桑名宗社から約5分プンプン
鎮国守国神社へ照れ

鎮国守国神社
【ちんこくしゅこくじんじゃ】
鎭國守國神社は桑名城址の中にあります。

もとは天明4年(1784)白河(現福島県白河市)城内に松平定綱(鎭國公)を祀ったのが始まりで、文政6年(1823)白河から桑名へ移封にともない当社も桑名城本丸に移りました。

幕末の桑名藩の歴史を見つめてきた神社です。

鎭國守國神社は、「鎭國さん」「九華明神さん」と親しくよんで、古くから崇め敬ってきたお社です。

この神社は、天明四年(1784)松平越中守定信公が白河城内に鎭國神公を大鏡神と申し、祖神として祀ったのにはじまります。

そののち、寬政九年(1797)には鎭國大明神の裁許があり、文政六年(1823)に樂翁さま(定信公)の御子定永公(保国公)の奥州白河(福島県白河市)から勢州桑名(三重県桑名市)へ移封(国替)とともに桑名城内朝陽丸に遷祀され、天保五年(1834)樂翁さまを守國大明神と申しあげ、鎭國大明神とあわせ祀られました。


鳥居
明治八年(1875)鎭國神社は村社となり、同十三年(1880)鎭國・守國神社両社ともに県社に列しましたプンプン

明治四十一年(1908)には守國大明神に正三位が、大正六年(1917)に鎭國大明神に従三位が追叙えー

大東亜戦争後(第二次世界大戦)は、旧社格が廃され、宗教法人法制定にともない、宗教法人鎭國守國神社と称して、今日に至っていますニヤリ

カエル…キョロキョロ


手水舎
手水舎にある石手水鉢は、嘉永二年(1849)鎮国公没200年に献納されたものなんやってびっくり


拝殿
大正8年(1919)に再建されたもので、木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、妻入、間口六間、正面一間向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、浜縁、高欄付きニヤリ

主祭神
鎭國大明神(ちんこくだいみょうじん)
従三位松平越中守定網公(じゅさんみまつだいらえつちゅうのかみさだつなこう)

守國大明神(しゅこくだいみょうじん)
正三位松平越中守定信公・樂翁公(しょうさんみまつだいらえつちゅうのかみさだのぶこう・らくおう

相殿神
旭八幡大明神(あさひはちまんだいみようじん)
応神天皇(おうじんてんのう)・誉田別命(ほんだわけのみこと)

山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)
日吉大神(ひいのおおかみ)・大山昨命(おおやまぐいのみこと)

天満天神(てんまてんじん)
菅原道真公(すがわらみちざねこう)

八天宮(はってんぐう)
火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)

鎭國大明神
鎭國大明神は、文禄元年(1592)一月二十五日、東照神公(徳川家康公)の異父弟松平隠岐守定勝公の第三子として、江戸田安邸において出生、慶長七年(1602)十一歳のとき将軍秀忠公に仕え、同十年(1605)越中守に任じられましたプンプン

寛永十一年(1634)将軍家光公に従って上洛、その年七月に従四位下に叙せられ、あくる十二年四十四歳のとき濃州大垣(岐阜県大垣市)藩主(六万石)から桑名藩主(十一万石余)に移封されて、社寺増替・建立をはじめ、産土神(桑名宗社・春日さん)の石採神事を興すなど農林業・鋳物・陶業(万古焼)の開発、灯台建設、架橋・治水工事など、文武産業の振興につくされ、慶安四年(1651)十二月二十五日、六十歳をもって江戸八丁堀邸において没しましたが、ご事蹟により、「鎭國さん」と仰がれるようになりましたえー

守國大明神
守國大明神は、宝暦八年(1758)十二月二十七日、八代将軍吉宗公の御子田安中納言宗武卿(御三卿の一)の第七子として、江戸田安邸において出生、安永三年(1774)幕命により、奥州白河藩主松平越中守定邦公の養子となり、あくる四年従五位下上総介に任じられ、天明三年(1783)越中守を継ぎ、同年十二月従四位下に叙せられましたプンプン

天明七年(1787)三十歳にして老中首座に任じ、待従となられて七年間、幼主家斉卿を輔け、政治には公明正大、文武を興し、奢り戒めるとともに倹素を勧めるなど、世に云う寛政の改革をなしとげましたえー

