築土神社から次は太田姫稲荷神社へプンプン
1キロほどの道程えー

太田姫稲荷神社
【おおたひめいなりじんじゃ】
太田姫稲荷神社は、戦国の数多い神社の中でも、窮めて豊かな霊験伝承と、古い由緒をもつ神社であります。

神社にまつわる古絵巻と、「駿河台文化史」(総和10年神田史研究会)によると当神社の縁起は九世紀の伝説に始まります。

百人一首の名歌で知られる参議小野篁は、その詩才は白楽天に比せられたほどで、平安時代第一の漢詩人といわれた実在の人物です。

彼は遣唐副使にまで選ばれましたが、上司の横ぐるまに対立して讒言されたことは有名な出来事です。

絵巻物の伝承によると、承和6年はじめ、篁が伯耆国名和港を出航して間もなく、海上ににわかに六、七丈の大波が荒狂い、雷鳴はげしく轟き、今にも海底に引込まれそうになりました。

篁は衣冠を正して舟のへさきに座り、普門品(観音経)を熱心に唱えていると白髪の老翁が波の上に現れて
「君は才職世にたぐいなき人であるから流罪になっても間もなく都へ呼返されるであろう。
しかし疱瘡(天然痘)を患れべば一命があぶない。
われは太田姫の命である。
わが像を常にまつればこの病にかかることはないであろう」と告げおわると八重の汐路をかきわけてかき消すように姿を消して行かれたという。

そのお告げのとおり、篁は翌年はやくも都へ呼返されました。

彼は自ら翁の像を刻み、常に護持していましたが、のちに山城国の南にある一口(いもあらい)の里に神社をつくって、祝い祭ったということです。

江戸の開祖として知られる太田資長朝臣(後の道灌)には最愛の姫君がいたが重い疱瘡にかかり、世にも頼りなく見えたところ、ある人が一口稲荷神社の故事を話したので急使をつかわして此の神に祈願した。

使いは幾日もなく、かの社から祈祷の一枝と幣をささげて帰ってきたが、この日からさしもに重かった病もぬぐうようにいえた。資長朝臣は崇敬の念深く城内本丸に一社建立した。

その後道灌資長はこの社を崇拝し、またこの姫君は此の社を深く信心してつかえるようになったが、ある時この神が白狐を現して、われこの城の鬼門を守るべし、と託宣されたので、ついに鬼門に移して太田姫稲荷大明神と奉唱するようになった。

今から約543年前第百三代後花園天皇の長禄元年(1457)のことである。

慶長8年(1603)徳川家康公が江戸城に入られた後、慶長11年(1606)江戸城大改築を行ない、城内にあったこの社を西丸の鬼門にあたる神田駿河台裏側の大坂に移された。

ためにこの坂は一口坂(いもあらいざか、後に鈴木淡路守の屋敷ができたので淡路坂ともいう)と呼ばれた。

その後、代々の将軍これを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当となりて神明奉仕した。この社は駿河台の鎮守として数々の霊験厚く神威いちじるしきこと筆にも絵にも書きつくすことはできない。と古絵巻は伝えています。

慶應2年(1866)本郷春木町より出火、これが大火となって、御神体を除神殿、末社、宝物什器及び別当居宅などを全焼し、
明治5年(1872)神社制度制定により神職司掌として神社奉仕をなす。

例祭日は毎年4月18日と定められ、後に5月15日とあらたむ。


鳥居 
三井住友海上火災本社ビルびっくり
都会だねニヤリ
駅でいうと、御茶ノ水と神保町と淡路町・小川町の間ぐらいにありますえー

こちらは江戸城を作ったといわれる太田道灌にちなんだ「道灌通り」にありますニヤリ

なぜ、この通りが「道灌通り」と呼ばれるかというと、太田道灌が1457年にこの「太田姫稲荷神社」を創建したと伝えられているからとかキョロキョロ


手水舎に近づくと…えー


鯉かな…びっくり
吐水魚は珍しいような…キョロキョロ
大きいわけでもなく小さいのが…またいい!爆笑 


拝殿 
「病を癒し災いを除ける神様 」
道灌の寵愛していた姫君が疱瘡にかかったおり、京都で疱瘡除けで知られる一口(いもあらい)稲荷を勧請し、江戸城内に祀ったのが始まりと伝わりますプンプン

