つぎは
島頭天満宮から1キロほど
京阪電車の古川橋駅近くにある堤根神社へ
堤根神社 【つつみねじんじゃ】
創建は今から約千六百年前の古墳時代にまで遡ります。
当地に流れていた北の川(淀川)がよく氾濫を起こすことから、日本で最初の堤防茨田堤(まんだのつつみ)が築かれました。
この茨田堤を築いたのが、茨田氏と呼ばれる一族で、堤防を築いた後に、その鎮守として祖先である彦八井耳命を祀ったことが当社のはじまりと言われます。
平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』には、当社は河内国茨田郡五座の第一位に列せられており、門真市最古の神社です。
江戸時代の寛永年間(1624年~1645年)には、領主だった永井尚政公が崇敬していた菅原道真公を合祀しました。
現在では、災い除け、運気浮き上がりの宮として、地域住民をはじめ多くの方から信仰を集めています。
鳥居から伸びた参道
手水舎
龍が居てるんですが…
小さいのか…
存在感無し…
拝殿
御祭神
彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)
菅原道真公(すがわらのみちざねこう)
若宮大神(わかみやおおかみ)
彦八井耳命は初代天皇に即位された神武天皇の第一皇子
神話では、彦八井耳命は火の玉(乾珠・かんじゅ)と水の玉(満珠:まんじゅ)の二つの玉をお持ちになり、高千穂峰より九州の阿蘇の地に降られたとあります
この二つ珠は、雨と太陽を表し天気を自在に操るもので、阿蘇の地に農業を広めました
その後九州鎮護と東征という神武天皇による国土統一の一大事業を補佐されました
やがて彦八井耳命の子孫は茨田氏となり、日本最古の堤防・茨田堤を築きました
若宮大神は彦八井耳命の御子神様と伝わります
菅原道真公は、学問の神、天神様として広く信仰されています
ご利益
浮かびあがりの神様
水害・防災の神様
大願成就の神様 茨田堤の伝承から
気象の神様 乾珠・満珠の二つ玉の神話から
学問の神様 天神様(道真公)のいわれから
狛犬
隠れてる…
照れ屋さんの狛犬さんですね
九頭八幡社
ご由緒
元古川左岸横地村より遷座と伝わります
ご祭神
九頭大明神(くずだいみょうじん)
八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)
ご神徳
治水・厄除け
蛭子社
ご由緒
昭和32年に西宮神社よりご勧請
ご祭神
蛭子大神(ひるこおおかみ)
ご神徳
商売繁盛
稲荷社
ご由緒
伏見山一の峰よりご勧請(年代不詳)
ご祭神
末鷹大神(すえたかおおかみ)
熊吉大神(くまよしおおかみ)
ご神徳
家内安全・商売繁盛
茨田堤(まんだのつつみ)
古代の大阪は上町台地を除き生駒山系までほぼ海で、北の河と言われる現在の淀川を中心とする水系と南の川といわれる旧の大和川を中心とする水系の土砂の堆積により河内湾(かわちわん)から河内潟(かわちがた)そして河内湖(かわちこ)へと地形が変化していきました
五世紀の河内国は、河内湖と呼ばれる広大な湖・湿地帯が横たわっており、北の河、南の川が、草香江に流れ込んでいたんやって
また上町台地の北からは大きな砂州が伸びており、この砂州が河内湖から大阪湾への水の流れを妨げていたため、大雨などで水の量が増えるとすぐに洪水や高潮などの水害が発生してたとか
古墳時代中期(五世紀半ば)は、ヤマト王権が諸外国と積極的に交易を始めた時期でもありました
当時は瀬戸内海を通り船によって行き来していたために、港に適した難波の地に都を移したと言われています
この王朝を河内王朝と呼んでいます
新たに造営された難波宮は、本拠地になる河内国が先の地形の通り稲作などには適していなかったため、経済的な基盤が不安定とか
