百舌鳥ぶらり最後は法華寺照れ

法華寺 【ほっけじ】
平年間に行基菩薩により開基されたと伝わる。

 当初は毛須寺と号し真言宗の古刹であった。

 元禄年中に本聖院日等上人により日蓮宗に改宗し、 寺号も現在のものに改められた。


山門
日蓮宗のお寺ってすぐに分かるよねニヤリ 


手水舎
蛇口は残念やけど…ショボーン
鉢は可愛い…照れ


観音堂
御本尊
十一面観音
藤原時代の作といわれ、もずの観音様として古くから親しまれているのは真言宗時代の名残ですかね照れ

今も町内には観音講があるんやってえー

また当寺に安置する等身大鬼子母神は日本三体の一つといわれ「梅の鬼子母神さん」として有名で近在近郷の信仰をあつめています照れ


境内は枝垂れ桜が見頃でしたよぉラブ



大阪府堺市北区百舌鳥梅町1-167

百舌鳥に来たからには古墳巡りをしなきゃねウインク

法華寺から百舌鳥駅までの間に大小の古墳群があるから寄り道しながら観光やぁ爆笑


まずはえー
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)
百舌鳥古墳群のほぼ中央にある、古墳群内では4番目の規模を誇る前方後円墳えー

埋葬施設や副葬品についてはわかっていませんショボーン

墳丘は3段に築かれ、くびれ部南側には造り出しが設けられていますえー

現在、百舌鳥陵墓参考地として宮内庁が管理プンプン
墳丘の周りには御廟池と呼ばれる盾形の濠と堤が残り、国史跡に指定されています照れ

かつてはその外側にも濠が巡らされていましたが、現在は埋まり痕跡を見ることはできないんだとかショボーン

平成20年(2008年)、宮内庁が墳丘を、堺市が濠をそれぞれ同時に調査し、墳丘1段目テラスには埴輪が隙間なく並べられていたことや、下段斜面には葺石が葺かれていることがわかったほか、造り出しとその周辺からは祭祀に関わる囲形埴輪や家形埴輪などの形象埴輪や土器類が出土しました照れ 

なお、御廟山古墳の周囲には万代山古墳のほか、滑石製石製品などの出土で知られるカトンボ山古墳など陪塚(ばいちょう)と考えられる古墳が数基あったようですびっくり


大きい錦鯉が浅瀬でキョロキョロ 
卵でも産み付けてたんかな?えー 


永尾大神
御廟山古墳の畔に鎮座し、御由緒等、詳細は不明ショボーン
雰囲気が良かったからお詣りしてみたぁ爆笑 


善右ヱ門山古墳(ぜんえもんやまこふん)いたすけ古墳の外堤と接するように築造されていることから、同古墳に付随する古墳と考えられます。えー

平成12・15年度(2000・2003年度)の調査では、墳丘は2段築成であることを確認しましたが、墳丘の周囲には明確な周濠を設けていませんショボーン


いたすけ古墳
いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置し、前方部を西に向ける3段築成の前方後円墳プンプン

周囲には一重の濠が巡り、墳丘には埴輪と葺石(ふきいし)のあることが確認されています。埋葬施設の構造や副葬品は不明ですが、墳丘の形や埴輪の状況から5世紀前半に築造されたと考えられますえー

周囲には陪塚(ばいちょう)とよばれる小形の古墳があり、善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳が後円部の東側に現存プンプン

消滅した陪塚には吾呂茂塚(ごろもづか)古墳、播磨塚(はりまづか)古墳があったとかキョロキョロ

いたすけ古墳は、昭和30年(1955年)頃に土取り工事で破壊の危機にひんしましたが、市民による運動で保存が決まり、昭和31年(1956年)に国指定史跡になりましたぁ爆笑

保存運動の際に後円部から採集された冑形(かぶとがた)埴輪は実物の鉄製冑を忠実に模したもので、堺市の文化財保護のシンボルマークになったんやってニヤリ

いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群を構成する重要な前方後円墳というだけでなく、我が国における文化財保護の歴史を語るうえでも重要な古墳なんやってニヤリ


この橋桁は土取り工事が行われようとしたときの名残りなんやってびっくり 


履中天皇陵古墳 (りちゅうてんのうりょうこふん)(ミサンザイ古墳)
石津ヶ丘にある全長約365mの日本で3番目に大きい巨大前方後円墳プンプン

仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られ、百舌鳥耳原南陵、ミサンザイ古墳とも呼ばれる百舌鳥耳原三陵の一つなんよえー