その後、姫の病が治り、道灌も崇敬したところ、神使の白狐が現れ、鬼門を守るべしと託宣を下したため、江戸城鬼門に遷座し「太田姫稲荷神社」と名を改めたとかびっくり

街の中の小さな神社ですが、わざわざタクシーに乗って、乗り付けて拝んでいるかたも見かけますキョロキョロ

何かしら病気になったりすると、この太田姫稲荷神社に寄って、拝んでいくんだとかびっくり

御祭神 
宇迦之御魂命・菅原道真公・徳川家康公・金山彦命

金山彦命 
カナヤマヒコ神は、イザナミ命が火の神カグツチを生むときに陰部を焼かれて、病んで苦しみながら吐いた嘔吐物から、カナヤマヒメ神とともに生まれた神さまです照れ

兄妹神とも夫婦神ともいわれていますが、どちらとも定かではありませんキョロキョロ

ただ、製鉄の守護神としてタタラ(製鉄所)に祀られるカナヤコ神(金屋子神。神話には登場しない)は、この二神の御子神とされていますから、夫婦と考えていいかもねウインク

基本的な性格は鉱山の神さまプンプン
『古事記』では、この二神につづいて土の神と水の神が生まれたとあるかとから、鉱山で採れた鉱石や砂鉄を大量の水を使って選別し、粘土で作ったタタラに入れて、ふいごによる高熱で溶かして精錬するという、古代の製鉄の様子から連想された神さまだと考えられていますえー

こうした製鉄との関わりから、鍛冶の神や鋳物(いもの)の神としても信仰されています照れ

カナヤマヒコ神が神武東征のときに金鵄(きんし)を飛ばし、戦勝をもたらす霊威を発揮したといいますびっくり
これは優秀な鉄製武器の製造技術を背景にもつ包丁の神のルーツを物語っていると考えられますえー

このように、カナヤマヒコ神は、本来の鉱山の神という枠にとどまらない働きをする神さまなんやねニヤリ

たとえば、鉱山から掘り出された鉱石(荒金)は、精錬され、加工されてようやく人間の道具となりますえー

人間が便利に使う道具になって初めて金属文化が生まれますニヤリ

金属文化がどんどん発達するなかで、鉱山の神ももとの性格を発展させて、その守備範囲を拡大させたと考えればわかりやすいよねウインク

そうして剣、鏡、刀、矛(ほこ)、鋤(すき)、鍬(くわ)などを鍛える鍛冶はもちろんのこと、すべての金属に関する技工を守護する神としても霊力を発揮するようになりましたニコニコ

今日では、鍛冶、鋳物(いもの)などの金属関係全般の守護神として信仰されていて、この分野では一番の専門的な有力神なんよ照れ


店名かな?キョロキョロ 
今でも残ってるんかな?爆笑


狛犬
変わった格好の狛犬さんやねニヤリ
それに…かなりの年代物と見たプンプン


灯籠
趣のある灯籠…照れ


神輿庫
おぉ~中が見える爆笑
太田姫稲荷神社の例祭では、神輿渡御や直会などの神事が行われます照れ

また、五穀豊穣と商売繁盛を祈願する多くの人々が訪れるんだとか爆笑

神輿渡御は、太田姫稲荷神社から神田錦町、神田橋、小川町方面を巡行しますニヤリ
神輿は、氏子や崇敬者によって担がれ、威勢の良い掛け声が響き渡るんやって爆笑


御朱印は拝殿に置いてあって…セルフびっくり
赤と黒が混ざって…茶色に…キョロキョロ

東京都千代田区神田駿河台1-2-3


御茶ノ水と言えばこの風景 ラブ

御茶ノ水はお茶用の水に由来とかえー
第2代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ、1579~1632年)の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて神田山の東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成されたとかキョロキョロ

同じ頃、その北側にあった高林寺(こうりんじ)の境内から泉が湧き出て、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が「御茶ノ水」と呼ばれるようになったといわれていますプンプン

その後、高林寺は1657年(明暦3年)に起きた「明暦の大火」の後に現在地の文京区向丘に移転えー
そのため、現在は湧き水の名残はないが、JR御茶ノ水駅お茶の水橋口の交番横に地名「お茶の水」の由来の石碑が建てられているんやってニヤリ


JR秋葉原駅 昭和通口より徒歩5分位の所にお店がある欧風カリー Mさん照れ

外れた場所ながら客の入りも一定あり、人気店のようやねえー
スタッフは1人、席は12席ほどと小さめながら提供スピードが早いからいい!爆笑


野菜カレー 780円 
ややスパイシーでサラッとした欧風カリーニヤリ
野菜がたくさんやぁ爆笑
茄子、パプリカ、ニンジン、カボチャが絶妙な熱の通し方で美味い照れ

里芋やトマトなど普段野菜カレーを頼んでもでてこないような食材が入ってるのもよかったです照れ

秋葉原駅から365m
東京都千代田区神田和泉町1-7-13 SUZUKIビル 1F