靖国神社から九段下駅方面に戻り…
数分えー
築土神社へ照れ

築土神社   【つくどじんじゃ】
築土神社は940年(天慶3年)6月、関東平定後、藤原秀郷らの手で討たれ京都にさらされた平将門公の首を首桶に納め密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺)の観音堂に祀って津久戸明神と称したのが始まりで、江戸城築城後の1478年(文明10年)6月には、太田道灌が江戸城の乾(北西)に当社社殿を造営。

太田家の守護神、そして江戸城の鎮守神として厚く崇敬されました。

1552年(天文21年)11月には、上平河村内の田安郷(現在の九段坂上からモチノキ坂付近)に移転。

当時の境内地は極めて広大でその地名を冠して田安明神とも称し、山王(日枝神社)、神田(神田明神)とともに江戸三社の一つに数えられ、江戸庶民の崇敬の的となりました。

然るに1589年(天正17年)徳川家康江戸入城の際、江戸城拡張(二の丸等築造)のため下田安牛込見附米倉屋敷跡(現在のJR飯田橋駅付近)へ、さらに1616年(元和2年)には江戸城外堀拡張のため新宿区筑土八幡町へと移転し、築土明神と改称しました。

以後、徳川幕府との関係は親密となり、1654年(承応3年)2月、江戸城二の丸にあった東照宮(徳川家康之霊)の社殿を築土明神境内へ移築。

1657年(明暦3年)明暦の大火の際には、幕府より唐金水桶 ・金燈籠 ・銅瓦等の奉納援助金を受けました。

1634年(寛永11年)4月に記された『要用雑記』にも、「津久戸は御城内氏神につき、春日殿御取次ぎを以って御上様へ御札御守、差上げ候」「正、五、九月、津久戸明神神前に於いて御上様御祈祷仕る」と記されています(「春日殿」とは三代将軍家光の乳母で当時の大奥を取り仕切り、築土神社氏子内の江戸城北の丸に屋敷を構えていた)。

徳川幕府終焉後の1874年(明治7年)、氏子の請願により天孫降臨の神 ・天津彦火邇々杵尊を歓請し築土神社と改称。

1907年(明治40年)9月には幣帛供進社(村社)に指定されました。

同地に鎮座すること実に328年の長きに及ぶも、1945年(昭和20年)4月、戦災により社殿 ・社宝その他悉く全焼し、翌1946年(昭和21年)9月、千代田区富士見へ移転。さらに1954年(昭和29年)9月、九段中学校(現・九段中等教育学校)建設のため再び立ち退き余儀なくされ、現在地(九段中坂)にあった世継稲荷神社の敷地内へ移転し新社殿竣工。

1990年(平成2年)9月には鎮座1050年記念大祭を斎行した。

1994年(平成6年)5月、社殿老朽化に伴い社殿・社務所の大改築を実行し地上8階(地下1階)建てのビルが完成(千代田区都市景観賞受賞)。

社殿もコンクリート壁の現代的な神社となった(この時、境内にあった末社の木津川天満宮より築土神社の「相殿(あいどの)」に菅原道真公を配祀)。

ビル名は「アイレックスビル」と名付けられたが、「アイレックス」とはモチの木を意味し、かつて築土神社が九段坂からモチの木坂に至る田安の地に鎮座していたことにちなんでこの名が付けられた。参道入口にはビルのシンボルとしてモチの木が植えられている。


鳥居
築土神社の鳥居は明神鳥居という型の鉄製で、その上空には、「武道の神様」である平将門公の御威光にあやかった長さ5メートル程の巨大な剣が掲げられているみたいやけど…キョロキョロ
ビルが工事中ガーン


鳥居の両脇には籠瀬満夫氏作の狛犬が置かれ,左脇には当社の神木として「モチの木」を植栽ニヤリ

「モチの木」は常葉樹で、一年を通して緑色に輝き、葉が落ちないことから、縁起が良いとされ、商売繁盛や身心健康を願う人々に親しまれているんやって爆笑


手水舎
龍…照れ



社殿 
現在の築土神社の社殿は、一見、住吉造であるが、一部に神明造風の構造を取り入れた独特の様相を呈しているよねびっくり
いわば、住吉造と神明造の融合型みたいな…キョロキョロ