文化九年(1812)五十五歳で御子定永公に家をゆずり、江戸地の別邸に閑居して樂翁と号し、文政十二年(1829)五月十三日七十二歳をもって天寿を全うしたとかキョロキョロ

このように名君賢相であったことから「たそがれの少将」「樂翁さま」と申して現在も敬仰されるとおり、深く学を好まれ、和歌や画も巧みで、著作も百三十余種にのぼり、国政、民政を通じて偉大な業蹟をとどめられ「守國さん」とも申しあげる由縁でもあるんやって爆笑


狛犬
少し…顔が傾いてる?キョロキョロ


高龗(たかおかみ)神社
御祭神
高龗神
藩祖松平越中守定綱公本丸に一井を掘り、高龗神を崇め、本城鎭護・延命長寿子授け・子育てを願〕奉祀ウインク


九華招魂社
御祭神
桑名藩領内殉難護國之英霊

元治甲子明治戊辰を初め大東亜戦争までのすべての戦役の郷土桑名出身の戦没者えー


御車修祓殿
祓戸大神(はらへどのおおかみ)として四柱ありますプンプン
瀬織津比賣(せおりつひめ)
速開都比賣(はやあきつひめ)
氣吹戸主(いぶきどぬし)
速佐須良比賣(はやさすらひめ)

新車の購入などにあたり所有者の心身の罪穢れを清め交通安全を祈祷するところなんやってニヤリ


樂翁公百年祭記念寶物館
昭和9年(1934)、 寛政の改革を断行した松平定信(樂翁)の顕彰を記念して建てられた建物とかびっくり

鉄筋コンクリート造2階建、寄棟(正面銅板葺きの切妻屋根)、桟瓦葺、外壁は洗い出しで仕上げられ ていますえー

1階の石積風の意匠や縦長の開口部、玄関の星形の照明など当時の洋風建築の要素が取り入れられています照れ

平成二十年(2008)に国登録有形文化財に 登録されたんやって爆笑


稲荷の入口プンプン
並んだ鳥居が…好き照れ


鎭國稲荷神社
御祭神
正一位稲荷大明神
藩祖松平越中守定綱が本城鎮護稲荷大明神と称し勧請させられたえー
その後二十余柱の稲荷大明神を合祀照れ


神牛像
久松松平家の祖神 天満天神を奉祀していますえー
撫で牛やねキョロキョロ


灯篭
境内各所に12基残る灯篭は、文政九年(1826)桑名藩の重臣である松平・吉村・沢・酒井・奥平・服部などが寄進したものとかびっくり

こちらはえー
昭和三年(1928)
九華公園整備に伴い岡崎市の石工、初代小林秋三郎により造られた略定紋灯篭で二つの丸は松平家の梅鉢紋と三つ葉葵紋を表します照れ


九華公園
桑名城跡の本丸から二之丸一帯を整備し、1928(昭和3)年に開園した「九華公園」照れ

約7.2ヘクタールの広さがあり、4月は桜、5月はつつじ、6月は花菖蒲が咲く公園として、多くの人に親しまれているんやって爆笑

静かな落ち着いた雰囲気の中、のんびりと木々の木漏れ日の中の散策が楽しめるほか、同園は大きな堀が残されているのが特徴で、いくつもの橋を渡りながらの散策を楽しめます照れ


桑名城天守台跡
崩れるそうなので登ることもできないらしいガーン
なんとも残念ショボーン

桑名城は、東海道五十三次の要衝で、木曽川、長良川、揖斐川の木曽三川が伊勢湾にそそぐ河口に位置する水城プンプン

文治2年(1186)、桑名三郎行綱が支配したことに始まるんですえー
天文11年(1542)には、伊藤武左衛門実房の東城、矢部右馬允主繁の三崎城、樋口内蔵介親氏の西城の3つの城があったとかキョロキョロ

このうち、東城がその前身とされてますプンプン

木曽三川が伊勢湾にそそぐ河口に位置する水城で天正2年(1574)、織田信長の伊勢侵攻により、桑名は信長配下の滝川一益の所領となったんですニヤリ

伊勢長島城を拠点とし三城を支配下に置きましたプンプン
天正11年(1583)、織田信雄に味方した秀吉配下の天野景俊が入るが、天正12年(1584)には織田信雄と秀吉が対立、信雄に味方した家康の家臣、酒井忠次と石川数正が入ったとか爆笑

