東京に来て3日目…
夕方にやっと仕事が終わり…
ここからはプライベート時間
行きたかった上野東照宮へ
上野東照宮
【うえのとうしょうぐう】
上野東照宮は1627年創建の東京都台東区上野公園に鎮座する神社です。
東照宮とは徳川家康公(東照大権現)を神様としてお祀りする神社で、日光や久能山の他、全国に数多くございます。
当宮は出世、勝利、健康長寿に特に御利益があるとされ信仰されています。
金色殿などの豪華な建造物は、戦争や地震にも崩壊を免れた貴重な江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されており、国内はもとより、海外からも多くの方がお参りされます。
1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。
天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍が建立されました。
1627年(寛永四年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。
1646年(正保3年)には朝廷より正式に宮号を授けられ「東照宮」となりました。
現存する金色殿や透塀、唐門は1651年(慶安四年)に三代将軍・徳川家光公が造営替えをしたもので、遠く日光までお参りに行くことができない江戸の人々のために、日光東照宮に準じた豪華な金色殿を建立しました。
この造営替えに際し約250基の灯籠が全国の大名から競うように奉納されました。
幕末には寛永寺の伽藍や子院の多くが消失する上野戦争が勃発しましたが、上野東照宮には火の手が及びませんでした。
関東大震災にも倒れず、第二次世界大戦の東京大空襲では金色殿のすぐ裏に焼夷弾が投下されましたが幸いにも不発弾で金色殿の倒壊は免れました。
明治時代には神仏分離令の為、境内の五重塔を寛永寺に譲渡(現在は東京都の管理)するなど、江戸時代と比べ境内地は縮小されましたが、江戸初期に建立された金色殿が数々の困難を乗り越え現存することは奇跡的で、強運な神君の御遺徳の賜物と言われています。
春は牡丹・桜の名所として、秋は紅葉、ダリア展、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の方で大変賑わい、強運、出世、勝利、健康長寿などの祈願成就を願う方が後を絶ちません。
かつて江戸の人々の家康公への信仰の対象であったこの御宮は、江戸時代と変わらぬ姿で今もなお多くの方に心の安らぎを与えています。
小松宮彰仁親王
小松宮彰仁親王は、江戸時代末期の弘化3年(1846)に皇族伏見宮邦家親王の第8皇子として誕生
戊辰戦争で奥羽討伐総督として官軍を指揮したほか、のちの西南戦争でも旅団を指揮して出征しています
明治時代は欧州王族の例に倣って日本の皇族も進んで軍務に就くべきという雰囲気が皇族内にあり、彰仁親王もそれを奨励し、自らも多くの戦場に立ったことで知られているんやって
明治23年(1890)には陸軍大将となり、近衛師団長、参謀総長という要職を歴任しています(のちに元帥)
また軍務の一方で、日本赤十字社の総裁として赤十字活動の奨励・発展に尽力するなど社会奉仕・事業団体の総裁を務め、現在、皇族が公務として行っている社会活動の礎となりました
なお銅像建立を提案したのは、西南戦争の際に負傷者介護にあたる公的機関(のちの博愛社。日本赤十字社の前身)の設立を提唱した佐野常民で、明治35年の日本赤十字社設立25周年の記念として
像は、勲章を佩用した軍装の乗馬姿で明治45年(1912)に除幕
上野動物園正面入り口・向かって左側の木々に囲まれた場所にあります
見所は軍装の装飾(正帽の前立は見事です)、勲章、装備、馬具の精緻きわまる描写
そして並足の騎馬の抑えた躍動感と馬上の親王の凛として威厳あるたたずまい
周囲には桜の木があり、花咲く春が銅像の見ごろと言えるかもしれませんね
大石鳥居
巨大な石の鳥居(神社の門)が、上野東照宮の境内への入り口を示しています
その頑丈な作りと平凡な姿は、1633年から続く、苦難と時には謎に満ちた歴史を代表してるんよ
大石鳥居は、大名の酒井忠世(1572年~1636年)が、主人であった徳川家康(1543年~1616年)を讃えるために建てたもの
徳川幕府の創立者である家康は、酒井を味方として信頼していました
死後に神格化された家康は、1627年以降、上野東照宮に祀られています
酒井は、鳥居のために、遠く離れた備前国(現在の岡山県)から高品質の花崗岩を確保しており、出費を惜しみませんでした
酒井による巨大な鳥居は、およそ50年にわたり安らかに佇んでいました
ところが、天和時代(1681年~1684年)のある時点で、鳥居は解体され埋められてしまいました
その理由は分かっていませんが…
江戸時代(1603年~1868年)には同様の事件は珍しくありませんでした
社会的地位の高い一族であっても、様々な理由で支持を失うことがあるんよ
こうして身を落とすと、当人たちのモニュメントが撤去されることもしばしば…とか
どのような理由で一時的に撤去されたにせよ、鳥居は1734年には酒井忠世の子孫である酒井忠朝(1710年~1772年)によって掘り起こされ、元の場所に立て直されたことで、復活を遂げたんやぁ
鳥居の根本は最大で地下4mの深さに埋まっているからか、鳥居は1734年以降、東京を襲った自然災害や人為災害の全てに耐えてきたんだとか
なかでも1923年に起きたマグニチュード7.9の関東大震災では、東京が壊滅し、10万人以上が犠牲に
大石鳥居は重要文化財に指定されています
神門かな
手水舎
思ったより…小さい手水舎
神楽殿
1874年(明治4年)に深川木場組合により奉納
御神楽や琵琶などの伝統芸能が奉納される所なんよ
創設当時は屋根の美しさは都下随一だと言われていたとか
大きな鈴がかかった手水舎が
あまりの大きさにビックリ。
なぜ手水舎に鈴?しかもなぜこんなに大きいの?