特に高さと奥行があり、円形の宮柱とむき出しのコンクリートが、社殿の荘厳さに一層の磨きをかけてますね照れ

昇殿参拝を希望した場合は回廊を通り拝殿へ上がり、ここで神職の祈祷を受ける事ができますニヤリ

殿内は全てコンクリート壁で、特に装飾はなく非常にシンプルな造りであるが、床暖房完備で冬でも暖かいとか照れ

本殿御内陣(御扉の中)にはさらに三つの扉があり、それぞれ天津彦火邇々杵尊、平将門公之霊、菅原道真公之霊が祀られています照れ

主神
天津彦火邇々杵尊 

相殿
平将門公 
菅原道真公 

 天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと) 
築土神社の「主神(しゅしん)」である天津彦火邇々杵尊は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫にあたる神で、日本国を治めるべく高天原(たかまのはら)から三種の神器(鏡・剣・玉飾)を持って霧島山へ降臨し、天皇系統の礎を築いた(天孫降臨)プンプン

築土神社には明治7年に霧島神宮(鹿児島県姶良郡霧島町)より勧請えー
これは、それまで当社唯一の祭神であった平将門公が明治政府に冷遇されたため、便宜上、天皇と関わりの深い神を「主神」として祀り上げることで、当時の社格を意識したものと思われますねキョロキョロ

 御神徳
「工事安全」「子孫繁栄」等
邇々杵尊はわが国を最初に統治し、その土台を築きましたプンプン

この土台の上に国が成り立ち、以来、我が国は、初代神武天皇より現在まで実に125代もの間、絶えず繁栄を続けることができましたニヤリ

国の「土台を築いた」邇々杵尊は、まさに「築土」の神と呼ぶにふさわしい神様やね照れ

 平将門公(たいらのまさかどこう)
築土神社の相殿神である平将門公は、桓武天皇第五代の子孫で、幼少より文武両道に優れ朝廷のためにもよく尽くしていたプンプン

しかし父・良将が病死するに及んで一族間に内紛が起こりやがて拡大ガーン

将門公は東国の下総にて決起し、たちまちにして関東八国を平定えー

自ら「新皇」と称して政治に革新を図るも、天慶3年(940年)2月、平貞盛と藤原秀郷の奇襲を受け、馬上陣頭に立ち戦い壮絶な戦死えーん
時に38歳の生涯ショボーン

将門公は、死後、東国においては英雄として祀り上げられるも、明治になると「皇国史観」(天皇への忠義を重んじる歴史観)の影響もあり、将門公を天皇に反抗した「逆賊」のように評する風潮も一部に見受けられたとかえー

そのため、築土神社では便宜上、天津彦火邇々杵尊を勧請してこれを主神とし、他方で将門公は相殿神とされることとなったとかえー
 
御神徳
「武勇長久」「勝運向上」等
将門公は関東にて戦場を縦横無尽に駆け巡り、多くの勝利を収めました爆笑

そしてその死後は、関東の英雄 ・武道の神様として崇められ、現在でも、「武道の殿堂」といわれる日本武道館(千代田区北の丸公園)の氏神として、築土神社の本殿に鎮座しています照れ

菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
かつて築土神社境内には、「木津川天満宮」という末社が置かれていたとかキョロキョロ
創始の由来は不明であるが、文政3年(1820年)刊の『天満宮御傳記略』にすでにその存在が確認できるんですえー