その後、天正19年(1591)に一柳右近が桑名に入った時、桑名城を築城プンプン

文禄4年(1595)、美濃三人衆のひとり、氏家ト全の長男である氏家行広が城主となるが、関ヶ原の戦い後、所領を没収され、慶長6年(1601)に本多忠勝が城主となり10万石を領したえー

忠勝は城を改修、10年の歳月をかけ、慶長15年(1610)に巨大な桑名城を完成させた(同年、忠勝は没する)プンプン

桑名城が本多忠勝の城と称されるのは、これが基礎となっているんよえー

大坂の役の後の元和2年(1616)、豊臣秀頼に嫁いでいた千姫と、忠勝の嫡子で「七里の渡し」を警護していた忠刻が船中で会い、恋に落ちたという逸話があるみたい爆笑

千姫は忠刻と結婚後、桑名城内に住んだ照れ

元和3年(1617)、父の忠政とは別に新たに10万石を与えられ姫路城に移りましたえー

替わって山城国伏見城より松平定勝が入り、吉之丸・外朝日丸など桑名城を拡張プンプン

寛永12年(1635)、大垣城から三男定綱が桑名に入封し、4重6階の天守を築くなど城を大改修プンプン

元禄4年(1691)、桑名で一泊し「七里の渡し」を渡り江戸に向かったドイツ人医師ケンペルは次のように、桑名城と城下町について書いていますキョロキョロ

「桑名は入り江になった港に臨んだ尾張国(正しくは伊勢の国)の最初の大きな町である。町は三つの地区、すなわち互いに連絡はしているが、別々の小さい町から成っていて、われわれの宿舎がある町はずれまで通りぬけるのに45分以上かかった。最初と最後の地区は、築き上げた低い堤防と堀に囲まれ、立派な門と番所がある。

これに対して中の地区は堤防もなく、土地は低く、川がたくさんあり、水に囲まれている。

この地区の南側の水中に、松平伊豆守(正しくは松平越中守定重)の居城が高くそびえていて、銃眼のあいた城壁は美しい屋根で覆われ、櫓が近い間隔で建てられている。

城は石垣を築いた深い堀で町と区切られているが、二つの橋で行き来できる。他の側は海に面している。城の中央には日本流に作られた屋根のある四角の白い天守が高くそびえ、見るからに立派である。」

元禄14年(1701)、大火で天守や多くの櫓を焼失、天守は再建されなかったショボーン

その後、松平(奥平氏)、松平(久松氏)などが入るなど城主は替わり、二度目に入封した松平(久松氏)定敬のとき明治を迎えることとキョロキョロ

慶応4年(明治元年・1868)、戊辰の役で桑名藩は、城主、松平定敬が、尾張名古屋城主の徳川慶勝、会津若松城主松平容保の弟にあたるため官軍に背き、やがて新政府軍に敗北えーん

このため桑名城は討幕軍から砲撃をうけ壊滅状態となり、開城時に火を放ったため灰燼に帰したショボーン

桑名城の規模は大きく、櫓51(三重櫓3・二重櫓24 ・附櫓24)、多門櫓46、井戸14、水門3があり、城下町を含む総構を有したえー

また「七里の渡し」も含めた築港工事とともに城下町も整備した。この地理的な広がりから別名「扇城」とも言われていますえー


忠魂碑
戊辰殉難招魂碑戊辰の役での桑名藩士犠牲者を追悼して桑名城天守台跡地に建てられましたプンプン

建立年月明治二十年(1887)年十二月
[右面]忠哉義哉桑名士民守節取義各殉其難郷党追慕建碑招魂


三重県桑名市吉之丸9


桑名お土産part2
三重限定 でこたんみるく サクマ製菓 378円爆笑

サクマ製菓と長登屋の共同開発とかびっくり
三重県限定商品のでこたんミルクキャンディです照れ


でこたん(不知火)は爽やかな香りと濃厚な甘みと酸味が特徴の高級柑橘プンプン

伊勢志摩産のでこたんストレートジュースを使用した、ミルクとの層がサクサクおいしいとっておきのキャンディです爆笑