今回は京都!
きぬかけの路の一部をぶらりと
まずはJR嵯峨野線の花園駅から北へ1キロ
世界文化遺産の仁和寺からだぁ
仁和寺 【にんなじ】
仁和寺は仁和4年(888)に創建された寺院であり、現在は真言宗御室派の総本山です。
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われました。そのような中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。
応仁の乱から約160年後の寛永11年(1634年)、ようやく再興の機会が訪れます。『仁和寺御伝』によれば、同年7月24日、仁和寺第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されるのです。
さらには慶長時代の御所建て替えとも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることが出来たのです。
慶応3年(1867年)、第30世 純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史を終えます。また、明治20年(1887年)には御殿の焼失がありましたが、大正時代になると再建。
昭和時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、近年では平成6年(1994年)に古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録され新たな歴史を刻んでいます。
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われました。そのような中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。
応仁の乱から約160年後の寛永11年(1634年)、ようやく再興の機会が訪れます。『仁和寺御伝』によれば、同年7月24日、仁和寺第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されるのです。
さらには慶長時代の御所建て替えとも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることが出来たのです。
慶応3年(1867年)、第30世 純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史を終えます。また、明治20年(1887年)には御殿の焼失がありましたが、大正時代になると再建。
昭和時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、近年では平成6年(1994年)に古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録され新たな歴史を刻んでいます。
二王門
重要文化財
仁和寺の正面に建つ巨大な門やぁ
高さは18.7mで重層、入母屋造、本瓦葺
門正面の左右に阿吽の二王像、後面には唐獅子像を安置しています
同時期に建立された知恩院三門、南禅寺三門が禅宗様の三門であったのに対し、平安時代の伝統を引く和様で統一されてるんですよ
中門
重要文化財
二王門と金堂の中間に位置し、五重塔や観音堂といった伽藍中心部に向かう入口ともいえる門
切妻造・本瓦葺・柱間三間の八脚門で、側面の妻部には二重虹梁蟇股が飾られています
また、向かって左側に西方天、右側に東方天を安置してました
手水舎
全て石…
水…なぜ出てない?
金堂
国宝
仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂
慶長年間造営の御所 内裏紫宸殿を寛永年間(1624〜43)に移築したものとか
現存する最古の紫宸殿であり、当時の宮殿建築を伝える建築物として、国宝に指定されてるんやって
堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれてました
観音堂
重要文化財
入母屋造、本瓦葺で前後に向拝が付き、たち(軒までの高さ)の高い建物
重要文化財
入母屋造、本瓦葺で前後に向拝が付き、たち(軒までの高さ)の高い建物
本尊は千手観音菩薩で、脇侍として不動明王・降三世明王、その周りには二十八部衆が安置され、須弥壇の背後や壁面、柱などには、白衣観音をはじめ仏・高僧などが極彩色で描かれています
内部は通常非公開
現在も仁和寺に伝わる法流の相承などに使用されているんだとか
大黒堂
毎月28日には護摩供が行われてます
毎月28日には護摩供が行われてます
訪れた時は桜が満開に
綺麗かった…
鐘楼
重要文化財
入母屋造、本瓦葺
重要文化財
入母屋造、本瓦葺
「鐘楼」の「楼」とは元来二階建ての建物を指します
階上は朱塗で高欄を周囲に廻らせ、下部は袴腰式と呼ばれる袴のような板張りの覆いが特徴的なんよ