菅原道真公はもともとこの「木津川天満宮」の御祭神であったが、1994年の境内工事の際に取り壊され、道真公は築土神社の相殿に配祀ニヤリ

道真公は承和12年(845年)京都に生まれ、
わずか5歳で和歌を詠み、10歳を過ぎて漢詩を創作し神童と称された爆笑

そして元慶元年(877年)33歳で式部少補に任じられ文章博士となり、学者として最高の栄進を続けたんですニヤリ

さらに昌泰2年(899年)55歳の時には右大臣、従二位に叙せられるも、延喜元年(901年)急転して大宰府(福岡県)へ左遷ショボーン

大宰府では窮迫の日々を送り、延喜3年(903年)2月25日、59歳で没したショボーン

御神徳
「学業成就」「栄進出世」等
道真公はすでに学歴社会であった一千余年前、学者として最高の地位を確立し、漢詩や和歌から書画に至るまであらゆる学問に精通していたと云われます照れ

そんな道真公は学問の神様として、今も全国に広く崇められていますよねウインク


狛犬 
社殿前に置かれたこの狛犬は、1780年(安永9年)元飯田町の氏子により奉納されもので、一方の頭上には「角」、もう一方には「宝珠」が付けられているんよニヤリ

台座にはそれぞれ「安永九庚子十一月元飯田町総氏子中奉納善龍山成就院性真代」「安永九庚子冬十有一月勝敏徳書市谷田町三丁目石工平十郎」との銘が刻まれているキョロキョロ
「善龍山成就院」とは天台宗の成就院楞厳寺(じょうじゅいんりょうごんじ)のことで、神仏分離前の築土神社の別当とかびっくり

この狛犬は現在千代田区内に現存する狛犬の中では最も古いものであり、平成8年に千代田区有形文化財に指定されました照れ


シャクナゲが綺麗でした照れ


世継稲荷(田安稲荷) 
世継(よつぎ)稲荷は1441年(嘉吉元年)、飯田町(現 ・九段坂~中坂付近)に創建照れ

当時この辺一帯を田安郷と云ったことから、田安(たやす)稲荷と称されたプンプン

その後1590年(天正18年)徳川家康江戸入城の折、二代将軍徳川秀忠この地を巡覧し途中当社を参詣えー

当社に橙(ダイダイ)の木があるのを見て、これが「代々」と同音であったことから「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛し、以来、世継稲荷と云われるようになったとかウインク

ちなみに世継稲荷の縁起では、秀忠がこの地を巡覧した時、十七軒ほどあった民家の村人がみんな畑仕事に出ていて、飯田喜兵衛なる者のみ残っておりこの辺を案内したので、秀忠はこの地を「飯田町」と名付けたとされるが、この地を巡覧し「飯田町」と名付けたのは、秀忠ではなく家康であったとの説も有力とかえー

江戸時代に入ると飯田町には武家屋敷が連なり、世継稲荷も当時は幕臣 ・松平主計頭近鎮(まつだいらかずえのかみちかしげ:1645-1716)の屋敷内に鎮座した(「近鎮」は「ちかやす」とも読む)えー

近鎮は豊後府内藩(ぶんごふないはん:大分県[22200石])の初代藩主・松平忠昭(1617-1693)の次男で、延宝4年(1676年)に二代藩主となった長男近陣(ちかのぶ:1638-1720)より1500石を分与されていたんだとかえー

近鎮の一族は三河加茂郡の大給(おぎゅう:現・愛知県豊田市)を本拠とした戦国武将・松平乗元(のりもと:1443-1537)の子孫であったことから、特に「大給松平」ともいわれたんですニヤリ

然るに1697年(元禄10年)の大火で、同地周辺は町家となったことから翌1698年(元禄11年)に社殿を再建し、世継稲荷を飯田町住人たちの鎮守神とした(この火災で飯田町の武家屋敷・町家等全部焼けたので町民は築地に替地を賜りこれを南飯田町とし、当社の方は元飯田町とされた)ニヤリ

さらに1730年(享保15年)徳川御三卿田安家が九段坂上の田安門内に居館すると、田安家の鎮守神としても崇敬えー

江戸中期になると当社は毎月一日と六日を縁日として100店近い露店で賑わい、一六稲荷とも称されました爆笑

また毎年二月初午の日には地元の俳諧が集まって「飯田町世継稲荷奉灯句合」と題する大がかりな句合(くあわせ)が行われ、当時飯田町中坂下に居住していた滝沢馬琴(1767-1848年)による直筆の絵画等も納められた。さらに文久2年(1862年)には14代将軍家茂の正妻 ・和宮(1846-1877年)も子宝を願い当社を参詣照れ