今は参道向かいに別の手水舎があり、こちらに水は張られていませんが…
今は参道向かいに別の手水舎があり、こちらに水は張られていませんが…
鈴を両手で持って揺らしてみると、ゆらゆらと震えましたが…鳴らない
鈴に銘が彫り込まれてる
酒井八右衛門(井亀泉)という、江戸三大石匠の有名な石工が奉納したものとか
わざわざ「狛犬の石工」と紹介されています
普通、石工は依頼を受けて奉納物を作り出す方ですが、これは奉納する側に周ったもの
四代に渡り名を継いだということから、裕福な石屋だったことが伺えます
どうやら、八右衛門はこの鈴を奉納し、飾られたのがこの手水舎だったようですね
みんな、手を洗うときに、目の前の鈴にばかり気を取られて、水浸しになっちゃいそうやね
唐門
唐門は慶安4年(1651)に建築
前後が唐破風、左右の本柱(円柱)2本と控柱(方柱)2本で上部組物を受けた向(むこう)唐門であり、正式名称は、唐破風造り四脚門なんよ
門の内側の両側上部にある松竹梅と金鶏鳥の彫り物は室町・桃山の技術を集大成した傑作なんやって
狛犬
ライオンみたいな風格がありますね
徳川御三家が寄進した銅燈籠
灯籠は銅でできています
銅の灯籠は一つを除いて全て現在の社殿が完成した 1651 年に上野東照宮に寄進されたものなんやって
寄進したのは豊かな大名達で、彼らは徳川幕府への忠誠心を示すために、これらの大きく、非常に高価な飾りを贈ったのです
なんといっても上野東照宮は徳川幕府を開いた徳川家康( 1543~1616 )を神道の神様として祀っているわけですから
1651 年に寄進された 49 基の灯籠のうち、 6 基は唐門の横という栄誉ある場所を与え
られています
られています
尾張家、紀伊家、水戸家から 2 基ずつ寄進されたもの
これらは家康の直系である徳川「御三家」で、御三家は現在の将軍に後嗣ができなかった場合に次の将軍を輩出することになっていました
灯籠の上部は形を変える海の妖怪(蜃)から蓮の花のような仏教的造形までに至る様々なモチーフに飾られており、基部には寄進した大名の名前と位が刻まれています
基部は 8 角形で、 1651 年に寄進された灯籠を、それ以前に寄進された 1 基から区別できる特徴となっています
上野東照宮が創設された年である 1627 年に、この神社を建立した藤堂高虎(1556~ 1630 )によって寄進された円形の基部を持つ銅灯籠を見つけてみてくださいね
装飾目的で設置され、一度も灯りとして使われることのなかったこれらの灯籠は、1867 年に徳川幕府が倒れた後に敷地が大幅に縮小されるまでの間、何世紀にもわたって広大な神社の境内全体に散らばっていました
装飾目的で設置され、一度も灯りとして使われることのなかったこれらの灯籠は、1867 年に徳川幕府が倒れた後に敷地が大幅に縮小されるまでの間、何世紀にもわたって広大な神社の境内全体に散らばっていました
敷地が狭くなったことにより、灯籠は距離を詰めて並べなければなりません
これらの灯籠は軍事目的で回収されて溶かされるのを防ぐために第 2 次世界大戦前に国宝に指定されましたが、それでも 2 基の灯籠が戦争中に盗まれてしまいました
残った 48 基は現在、重要文化財に指定されています
虎の石彫
家康公の年、壬寅のと考えいますが・・詳細は不明とか・・
御神木の大楠
高さ25 m、幹の太さ8mの大樹で、樹齢は600年以上
上野東照宮の創建以前からあり、上野公園の中でも最も古い木だとか
「近くにいるとよい気がもらえる」「落ち葉をもらうと健康になれる」など、数年前から御神木もパワースポットと呼ばれ始めたそうなんよ
幹の根元には野生のタヌキも住んでおり、見かけたらもっと元気になれるという噂もあるみたい
栄誉権現社
御神体は安置される先々に不幸をもたらしていたが、大正年間に上野東照宮に寄贈されると転じて強運の神様になったと伝わるるんだとか
タヌキは「他抜(他を抜く)」ということで、強運、受験や就職、必勝の神様として信仰されています
透塀
