小牧神明社から約1キロ
今回の目的の間々観音へ
ここから3ヶ所は珍スポットなんよぉ
まずは…
おっぱいから
間々観音 【ままかんのん】
龍音寺 【りゅうおんじ】
明応元年(1492)頃の事。
狩人が小牧山で狩りをする折、八頭いるうちの七頭の鹿を射た。
その際、鹿はたちまちに七つ石と化し、五色の雲が現れ、四方に御光を放つ観音様の御尊像を発見する。
山には大音響が轟き渡った。
かすかに「小牧なる飛車の山の狩人は八つある鹿を七ついしかな」という声が三度聞こえた。
その光景を側で見ていた村人によりその霊験が伝え広まり、村人と狩人のみで草堂を建てて風雪を防ぐこととなった。
その後狩人は平生の殺生の業を悔い改め、髪を下ろして出家し、日々尊像に奉仕することとなった。
明応3年(1494)忽然と現れた旅の老僧が草堂へ参拝した折、尊像を一見し、「この尊像は、空海(弘法大師)が入唐するとき、鎮護国家を祈って自作した金銅仏で、大師がはるかな異国から日本泰平を日々懇祈なされたもの。
大師帰朝ののちは密室に移して奉仰されたものである。
大師亡き後高野山に奉納された霊仏で、今ではこのことを知る者はほとんどいないであろう」と静かに述べた旨が当寺の縁起に記されている。
やがて林心斎により永正2年(1505)小牧山中腹に草堂が改めて建立された。
それから約70年後の天正年間(1573~1592)に、小牧山を砦と化してゆく乱れた時代となり、飛車山龍音寺住職祖玄和尚(浄土宗)によって合祀されるに至る。
山門
この山門は徳川家の菩提寺である建中寺から移築されたそうですよ
手水場
間々観音にはお釈迦様のお顔をお乳で表現したとされる手水所
間々観音ならではの面白いアイデアやね
このおっぱいの石像はお釈迦様が座って修行をしておられる尊い姿をイメージして造っているということで、お釈迦様の顔を間々観音のシンボルお乳で表現しているということです
インパクト大やね
センサーがついていて、人が近くにくると水が流れ出します
もちろん乳首から水が流れますよ
観音堂
御本尊
千手観音
お乳の寺として間々乳観音の名で親しまれている当寺の御本尊十一面千手観世音菩薩は、霊験あらたかなる秘仏とされ、はじめ霊峰小牧山の観音洞に安置され、弘法大師空海が鎮護国家並びに大師入唐などの大願成就を祈念し大師自ら造立し示現された尊像と言われてるんやって
秘仏十一面千手観世音菩薩は現在は開帳されていないが、高さ一尺五寸の金銅仏とか
また、観音堂正面の観音像は昭和59年5月、当寺三大法要の折に入仏開眼された新本尊で、総丈8尺(約2.6m)、桧の三千年材を使用した一木造りの観音様なんよ
御利益
昔々、村の南はずれに新婚の夫婦があり、子供が一歳にならないうちに夫が他郷へ商売に出て、旅先で亡くなってしまった
家は貧しく親戚にも母子を養う力が無かった為に、大変生活に困ったんです
母親の乳が出なくなったのも自然の成り行きで、村の老人がお米を少し贈ったとか
しかし急には乳も出ず、「どうせ死ぬなら」と山上の観音様にお米を供えて死後の安楽を願おうと、尊像の前で無心に祈り続けました
山を下りて家へ入るとともに、空腹感がなくなり乳房が張ってきたとか
お乳があふれ出て、幼児も日に日に体力を回復したんやって
さらに余ったお乳は近所の乳の足らない子にも与えてあげたとか
これを聞いた村人は大変驚き、お乳をもらった人の御礼で母子の生活も成り立つようになり、幼児も成人して永禄の末(1569年頃)も母子共に健在であったとか
その後も一袋の米を尊前に供えて妙徳を得る人多く、今日までお乳の御利益を授かる人が後を絶たないんです
また永正年間(1500年頃)伯楽と呼ばれる程の農夫がいました
この者に頼むと病馬が健馬となり、駄馬を駿馬にするという妙効があったとか