百舌鳥古墳群では仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)に次ぐ巨大前方後円墳で、10基ほどの陪塚を従えていたことがわかっていますニヤリ

そのなかの七観山古墳は出土資料などから、仁徳天皇陵古墳より古く5世紀前半頃に造られたことがわかっていますびっくり

江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったといわれていることから、すでに盗掘を受けている可能性がありますショボーン


履中天皇 17代天皇
5世紀前半頃の在位プンプン

大兄去来穂別(おおえのいざほわけ)天皇と称する仁徳天皇の第一子ウインク

母は皇后磐之媛(いわのひめ)照れ

即位前,羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)の女(葦田宿禰の女ともいう)黒媛(くろひめ)をめぐり同母弟の瑞歯別(みずはわけ)(反正天皇)に同母弟の住吉仲(すみのえのなかつ)皇子を殺させたガーン

磐余稚桜(いわれのわかさくら)宮(現,奈良県桜井市池之内付近)を営み,黒媛との間に市辺押磐(いちのべのおしは)皇子らをもうけました照れ


仁徳天皇陵古墳
エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されていますえー

日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理プンプン

前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されていて、左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものとか…えー

葺石と埴輪があり埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土していますびっくり

昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になったんやって爆笑

明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土びっくり

出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようキョロキョロ

日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上びっくり

仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっていますえー

仁徳天皇について 
『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鷦鷯(おおさざき)で、仁徳は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)ですえー

『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていませんが、在位87年で没したと記されていますびっくり
また『古事記』では83歳で亡くなったと記されていますえー

一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313年)1月3日に即位し、仁徳87年(399年)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになりますびっくり

父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位しますえー

都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇をもうけます照れ

民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されていますニヤリ

このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられ、理想的な天皇とされてきています照れ

同時代の中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがありますえー

仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421年)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになります照れ

また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもびっくり

「讃(さん)」王は、宋に使節を派遣した永初2年(421年)を中心に活躍し、元嘉15年(438年)には没したとみられ、単純計算で在位年数は17年ないし25年前後キョロキョロ

また、「珍(ちん)」王は、元嘉15年(438年)の近い年に即位し、元嘉20年(443年)には退位していて、同じく在位年数は6年前後となりますえー

いずれにしても、『古事記』や『日本書紀』などの日本の記録とは合わないのですが、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料にニヤリ

「倭の五王」が中国と交渉を持った時代、つまり西暦413年前後から西暦502年頃の5世紀前半から6世紀初頭に造られたと考えられている畿内の古墳を、墳丘規模順に列挙すると、仁徳天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-履中天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲姫命陵古墳となりますえー

これを時期順に並び替えると、仲姫命陵古墳-履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳となりますキョロキョロ

しかし、他にもいろいろな組み合わせが考えられますが、「倭の五王」最後の「武(ぶ)」王が雄略天皇であることは確実で、その陵は仲哀天皇陵古墳ではないかという説が強く、これらを考慮すると「倭の五王」の陵は、履中天皇陵古墳-応神天皇陵古墳-仁徳天皇陵古墳-ニサンザイ古墳-仲哀天皇陵古墳との説が一番有力なよう爆笑

ともあれ、「倭の五王」の時代には、日本列島から大陸に文物、特に朝鮮半島に産する鉄を求めて、さかんに海外進出した時期で、仁徳天皇はその時期に活躍した大王の一人かもしれませんね照れ


仁徳天皇陵古墳のミニチュアが置いてあったぁ爆笑 


百舌鳥古墳群ビジターセンター
世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の価値や魅力を伝えるガイダンス機能等を備えた施設ニヤリ

8K空撮映像で古墳群の雄大さを体感できるシアターや古墳グッズの販売のほか、観光案内所では、レンタサイクルの貸し出しや手荷物預かりサービス等も実施していましたぁ照れ


お土産売り場で見つけたアトリエ ユウの家のお菓子爆笑 


購入したのがえー
さかいクッキー かぼちゃ  216円

と…
さかいラスク 黒ゴマ  216円

だぁ~爆笑



さかいクッキー かぼちゃ 
香ばしくサクサクやぉ爆笑

その秘密は、クッキー専用のパン粉を作っているからとかびっくり

パン屋さんならではのお菓子やねニヤリ

さかいラスク 黒ゴマ 
専用の生地で焼き上げたソフトタイプのラスク照れ

小さな山型食パンやぁニヤリ

古墳をかたどった「さかいクッキー」「さかいラスク」えー

一枚一枚ていねいに焼き上げたクッキー&ラスクニヤリ

美味しかった照れ