社殿をぐるりと囲む塀は、「透塀(すきべい)」(1651年造営、国指定重要文化財)と呼ばれるもの
歴代将軍や諸大名らの参拝時に外側から警備できるようにと、内側が透けて見えるようになっているんよ
透塀の上段には野山の生き物、下段には海や川の生き物が彫られており、その数は全部で257枚とか
透塀の上段には野山の生き物、下段には海や川の生き物が彫られており、その数は全部で257枚とか
これらの彫刻は、狩野派の絵師、狩野探幽の指揮のもとに作られたと言われています
別世界であることを示すために、透塀の内側にある社殿の彫刻は獅子や鳳凰など格の高い生き物
別世界であることを示すために、透塀の内側にある社殿の彫刻は獅子や鳳凰など格の高い生き物
一方、外からも見える透塀にはスズメやカエルなど江戸の人々にとって身近な生き物が彫られています
なかでも珍しいのがカマキリの彫刻
造営当時は極彩色で彩られていた透塀は、一時は弁柄色一色になったが、その後の修復で再び極彩色へと蘇ったんやって
造営当時は極彩色で彩られていた透塀は、一時は弁柄色一色になったが、その後の修復で再び極彩色へと蘇ったんやって
その際、数の多い小鳥類は元の色味が不明だったため、上野動物園の協力のもと実物を確認して色付けすることもあったそうです
唐門 のぉ
裏側やぁ
社殿を囲う透塀との間にある柱の内外4額面には左甚五郎の作と伝えられる昇り龍と降り龍が嵌め込まれています
外側から見ても、内側から見ても、右の龍の頭が下を向き、左の龍の頭が上を向いているんよ
上を向いているのが昇り龍かと思うが、そうではない
偉大な人ほど頭を垂れるという諺に由来して、頭が下を向いているものが昇り龍と呼ばれているんやって
金色殿
金箔がふんだんに使用され、まさに金色殿と呼ばれるのに相応しいですよね
社殿は、拝殿と本殿を石の間と呼ばれる幣殿を介して一体化した、権現造りとなっています
社殿は、拝殿と本殿を石の間と呼ばれる幣殿を介して一体化した、権現造りとなっています
東照宮が原型となって広まった建築様式ですね
当社には出世・勝利・健康長寿に特に御利益がある、とされています
家康も75歳まで生きた長寿で知られますので、健康長寿は納得やぁ
ちなみに、創建当時は徳川家康・天海僧正・藤堂高虎が祭神でした
明治時代の神仏分離により、現在の御祭神に変わったそうですよ
きささげの木
社殿造営時に雷よけの願いを込めて植えられました
樹齢は350年以上だと言われています
上野動物園が隣接
上野動物園と言えば…パンダよね
それと…
上野東照宮の五重塔
見たかったけど…時間がなかった
限定かな…見開き御朱印をGET
東京都台東区上野公園9-88
東京鶯谷にある横浜家系ラーメンの鶯家さんに
飲んだ後って…ラーメンが食べたくなるよね
体に悪い!と…思いつつ…欲望には勝てん
店内に入ると、こじんまりとした空間が落ち着いた雰囲気を醸し出していました
店内に入ると、こじんまりとした空間が落ち着いた雰囲気を醸し出していました
シンプルながらも整理された内装は、まさにラーメンに集中できる環境を作り出しています
注文したのは店の看板メニューである家系ラーメン
入口にでかでかと豚骨SPと・・・
って事で
入口自販機で食券を購入~
醤油か塩か選べるみたいいなんで・・・
醤油の豚骨SP1,080円をポチっとな
店員さんに麺の硬さとスープの濃さについて好みを伝えます
ライスは麺類を頼むと無料で、セルフサービスで好きな分だけ頂けるのは嬉しいかぎりやぁ
提供されたラーメンは、見るからに濃厚なスープと程よく太い麺、そしてトッピングされたチャーシュー、海苔、ほうれん草が印象的
スープを一口啜ると、強烈な旨味と適度な塩味が口の中に広がります
甘味、酸味、苦味はほとんど感じられず、コクと深みが際立っていました
麺は適度な硬さで、スープとの絡みが絶妙で、チャーシューの柔らかさと味わいが更にこのラーメンの魅力を引き立てていました
鶯谷駅から203m
東京都台東区根岸1-2-20
鶯谷駅から203m
東京都台東区根岸1-2-20