また、通常吊られた鐘は外から見ることが出来ますが、この鐘は周囲を板で覆われており見ることが出来ませんでした
また、通常吊られた鐘は外から見ることが出来ますが、この鐘は周囲を板で覆われており見ることが出来ませんでした
経蔵
重要文化財
寛永〜正保年間の建立とか
宝形造、本瓦葺。正面に両開きの板唐戸、左右に花頭窓を付け、禅宗様で統一されてます
内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれてるんやって
内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切経』が収められています
内部は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯を安置し、壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれてるんやって
内部中央には八面体の回転式書架(輪蔵)を設け、各面に96箱、総計768の経箱が備えられており、その中には天海版の『一切経』が収められています
水掛不動
近畿三十六不動霊場の第十四番札所ですね
菅公腰掛石
903年、道真は大宰府で死亡
その後、都では疫病が流行し、天変地異が相次ぐなど道真の怨霊の仕業と言われる災難が続きます
菅公腰掛石とは、その上に水掛地蔵さんを置くことで、道真の怨霊を呪術的に封じ込めた石なのかもしれませんね
不動様にに長いひしゃくで水を掛けると願いが1つ叶うという、一願不動様が乗っているの自然石が菅公腰掛石なんよ
菅公腰掛石とは、その上に水掛地蔵さんを置くことで、道真の怨霊を呪術的に封じ込めた石なのかもしれませんね
不動様にに長いひしゃくで水を掛けると願いが1つ叶うという、一願不動様が乗っているの自然石が菅公腰掛石なんよ
御影堂に向かう為の門です
ここも桜が見事!でした
御影堂
重要文化財
鐘楼の西に位置し弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像を安置
御影堂は、慶長年間造営の内裏 清涼殿の一部を賜り、寛永年間に再建されたもので、蔀戸の金具なども清涼殿のものを利用してるんだとか
約10m四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえますよね
約10m四方の小堂ですが、檜皮葺を用いた外観は、弘法大師が住まう落ち着いた仏堂といえますよね
九所明神
重要文化財
仁和寺の伽藍を守る社
社殿は本殿・左殿・右殿の三棟あり、八幡三神を本殿に、東側の左殿には賀茂上下・日吉・武答・稲荷を、西側の右殿には松尾・平野・小日吉・木野嶋の計九座の明神を祀ってます
九所明神の最古の記録は『御室相承記』に、建暦2年(1212年)に境内南にあったものを東に遷宮した事が書かれています現在の建物は寛永年間に建立されたものなんやって
九所明神の最古の記録は『御室相承記』に、建暦2年(1212年)に境内南にあったものを東に遷宮した事が書かれています現在の建物は寛永年間に建立されたものなんやって
境内には桜とカラムラサキツツジが咲き誇ってました
五重塔
重要文化財
寛永21年(1644年)建立。塔身32.7m、総高36.18m
東寺の五重塔と同様に、上層から下層にかけて各層の幅にあまり差が見られない姿が特徴的
初重西側には、大日如来を示す梵字の額が懸けられます
塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安置
塔内部には大日如来、その周りに無量寿如来など四方仏が安置
中央に心柱、心柱を囲むように四本の天柱が塔を支え、その柱や壁面には真言八祖や仏をはじめ、菊花文様などが細部にまで描かれてるんやって
春、仁和寺は満開の桜で飾られてました
金堂前の染井吉野、鐘楼前のしだれ桜などが競って咲き誇ります
その中でも中門内の西側一帯に「御室桜」と呼ばれる遅咲きで有名な桜の林があるんよ
古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われております
また、花見の盛んな様子は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた『京城勝覧』(けいじょうしょうらん)という京都の名所を巡覧できる案内書にも次の様に紹介されています
「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されてるんやって
そして近代大正13年に国の名勝に指定されたんです
御室桜の特徴
御室桜は遅咲きで、背丈の低い桜
近年までは桜の下に硬い岩盤があるため、根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われていましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが解ったとか
