今回は三重県津市!
津新町に来たぁ
津新町駅から1キロほど歩いて…
高山神社へ
高山神社 【こうざんじんじゃ】
藤堂高虎は法号が寒松院殿前伊州羽林道賢高山権大僧都で「高山公」と通称されるが、神社名もそれに由来します。
1876年(明治9年)の創始で、当初は安濃郡下部田村広明(現津市)の八幡神社境内に神祠がありました。
1903年(明治36年)に津城址の本丸跡に遷宮し、鎮座式大祝祭典も執行されました(『津市史』第5巻)
1945年(昭和20年)の空襲で高山神社の本社殿は全焼。その後復興したが、1969年(同44年)には公園整備のため、本丸跡から南西方向の内堀埋立地の現在位置に移されました。
丸い柱の鳥居
神明鳥居やね
手水舎
水盤は鉄製とか…
なんか…
シンクを乗せてるみたいに見える…
拝殿
戦災で焼失した後にコンクリ造で再建
御祭神
藤堂高虎公
藤堂高虎(とうどうたかとら)
(1556-1630)
江戸初期の外様大名で、伊勢津藩祖
父の虎高は、近江国の郷士 三井氏の次男で、犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)の藤堂氏を継いだんです
高虎は初め与吉(よきち)と称し、浅井氏、木下(豊臣)秀長に属して、与右衛門となったとか…
容貌偉大で、身長6尺3寸(190cm)といわれているんよ
天正13年(1585)紀州一揆鎮圧の功で一万石となり、天正15年(1587)島津制圧の功で2万石に加増され、紀州粉河(和歌山県紀の川市粉河)領主の大名となったとか…→ 猿岡城址
文禄4年(1595)秀長の養子 秀保(秀俊)が変死して秀長家が取り潰しとなって、藤堂高虎は高野山に隠遁するが、豊臣秀吉の懇請により、高野山から戻り、伊予宇和島7万石の藩主と
関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して今治城主となり、慶長13年(1608)初代津藩主(20万石)となった→ 津城跡
最終的に32万3950石の大名となり、津藩は明治維新まで改易されずに260年間続いたんだとか
藤堂高虎が築城の名手として関わった城は20余りにのぼり、その築城術は秀吉からも家康からも高い評価を受けたんです
高虎の城づくりは、高い石垣と広い内堀で、平城でも堅い防御とし、同時に住みやすい城下町を整備したまちづくりの名人としても知られているんよ
狛犬
津市周辺で見かける明治大正期独特の顔立ちの狛犬さんですが、戦災で焼失昭和22年に復興され当時の物なのか、同44年現在の地に社殿を遷座した時の物かは不明ですが、おそらく昭和22年の復興時の物でしょうね
省略したような独特のお顔が良いですよね
城山稲荷神社
元は宇治山田町(現在の伊勢市)浦口に祀られ、二八稲荷神社と呼ばれていました
津市民の崇敬が篤く、毎年2月と8月の毎日、それ以外の月の2と8の日には多数の津の商工業者や一般市民の参詣者が長蛇の列をなして参詣し、地元の人よりも多いほどだったとか
明治44年(1911)津市長が宇治山田町長に懇請し、津城内の高山神社境内に遷座
城山稲荷神社と改称し、津市の商工業者と産業育成の守護神として崇敬しました
現在でも2月8日の大祭及び2と8のつく日には、商売繁盛・開運隆盛・不況打開・厄祓・安全祈願などのご祈祷をしているそうですよ
城山稲荷神社…お狐様じゃなくて…
宝珠を
宝珠とは、災難を除き、濁水を清くするといわれ、思い通りになる珠のこと
宝珠を得るとどんな願いもかない、欲しいと思っている宝物を作り出すといわれています
増益の現世利益を祈る対象
宝珠は、すべての海水と魚を飲みこんでしまうといわれるインドの伝説の怪魚マカラの体内や、龍神の脳から出たとも言われています
手に宝珠を持っている龍神の像も、良く知られていますよね
宝珠を入手すれば、多くの財宝を得ることができるようになり、毒におかされず、火にも焼かれないといわれています
宝珠は、仏教においては仏や仏の教えの象徴とされるもので、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、如意輪観音などの仏の持ち物で、三昧耶形とされています
仏塔の相輪の上や仏堂の頂上、橋の欄干などの装飾にも使われていて、一般的に、下が球形で上が円錐形にとがった玉ねぎのような形
3つの宝珠が重なった形で、下に2個横並びに、上に1個乗った形
火炎に包まれているため、上部がとがった形になっています
山神様
山を支配し領有する神
農民は田の神と結びつけて考え,山で働く人々は山を司る神と考えるなど,その内容は種々
山そのものの姿態および山をめぐる自然現象に神秘性を感じて,それを神霊の力なり意志の現れとして神聖視する山岳信仰上の山霊なんよ
