マスマス)」で見つけたぁ爆笑

神社声援(ジンジャエール)
1300年の歴史を誇る神田明神屈指のダジャレドリンクは、カフェの誕生にあわせて2018年12月から販売開始したとかキョロキョロ

単なるギャグ商品ではなく、すりおろし生姜を使ったこだわりのジンジャーエールってことで人気が爆発なんやぁ爆笑
一気に名物商品となったらしいニヤリ

贈答用は3本入り1200円から(送料別)えー
カフェメニューには「アップル神社声援(680円)」や「神社声援ハイボール(680円)」なんかもあるもようキョロキョロ

食べ物系なら「生姜焼き(ポーク神社)」も売っているんよ爆笑


神社声援 
とても神々しいオーラを放っているなぁ爆笑
ボトルがとても美しい照れ

生のすりおろしショウガが入っているから、ボトルを静かに逆さまにして混ぜてからえー
キャップを開けたらフレッシュな生姜の香りラブ
これぞ大人系の力強い香りやなぁ照れ

キリッとした辛さが際立っていて…
爽やかなうえにしっかりコクのある大人のジンジャーエールです照れ


東京都千代田区外神田2-16-2