ただ、粘土質であっても土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根をのばせない要因の一つにはなっているようが…
あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうで…
詳しくは現在も調査中なんだとか
勅使門
大正2年(1913年)竣工
大正2年(1913年)竣工
設計は京都府技師であった亀岡末吉とか
檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造としています
また、鳳凰の尾羽根や牡丹唐草、宝相華唐草文様や幾何学紋様など、細部にまで見られる彫刻装飾は、伝統的和様に亀岡独自の意匠を取り入れたもので、斬新かつ見応えがありました
本坊表門
一間薬医門で禁中の御台所門を移したものと伝え、木割の太い、雄大な意匠からなります
一間薬医門で禁中の御台所門を移したものと伝え、木割の太い、雄大な意匠からなります
いずれも貭が良く、伽藍の一環をなす重要な建物なんよ
御殿
仁和寺の創建者、宇多天皇が出家後に「御室」と呼ばれる僧坊を建てた場所でもあり、現在は御所風の建物が建つことから「旧御室御所」とも呼ばれます
仁和寺の創建者、宇多天皇が出家後に「御室」と呼ばれる僧坊を建てた場所でもあり、現在は御所風の建物が建つことから「旧御室御所」とも呼ばれます
そんな御殿の建物のひとつ、「宸殿」(しんでん)は江戸時代に仁和寺を再興した際、京都御所から移築されましたが、明治20年(1887年)に焼失し、現在の建物は大正2年(1913年)に建てられたといわれてるんだとか
この宸殿を挟むようにして、南側には右近の橘、左近の桜を配した簡素ながらも趣のある庭「南庭」(なんてい)が、北側には池泉式(ちせんしき、実際の水を景観要素として取り入れる方式)の雅やかな庭「北庭」(ほくてい、京都市名勝)が広がります
宸殿は庭園とともにいにしえの宮殿の雰囲気を漂わせ、国の史跡に指定されており、「仁和寺御所跡」が正式名称とされています
南庭
宸殿の南側にあることから南庭と呼ばれています
宸殿の南側にあることから南庭と呼ばれています
庭内には左近の桜、右近の橘が植えられ、その前方に白砂と松や杉を配した、簡素の中にも趣のある庭といえますね
白書院
宸殿南庭の西側に建立
襖絵などは、昭和12年(1937年)に福永晴帆(1883〜1861)画伯による松の絵が部屋全体に描かれています
姫様…
北庭
宸殿の北側にあることから北庭と呼ばれ、南庭とは対照的な池泉式の雅な庭園
斜面を利用した滝組に池泉を配し、築山に飛濤亭、その奥には中門や五重塔を望む事が出来ます
庭の制作年は不明ですが、元禄3年(1690年)には加来道意ら、明治〜大正期には七代目小川治兵衛によって整備され現在に至ります
宸殿では藤井聡太さんが竜王戦で使用されたんですね
黒書院と霊明殿を結ぶ回廊
宸殿
儀式や式典に使用される御殿の中心建物で、寛永年間に御所から下賜された常御殿がその役割を果たしていましたが、明治20年(1887年)に焼失
現在は大正3年(1914年)竣工されたものとか
御所の紫宸殿と同様に檜皮葺、入母屋造。内部は三室からなり、襖絵や壁などの絵は全て原在泉(1849〜1916)の手によるもので、四季の風物をはじめ、牡丹・雁などが見事に描かれています
霊明殿
宸殿の北東にみえる霊明殿は、仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊 薬師如来坐像を安置する為に明治44年(1911年)に建立
設計は亀岡末吉
内部は正面に須弥壇を置き、小組の格天井をはじめ、蟇股の組物などの細部に至るまで見事といえ、他の建物ともよく調和しています
また正面上に掲げられた扁額は近衛文麿の筆なんやって
金剛華菩薩
済信塚と霊宝館の間に露座される菩薩像で、金剛界曼荼羅の金剛華菩薩
済信塚と霊宝館の間に露座される菩薩像で、金剛界曼荼羅の金剛華菩薩
左手には宝相華を盛った器を持ち、右手で器をはさむような姿
京都駅の嵯峨野山陰線駅構内にある立ち食いうどんそば屋の麺家プラス さがのさんで朝食を
店内はカウンターテーブルに椅子がついているので立ち食いではないんよね
外で食券を買って店内入ってすぐ渡せばその場で待っていればすぐに出来上がります
麺家さんといえば~とり天
カレーも食べたい気分だったので鶏天カレーうどん 650円にごはん 140円と
カレーは、ダシの味、甘味、そして、思ったよりピリっと来ます
出汁にはネギ、玉葱を含めた具材が完全に溶け込んでいるようで旨味がめちゃ出てました
出汁にはネギ、玉葱を含めた具材が完全に溶け込んでいるようで旨味がめちゃ出てました
鶏天にカレーがしみて…めちゃくちゃ美味しくなってましたよ
そして…
お出汁をご飯にかけて…
〆はお出汁たっぷりのカレーライス
京都府京都市下京区烏丸通塩小路下ル東塩小路町 京都駅構内 30番ホーム付近