針塚
針供養とは
裁縫道具の針を供養する行事であり、日本中の寺社でおこなわれています
1年のうちに使えなくなった針を供養するとともに、裁縫の上達を願う行事
消耗品である針は、折れ・曲がり・錆などで使えなくなります
針供養は、使えなくなった縫い針に感謝の気持ちをこめて寺社に納め供養し、裁縫の上達を願う行事
服飾関係の仕事に就いている方や、和・洋裁を学んでいる方にとっては大切な行事よね
通常、神社やお寺でおこなわれますが、和装の専門学校などでは神社から宮司を招き、針供養をおこなって裁縫技術上達を祈念するところもあるんだとか
諸説あるため定かではありませんが、中国の風習が由来という説があります
平安時代、清和天皇により針供養のお堂が建立されていることから、貴族社会ではすでに針供養がおこなわれていたと考えられてるんだとか…
その後江戸時代には、針をねぎらい裁縫技術の上達を願う祭りとして広がったようです
古来、針仕事は女性の大事な役目であり、針もまた大切な道具
そのため、折れたり曲がったりして使えなくなった針に感謝の気持ちをこめて、柔らかい豆腐やこんにゃくに刺し、川に流したり土の中に埋めたりして供養がおこなわれました
針供養には、豆腐やこんにゃくを使う方法が一般的なんやって
なぜ豆腐とこんにゃくなのか、不思議に思うよね
豆腐とこんにゃくは、どちらも柔らかい食品
今まで硬い布地を縫い続けてくれた針に、「最後は柔らかいところで休んでください」と労をねぎらう意味がこめられてるんやって
高山神社の隣にには津城跡があるんでお立ち寄り
津城とは
織田信包(信長の弟)が天正8年(1580)に津城を創築。以後、津は城下町として発展してきました。本丸を中心に出丸を置き、幾筋かの河流を城の外堀に取り入れたもので、 低湿地ながら防御には堅固な城
その後、藤堂高虎公が四国伊予の今治(愛媛県)から移封、 慶長16年(1611)に大規模な改修を行い、北側の石塁を高く積み直し、その東北と西北の両すみに三重の櫓をつくりました
また、城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、伊予から連れてきた町人たちを岩田川の南に住まわせて、 伊予町をつくったんやって
さらに高虎公は、参宮街道を城下に引き入れたり、城の東に堀川を切り開いたりして津の基礎づくりを行いました
2代藩主高次公はそれをもとに城下を整備、明治維新まで津は32万石の城下町として栄えてきました
明治になっても町はほとんど旧城下町のままでしたが、明治の終わり頃になって外堀が埋められ、 新しい道や町が作られるようになってきました
入徳門
文政3年(1820)、津藩主10代藩主藤堂高兌によって創設された藩校有造館の講堂正門として建てられました
明治4年(1871)に廃藩置県により廃校になり、その後、小学校第一校、師範学校、津中学校、三重女子校兼附属幼稚園、入徳幼稚園、県立図書館の正門を経て昭和46年に現在地である津城跡地に移されました
入徳門は昭和43年に津市指定史跡に指定されています
本丸跡の噴水
噴水は時々自動的に水があがったり停まったりする仕掛けとか
でも…
いくら待っても…水は出なかった…
藤堂高虎像
没落した土豪の子どもから身を起こして32万石の大大名となり、武勇に優れるだけでなく内政にも手腕を発揮し、文化人としても優れていたという人物なのですが、主君を8人も変えたということから否定的な評価を受けることが多いようです
しかし、豊臣秀長に対しては没後も跡継ぎの秀保を支えており、秀保が亡くなると出家しているほどですから、忠義に欠ける人物と見るのは如何なものかと思いますが…
単なる変節漢であれば、老獪な徳川家康が信頼するはずがないと思うよね
高虎から見て、仕えるに値する主君というのは豊臣秀長と徳川家康だけだったのではないかとも思えます
天守台跡
津城天守については高虎以降の藤堂家では建てていないとか
その前の織田信包時代に5層の天守があった記録があるが、関ヶ原前哨戦で毛利秀元らに攻められ焼失
その後は建てられなかったとも、藤堂家が入る前の富田家時代に3層天守と2層小天守があったとも、言われているんやって
確かに…
大天守と小天守が並んでいたと言われても納得のL字型の天守台になってましたぁ
三重隅櫓
津城本丸の東側に位置する虎口で、外門の東黒門、内側の東鉄門からなる枡形
両門の間で通路は右に折れ、周囲には多聞櫓を巡らせた厳重な構造やったんです
東黒門は上部を透かしとした門扉をもつ高麗門であり、東鉄門は鉄板張の門扉をもつ櫓門
それぞれの門内に番所を設けて通行人を監視していたんやね