今回は滋賀県長浜市に照れ
まずは北陸本線の田村駅からスタート爆笑
米原駅から2駅の所ニヤリ

田村駅から2キロ弱の妙立寺へ向かいます照れ

妙立寺   【みょうりゅうじ】
当山は、京都の日蓮宗本山・立本寺の末寺であり、正治元年(1198年)、御潜幸中の後鳥羽上皇が天台宗の祈願所として創建されましたが、その後廃寺となりました。

延慶二年(1311年)日蓮聖人の孫弟子である日像上人は、北陸伝道の途中、浅井領主平井左京太夫友清の館を訪れ、法華経を説きました。

説法を聞いた当時の末寺の住職や檀信徒達が日像上人に、帰依・改宗し廃寺となっていた妙立寺の再建を懇願しました。

日像上人は、この地を訪れ日蓮宗「霊亀山妙立寺」を再建され、大覚妙実上人を開山として、第二世を青蓮房日選上人と定めました。

しかし正慶二年(1333年頃)戦火で焼失しましたが、西国(備前・備中方面)伝道中の大覚上人が再び訪れ、妙立寺を再建されました。

それから約240年後、天正七年(1579年)『安土法論』の法難を受け、織田信長の命令により、伽藍は尽く灰燼に帰しました。

時の檀信徒達の発起で天正十一年(1583年)、第九世智徳院日念上人代に堂宇が再建されました。

寛政六年(1794年)「村雲御所・第八世常孝院宮日照大比丘尼(霊元天皇の皇祖孫 日照女王)」門跡を永代供養する事になり、祈願所となりました。


雪化粧した伊吹山…綺麗ですね照れ


山門
仁王門かと思ったら…
物置きになってた…キョロキョロ


本堂
現代の本堂は安永年間(1770年代)に建てられたものえー
御本尊
日蓮聖人奠定の大曼荼羅

本堂内にはえー
雨乞いの祖師木像  (室町時代の作)  
当山開山・大覚大僧正妙実上人の御真作、日像上人が御開眼えー
京都・本山立本寺第九世櫛笥大僧正日俊上人の所蔵と伝わってますニヤリ

織田信長公忠臣 小川愛平公ゆかり「忠義」の祖師像 小川愛平公は、『信長公記』にも記されている人物で織田家家臣で信長公の小姓を務めましたプンプン

天正十年(1582年)六月二日、京都「本能寺の変」にて織田信長公を「森蘭丸」等と共に護り、最後を迎えたとかキョロキョロ

 この祖師像の裏書きによれば愛平の遺子・重右衛門が造立と記されていますえー


本堂の横に可愛い鐘照れ
こちらは…
お食事などの時報を鳴らす為の物みたいだけど…
今も使ってるんかな…キョロキョロ


鐘楼
周りは住宅地プンプン
鐘の音が響きわたるんだろうね照れ


岩亀水
後鳥羽上皇 御手洗の井戸と言われていますびっくり

後鳥羽上皇ご詠歌
植えおきて後のかたみとなす桜は色気 妙なる法の庭もせ


七面大明神
建治3年(1277)9月、日蓮聖人が、身延山山頂から下山の道すがら現在の妙石坊の高座石と呼ばれる大きな石に座り信者の人々に 説法をしていた時、一人の美しい婦人が熱心に聴聞していましたびっくり

日蓮聖人は、「このあたりでは見かけない方であるが、一体だれであろうか」と一同が不審に思っている気持ちに気付き、 その若い婦人に向かって、「そなたの姿を見て皆が不思議に思っています。あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」と言いましたプンプン

すると、婦人は笑み「お水を少し賜りとう存じます」と答え、日蓮聖人が傍らにあった水差しの水を一滴その婦人に落とすと、 今まで美しい姿をしていた婦人は、たちまち紅龍の姿に変じ、「私は七面山に住む七面大明神です。

身延山の裏鬼門をおさえて、 身延一帯を守っております。

末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎと満足を与えます。」 と、言い終えるや否や、七面山山頂の方へと天高く飛んで行きましたびっくり

その場に居合わせた波木井公をはじめ人々は、 この光景を目の当たりにし随喜の涙を流して感激したといいますえー

その後、聖人入滅16年後の永仁5年(1297)9月19日、波木井公は六老僧の一人日朗上人と共に七面山に登り七面大明神を祀ったと伝えられ、 七面山ではこの日をもって開創の日とし、大祭を行い参詣者で賑っていますプンプン

