薪神社から次は棚倉孫神社へ
京田辺駅から5分くらいの場所です
棚倉孫神社 [たなくらひこじんじゃ]
『延喜式神名帳』にある「棚倉孫神社(山城国・綴喜郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。
戦国時代の大永6年(1526年)編纂『棚倉孫神社紀』によれば、飛鳥時代の第33代推古天皇31年(623年)9月、相楽郡の棚倉ノ庄より高倉下命を勧請し、創建したという。
結構…急な坂
これを登った所に神社があるんやね
登った所に…明治24年銘の石柱が
なかなかお洒落やね
小川が…道の上に
天井川である天津神川
一説に川の名の「天津神」は当社のことを指すとも言われ、式内社「天神社」は当社であるとする説もありますが、詳細は不明とか
少なくとも現在祀られている「天香古山命」が天津神と言えるかは微妙なところ…
それにしても、このような小川がこれほどまでに堆い天井川となっているとは驚きやぁ
それほど土砂の堆積が膨大だったのでしょうか…
京田辺市は天津神川のように天井川となっている川が多く、治水に困難の伴う土地柄だったことが伺われます
えっ!
神社は階段の下に
小川が上にあるから
手水舎
龍~なんやけど
ここはまだ…消毒液
まだまだコロナ禍の棚倉孫神社でした
鳥居
元禄15年(1702年)に淀藩の4代目藩主石川主殿頭憲之が奉納した石鳥居なんやって
拝殿
建築年代は、棟札(むなふだ)から明和5年(1768年)の江戸・中期の再造とか…
山城国綴喜郡田邊村・西河原村・田邊新田村が施主し、天下泰平・国土安全・社頭安穏・興隆佛法・氏子繁栄を祈念して建てられたんですって
縁高欄(ふちこうらん)をめぐらした正統的な建物で屋根は昭和55年(1980年)に檜皮葺きから銅板葺きに変わったそうです
本殿
京都府登録文化財(昭和58年4月指定)
流造(ながれづくり)で規模は1間社(いっけんやしろ)で、東面しています
流造は全国的に最もよく行きわたった形式で、規模には小の1間社から大は9間社まであるんですって
御祭神
現在の御祭神は天香古山命
『先代旧事本紀』では天香古山命は饒速日尊の降臨に従った一柱で、別名を「手栗彦命」または「高倉下命」というとあり、記紀における高倉下命と同様の事蹟が描かれています
当社の社名から推して本来の御祭神は「棚倉孫」だったと考えられますが…
「棚倉孫(たなくらひこ)」は「高倉下(たかくらじ)」もしくは「手栗彦(たぐりひこ)」が転訛したものとも言われ、社伝はこれに倣ったものとなっています
一方で「棚倉」とは穀物を収蔵する倉庫とする説、養蚕に用いた棚であるとする説、田のクラ(谷)が転訛したとする説などもあり、どのような神が祀られていたのかを明らかにするのは難しそう…
また当社の社前を流れる川を「天津神川」と呼ぶため、天津神を祀る神社として式内社「天神社」を当社に比定する説もあります
江戸時代には「天満宮」と呼ばれていたことからかつては「菅原道真公」を祀っていたことと思われます
御利益
天下平定・災難除け・健康長寿
狛犬
愛嬌のある狛犬やね
めちゃしっぽ振ってそう
絵馬殿と南詰所
建築年代は不明
江戸中期の天保10年(1839年)に奉納された角力図(すもうず)に建物があることから、それ以前に建てられた物かな?
平成10年の台風9号により屋根・壁が大きく破損し
平成12年に修理したんやって
内部には「升と斗掻き棒」の絵馬が納められています
これは米寿(八十八歳)を記念して奉納されるもので、南山城の神社では手形絵馬と並んでよく見られるものなんやって
「升と斗掻き棒」の絵馬にも多少の地域差があり、当社では升に弦鉄(対角線状の部材)を設ける点、斗掻き棒を固定する部材が取り付けられている点が特徴でした
瑞饋神輿
京田辺市文化財2号
明治の中頃から民俗神事瑞饋神輿(ずいきみこし)が伝えられて、昭和4年(1929年)中断
昭和51年10月秋祭りに47年ぶりに制作技術の復興
昭和53年(1978年)2月に瑞饋神輿保存会が結成され、同年10月に文化財2号として指定されたんやって
瑞饋神輿は2基あり、大人用は隔年、こども用は毎年制作しているんですって
子供用毎年かぁ
大変な仕事ですよねぇ
五社殿
平成17年7月に改築
天保10年の絵馬には既に祠(ほこら)が記されており、五社殿の原型だと思われるんだとか
1正一位寶蓮稲荷大明神。
2紅梅殿・老松殿。
3春日大明神・天照皇大神宮・八幡大菩薩。
4多賀神社。
5稲荷神社。
以上の五社です
式場
おそらくここは氏子が使用する建物だったと考えられます
その後、この建物は休憩所として使用されていましたが、昭和36年の第二室戸台風で被害に遭い、建て直されました
なお、昭和40年代になると、ここは結婚式場として使用されるように
ホテルでの挙式が普及していなかった当時、田辺地区の住民は棚倉孫神社で挙式し、本町(田辺)の料理屋で披露宴を行っていたという話もあります
現在では、宮参りや祈祷で使用されています
神牛
かつての天神社の名残かな
明治二九年銘の遥拝所
方向は神武天皇陵(奈良橿原)でしょうかね?
松寿院跡
本寺は天満神社を祀る式内棚倉孫神社の神宮寺として建てられ、真言宗に属し智積院の管下にあったとか
設立された年代は明らかでないが、寛文年間(一六六一~一六七三)あるいは享保年間(一七一六~一七三六)の記録が残っています
淀城主の鳥居寄進についての古文書に宛名が社僧松寿院と記録
当時は天満宮を松寿院が管理していたことがわかります
本院は、天保十四年(一八四三)現在のものに建てかえ
明治初期に神仏分離政策によって、本院は廃寺
また、安政五年(一八五八)から明治四年(一八七一)まで寺子屋として子どもの教育の場に使用され、明治五年の学制発布により田辺小学校開設準備が始まり、その間、本院が田辺小学校の仮校舎として使用され、明治六年五月、田辺小学校校舎が田辺鳥本一〇二番地に新築完成と同時に本院は棚倉孫神社の社務所となったんやって
京都府京田辺市田辺棚倉49
JR京田辺駅前にある
京都の舞妓の茶本舗が経営するカフェ
MAIKO茶ブティック(マイコティーブティック)さんですぅ
実は玉露の産地の京田辺市
1970年(昭和45年)から全国茶品評会玉露部門で農林水産大臣賞を受賞すること15回だそうな
メニューを見ながらまずはサービスのお茶をすすすっといただきます
まろやかな緑茶
玉露を中心とした日本茶やお茶を使ったスイーツのメニューが並びますが…
ぱふぇ…一目惚れ
抹茶パフェ 900円
底からグラノーラ、生クリーム、抹茶ゼリー、栗、リンゴの角切り、小豆あん、白玉だんご、抹茶アイス、クラッカーという内容
さっぱりとした抹茶アイスがとっても美味しく感じられますね
白玉・小豆・抹茶ゼリー・クッキー・フレーク・生クリームと具材も豊富ですし
中ほどには刻んだ果物類が沢山入っておりボリュームもなかなかやぁ
JR京田辺駅から徒歩1分 近鉄新田辺駅から徒歩2~3分
京田辺駅から110m
京都府京田辺市田辺中央5-1-7 滝山ビル 1F