当時の馬は生活や交通の要であり、その話を聞いた遠近の人が集まり伯楽の門前は市となったとか
晩年に旧友三人を招いて次のように語ったとか
「私はただの凡人で、調馬の術を施したのは、ひとえに山の観音様であって、全く私の力ではありません。
実は病馬が来ると主を帰らせ、馬を洗い清めた上で、密かに馬を曳いて御堂まで登り、一心に祈願したのです。」そして山を下り一晩たつと、見事に治ることが多かったとか
これが曳駒山ともいわれる所以でもあるんです
交通手段が馬から車へと変わった現代においても、交通安全祈願またはペットの健康守護として継承されています
お堂の前の香炉も、もちろんおっぱい
こちらの石おっぱいはツルツルしています
この石をたわしで撫で擦るのが参拝方法だそうですよ
たわし…って…
痛そう…
賓頭盧様
おっぱいをガン見してますね
阿弥陀堂
御本尊
阿弥陀如来
永正2年(1505年)に、小牧山中腹に草堂が建立された間々観音ですが、永禄6年(1563年)の織田信長による小牧山城築城にあたって今の場所に遷されました
このとき、参拝の栞に「飛車山龍音寺住職祖玄和尚(浄土宗)によって合祀される」とあることから、阿弥陀堂は龍音寺の本堂的存在だったのかな
慈乳観世音
こちらにもセンサーがついていて、前を通ると右乳から水が流れるという仕組みになっています
なので、右乳の下(水が流れる場所)だけが、色が変わっているんですね
知らずに通ったら、右乳から水が流れている!なんて状況、びっくりして思わず笑ってしまいそうですね
おっぱいの絵馬
間々観音はおっぱいが付いている絵馬に願いを書くことができるんよ
世にも珍しい絵馬やね
みなさん切実な願いから欲張りな願いまで様々書いてあります
「本当にバストアップした!」という方もいらっしゃいますよ
巽堂(権現堂)
「権現」という言葉は
「権」=「臨時・仮の」という意味
「現」が「現れた様・状態」
を意味を示す二つの語から成り立った言葉であり、そのまま言えば、「権現」とは「仮の姿をまとって現れたもの」という意味なんやって
これは、6世紀の仏教流入以降、神道の「神」という存在と仏教の「仏」という存在が共存し始めた結果、その両者の立場を論じる動きの中から生じた言葉であり、これは、仏教側が主張する「本地垂迹思想」によるもの
この為、当時の意味としては、『日本の神々とは、仏教の仏が現世に現れた仮の姿」という意味で用いられ、根源的には、両者は同じものであるとされたんです
ある意味、「権現」とは、神と仏の両方を意味することになり、「権現」に手を合わせることで、『神と仏の両方に手を畏敬を示すことができる』という両者を兼ね合わせた都合の良いものだったと言えるよね
ただ、神仏混淆において、神道の神々を仏の存在に例えられたり、置き換えられたりということはあったが、この「権現」が、神道の神々の御名に直接用いられることはほとんどなかったとか
形式としては、その神社に祀られる複数の神々の集まり(グループ)に対して引用されることが多く、この他、徳川家康公が自らの神号として、「東照大権現」と称したものや、特定の奇跡(自然現象など)や自然(山など)に対して、これも「神仏が現れた結果」として、この「権現」という言葉を用いて、特有の信仰対象を作り上げることなどもあったとか
ただ、基本、いずれの場合においても、「神仏などの存在が別の姿を以て現れたもの」というのが、この「権現」という言葉の基本的な意味なんよ
十三重の塔
四方に「厄除」「健康」「子供」「供養」が表されおり、自分が願う内容に関係する所より「南無大慈悲観世音」と唱えながらまわるそうです
子守り歌の歌碑
“起きて泣く子は わしゃきらい”の歌詞が単刀直入
母親の本音を代弁してくれているのでは
小牧駅から151m
愛知県小牧市中央1-186 アメニティーゴールド 1F