当時の社殿は壮麗で、その天井には光琳派の花鳥絵をはじめ日本画の大家 ・椿椿山(1801-1854年)の筆による雲龍が描かれ江戸名所の一つに数えられていたが、1945年(昭和20年)3月戦災により社殿社宝等全焼ガーン

当時当社に常駐の山本岸太郎氏は御神体を守るため犠牲となり社殿と共に焼死したえーん(1955年、当時の総理大臣鳩山一郎氏協賛のもと世継稲荷敷地内に慰霊碑が建てられている)。

その後1954年(昭和29年)に築土神社が当社敷地内に遷座するに伴い世継稲荷社殿を再建プンプン
さらに1994年(平成6年)5月築土神社社殿の老朽化に伴う改築の一環として世継稲荷社殿も改築ウインク

社殿左脇には今も神木として橙(ダイダイ)の木が植えられており、子宝や後継者を願う人々に親しまれています照れ


お狐さま…
色っぽいよね照れ


山本社司の碑 
終戦間近の1945年3月10日、東京大空襲により世継稲荷(築土神社末社)の社殿全焼えーん
このとき当社駐在の山本岸太郎は妻の制止を振り切り、激しく燃え崩れる世継稲荷社殿へ飛び込んだプンプン
遺体で発見された時、その腕には焼け焦げた世継稲荷の御神体が抱かれていたとか…ショボーン

1955年山本岸太郎十年祭の折、当時の総理大臣鳩山一郎氏の協賛により当社の境内に山本岸太郎の慰霊碑が建立プンプン

慰霊碑には「山本社司之碑 昭和二十年三月十日戦災に御神体を抱持し此の地に歿す 十年祭に建立 世継稲荷講 総理大臣鳩山一郎書」と…キョロキョロ


力石 
この力石は元飯田町(現 ・九段北1丁目及び富士見1丁目周辺)の氏子による奉納で、平成元年に千代田区有形文化財に指定されているんやってニヤリ

「奉納 元飯田町万屋」「中坂下」との銘があることから、江戸時代中期以降のものと思われるみたいキョロキョロ
中央にはそれぞれ、「五十三メ目(約198キロ)」「三拾貫余(約112キロ)」と刻まれている(「メ」は「貫」の略字)えー

当時の重さの単位は「貫」や「貫目」などで表し、一貫の重さは約3.75キロプンプン

力石は江戸時代、神社や寺の境内で地元の若者たちが力比べに用いたんやね爆笑


以前の稲荷かな?キョロキョロ


東京都千代田区九段北1-14-21


鐘ヶ淵駅前の近いカフェでランチ やぁ爆笑
CAFE ぷろーすと(カフェ プロースト)さん
外観はピンクっぽい壁面に木の扉で可愛らしい雰囲気のカフェ照れ

内観は窓側にカウンター席、それ以外はテーブル席が5つ程あるこじんまりたした空間キョロキョロ

ワンプレーとランチと筆頭にスペアリブご飯、ローストビーフご飯、カレーや半田そうめんなどなど・・ニヤリ


ローストビーフがめちゃ美味しそうだったから注文爆笑
2310円キョロキョロ
そこそこの値段・・・ガーン
お会計まで値段はわからんかった・・えーん
入口には値段が書いてあったみただけど・・キョロキョロ
店内はメニューだけで値段表記がなかったからガーン


花びら風に盛り付けされたローストビーフラブ
お肉は柔らかくしっとりとしていて、下味の黒胡椒が効いていてスパイシーな味わいです照れ
にんにく醤油や玉ねぎソース(ポン酢)を交互につけながら…
至福の時を過ごしました照れ

鐘ケ淵駅から84m 
東京都墨田区墨田5-44-10