その為に安定した食糧や生産物を確保するために河内の低湿地帯を農耕地に換える事を企てたと言われています
そこで、河内湖に流入する北の河の流路安定を目的として、堤防を築造する事としたんだとか
築造に先立ち河内に滞りがちな川水を大阪湾に流す運河を掘削
これを難波の堀江といい、現在の大川に当たります
そして北の河の一番南端の支流である現在の古川に沿うように堤防を築きました
この堤防が茨田堤なんよ
両者は、日本最初の大規模な土木事業、治水工事であり、我が国最初の大国家事業であったと言われています
茨田堤を築造してほどなく、茨田屯倉(みやけ)が立てられたと
茨田堤によって水害が防がれたことにより、河内国が開発され、屯倉として設定されたのだと考えられています
その後、都は河内から大和そして京都へと移されましたが、時の為政者たちはこの堤の大切に守り、氾濫がある度に多大な費用を持って修復に努めました
淀川の流れは数度の改修を経て茨田堤は現在その使命を終えています
各地で分断され残されていた堤も戦後の開発ラッシュにより次々に宅地化され、神社東方にわずかに残るのみとなったんよ
そこで、茨田堤を後世に伝えようと『茨田堤を守る会』を結成し、その努力が実り大阪府指定の史跡と認定され永久に保存されることとなりました
(日本書紀 仁徳天皇十一年 原文)
冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海。因以號其水曰堀江。
又將防北河之澇、以築茨田堤。是時、有兩處之築而乃壤之難塞。
時天皇夢、有神誨之曰、武藏人強頸、河内人茨田連衫子、此云莒呂母能古。二人、以祭於河伯、必獲塞。則覓二人而得之。因以、禱于河神。爰強頸泣悲之、沒水而死。
乃其堤成焉。唯衫子取全匏兩箇、臨于難塞水。乃取兩箇匏、投於水中、請之曰、河神崇之、以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾 知眞神、親入水中。若不得沈匏者、
自知偽神。何徒亡吾身。於是、飄風忽起、引匏沒水。匏轉浪上而不沈。則潝々汎以遠流。是以、衫子雖不死、而其堤且成也。是因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處、曰强頸斷間・衫子斷間也。
(口語訳)
冬十月。宮の北の野原を掘って南の河(旧大和川)を西の海(大阪湾)に通した。これを堀江大阪市内を東西に横切る大川=旧淀川の原形)という。
また、北の河(淀川)の泥を防ぐために茨田堤を築造した。
この時、二箇所ほど築造に難航した堤防があった。
天皇は神託を受け、武蔵の強頸(こわくび)と河内茨田連衫子
(まんだのむらじころもこ)の二人を人身御供として河の神に奉げることにした。
強頸は泣きながら水に入って死に、その堤防は完成した。
衫子は丸い瓢(ひさご=ひょうたん)を水に投げ入れ、「河の神よ。もし私を欲しいと思われるなら、この瓢を沈めよ。本当の神とわかれば、自ら身を奉げましょう。しかし瓢を沈めることができなければ、偽りの神に身を奉げることはありません」と語った。
瓢は沈みかけたが、浮いて流れていった。
こうして衫子は死なず、堤防も完成した。衫子は知恵によって助かったのである。
それらの堤防は強頸断間、衫子断間と名づけられた。
日本書紀に記されている
茨田連衫子のヒサゴの物語
ヒョウタンの原産地はアフリカで、人類がアフリカを旅立ち、世界中へと散らばっていくのにあわせて、全世界に広がったとされ、日本列島にも約9,600年前に伝わった痕跡が遺跡から出土しています
竹と並び、容器や楽器、漁具や装身具など、世界中の人々に長く使用されてきた身近な、そして最古の栽培植物の一つなんよ
世界中の神話を見ると宇宙や人間を生み出した始原の存在という位置づけをされることが多いようなんよ