身延に古くから伝わる身延鑑には、七面山の名の由来について、『此の山八方に門あり、鬼門を閉じて聞信戒定進捨懺に表示、 七面を開き、七難を払い、七福を授け給う七不思議の神の住ませ給うゆえに七面と名付け侍るとなり。』とあり、 また七面大明神のもとのお姿は『安芸の国厳島弁財天』と記されています照れ


稲荷社
お狐さま…
居ないね…キョロキョロ


こちらは…
何のお堂か…わからんかった…ショボーン


境内はえー
梅の香りに包まれてました照れ


山門の隣に千箇寺部屋と言われてる所が…キョロキョロ
物置きにかと思ったら…
ここが…名物らくがき場所ニヤリ


らくがきの中には、松平左近頼該が宿泊された様です(白壁に署名あり) 頼該は、幕末の高松藩主一門で、仏教改革者として有名なんよえー

高松藩主松平頼儀の長男に生まれ、異母弟の頼胤が生まれると疎まれ、31歳で高松藩城下の宮脇村に隠居プンプン

その後、日柳燕石ら幕末の勤皇志士と交わり庇護したとかえー

当時、京都で本門佛立宗の祖となる「長松清風(日扇上人)」の熱心な支持者となり、在家の指導者として「高松八品講」を組織するが、頼該の死後、自然消滅ショボーン

戊辰戦争で高松藩は、慶応4年(1868)1月3日の鳥羽・伏見の戦いに幕府側として参戦したことから朝敵となり、官軍による征討の対象となったとかびっくり

藩内には、官軍を迎え討って戦火を交えることを辞さない意見もあったが、頼該が藩論をまとめ、家老の二人を切腹させて首を鎮撫使に差出し、11代藩主頼聰を城から出させて浄願寺にて謹慎させて官軍に恭順を示し高松藩の城下町を戦火から救ったんやってニヤリ

頼該は同年のうちに死去しましたえー


参詣者の居住地域は九州・四国・中国・近畿 古来より「千箇寺詣」行者用の宿泊施設として開放、室内の白壁・柱には宿泊者がお題目・住所・氏名・和歌・俳句・感想等を書き残しており、千箇寺詣の貴重な形態資料なんやってびっくり

「らくがき」の書かれた年代を見れば、江戸中期から明治初期までのものが記されています 判別出来る初見は天保5年(1834)3月の日付で、最終は明治32年(1899)10月の日付があります 千箇寺部屋の宿泊者数111人(らくがきの数から推定)といわれておりますがらくがきをされていない方もおられたのではないかと思いますが…キョロキョロ

なぜ最終は明治32年なのか・・と・・住職に問われましたガーン
めちゃ考えて・・・プンプン
(知恵熱がでたかも・・・)えーん
絞りだしたのが・・・鉄道・・・えー
正解ニヤリ
やったぁ~爆笑

鉄道が開通したので歩いて旅をする人が減ってお寺などに泊まる人も居なくなったんやねキョロキョロ


御首題の御朱印照れ


後鳥羽上皇の特別御朱印照れ
後鳥羽上皇…めちゃ男前やねニヤリ


七面大明神の御朱印爆笑
めちゃ美人ラブ

滋賀県長浜市加田町107


田村駅と長浜駅の丁度、間にある
朝9時30分から営業されている和菓子屋 ちゃくらさん爆笑
モーニングがてら和菓子でマッタリと・・・お立ち寄り照れ

店内は、明るい設えで、カフェのような感じびっくり


先に和菓子を注文して、喫茶スペースでいただきます照れ

和菓子も、いろんな種類あって みんな美味しそうラブ
和のシュークリームもあったりと…キョロキョロ

ドリンク安っびっくり


この時期一番人気のいちご大福 330円を照れ

粒よりの苺をやさしい口どけの白あんでつつんだ いちご大福ニヤリ
いちごの甘さは白あんに負けてなくて…
口の中でいちごと白あんが出会いって
マッチング成功やぁ~爆笑

サービスのかりんとう饅頭 照れ
甘さ控えめで黒糖薫る饅頭・・美味しいよねウインク

ドリンクは
紅茶(はちみつフルーツ)220円にニヤリ
はちみつフルーツの紅茶って…初めて見たかも…びっくり

香はめちゃ甘い照れ
飲んでビックリびっくり
めちゃ蜂蜜の風味が爆笑
砂糖なしで頂けるんでめちゃ良いですニヤリ

以前はドリンク無料だったみたいですキョロキョロ
無料じゃやってられないって事で有料になったんかな?えー
まぁ
当たり前か・・・ニヤリ

JR北陸本線 田村駅 徒歩 20分
JR北陸本線 長浜駅 徒歩 29分
田村駅から1,480m
滋賀県長浜市大戌亥町1284