中国や朝鮮半島では人類ヒョウタン起源譚もあります
また古神道では、ひょうたんは生命の壺、すなわち母胎 (胎蔵)を表し、生命活動の永遠性と、完全無欠の宇宙を象徴するとされています
わが国では『ヒサゴ』または『ふくべ』ともいわれヒョウタンからさまざまな財宝やおいしいものなどの福が飛び出すという幸福や成功招来の縁起物と伝わっています
堤根神社とひょうたんの関わりは神社の起源である仁徳天皇の御代に築かれた茨田堤まで遡ります
茨田堤築堤については日本書紀にも記されているお話ですが、ここにひょうたんが登場するんよ
そもそも茨田堤は、洪水や高潮を防止するため、淀川(当時の「北の河」)に築かれた堤防です。とはいえ、その築堤までの道のりは、とても険しいもの
なぜなら、二つのつなぎ目を繋ぐことがとても難しかったからとか…
そして、なかなか繋がらない切れ目に悩まされた仁徳天皇は、ある日の夢でこのような神のお告げを耳にしました
「武蔵人 強頸(こわくび)と河内人 茨田連衫子(まんだむらじころものこ)の二人を、川の神に供える“人柱”とすること」
つまり、二人の命を差し出し、川の水をせき止めろという何とも厳しいお告げでした
そして神のお知らせで名が挙がった二人のうち、強頸はお告げを信じ“人柱”となり、一つ目の堤がつながることに
一方、もう一人の茨田連衫子は、自らの知恵で人柱となることを防ぎました
「私は、二つのひょうたん(ひさご)を持ってきた。
私を望む神が真の神であれば、川に流したこのひょうたんは水に沈んでしまうことだろう。
偽りの神であれば、ひょうたんは川に流れ浮かび、私は人柱になることができない」
こう語った衫子が川にひょうたんを流すと、急に旋風が……ここでひょうたんは沈むかと思われましたが、なんと、ひょうたんはすぐに浮かび、川を流れていったとか
とはいえ、現代の知恵で考えても、そもそも「ひょうたん」は浮力があるため、沈むことはないとされています
しかし、神の力があれば沈ませることも難しいことではなかったはず
つまり衫子は、ひょうたんの知恵を用いただけではなく、そのひょうたんに祈りを捧げたことで神様にその想いが伝わり、困難を乗り越えることができたのではないでしょうか
衫子は、今後も広がり続ける人々の未来に向け、ゆうきとひかりを授けたのです
こうして、茨田連衫子が神に祈りの想いを届けた浮かびひょうたんの伝承を持つこの地は、堤根神社となり、人生儀礼・厄除け・家内安全・合格祈願など、年間を通して多くの方があらゆる願いを胸にご参拝される地になりました
大阪府門真市宮野町8-34
「三井ショッピングパーク ららぽーと門真」および「三井アウトレットパーク大阪門真」(MOP大阪門真)は、大阪府門真市に誕生する三井不動産の大型商業施設
京阪本線、大阪モノレール線の門真市駅から徒歩約8分の場所に位置しています
最大の特徴となるのが、同社初となるショッピングモールとアウトレットモールの2業態が1つの建屋にまとまった2業態複合型商業施設になっている、という点なんよ
建屋は1階と3階がららぽーと門真、2階がMOP大阪門真となり、屋上には多目的広場やキッズパーク、カフェなどが備わる「空の広場」が設けられてます
敷地面積は約3万5200坪、店舗建屋は地上4階建てで延床面積は約3万1100坪。
店舗数は、ららぽーと門真が153店舗、MOP大阪門真が98店舗の251店舗
このうち、ららぽーと門真は20店舗が大阪初出店、MOP大阪門真は17店舗が関西アウトレット初出店(うち4店舗は国内アウトレット初出店)となるんです
このほか、約4300台の車両を収容できる地上6階建ての立体駐車場2棟も併設
また、2029年には大阪モノレール線の延伸と合わせて隣接する新駅が開業し、2階のMOP大阪門真と連絡通路で直結される予定になっているんやって