桑名巡りまだまだ続きます
円妙寺から桑名駅を超えて…
1キロほど
北桑名神社へ
北桑名総社(北桑名神社)
【きたくわなそうしゃ】(きたくわなじんじゃ)
江戸時代初めより現在地に鎮座し「三崎神明社」とも「今一色神明社」とも称された今一色の産土神。明治41年(1908)、太一丸神明社、佐乃富神社と合祀され北桑名総社北桑名神社と改称しました。
鳥居
持統天皇御舊跡
壬申の乱(672年)が起こり、大海人皇子(後の天武天皇)は一族を連れて桑名郡家に着き、妻の菟野皇女(後の持統天皇)と幼い草壁皇子を桑名郡家に残し戦場となる美濃国不破へと向かわれ、戦いは大海人軍が勝利し桑名の地に戻られました
この間、菟野皇女は桑名郡家に滞在され、その地が当社であると伝えられているそうです
神門
切妻、桟瓦葺き、一間一戸、四脚門
最近に新しく建て替えられたみたいですね
手水舎
カッコいい龍
そして…
手水鉢もなかなかの物
でも……
水は出る事はなかった…
拝殿
昭和20年(1945年)7月17日、戦災により神域全てが焼失したが、即時に仮本殿を急設し、昭和44年(1969年)に【本殿】が竣工し、現在に至ります
御祭神
天照大神
鵜葺草葺不合命(神武天皇の父)
須佐之男尊
天児屋根命
大山祇命
高水上命
泣沢女神
持統天皇
天照大神【あまてらすおおみかみ】
日本神道の主神
太陽神であり、皇室の祖神として伊勢神宮に祀られています
高天原(たかまがはら)の主宰神
「古事記」では、伊邪那岐命(イザナギ)が黄泉の国から戻り、川で禊をした時に左目から化生したとされてます
このとき右目から生まれた月読尊(ツクヨミ)、鼻から生まれた須左之男命(スサノオ)と共に、三貴子と呼ばれてます
凄い所から生まれるもんなんやね…
天照大御神、大日孁貴、大日孁尊、天照大日孁尊、天照太神、天照神、撞賢木厳之御魂天疏向津媛命とも
アマテラスとも言われてます
天皇家と物部氏、尾張氏の祖先とされてます
鵜葺草葺不合命 【うがやふきあえずのみこと】
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)(山幸(やまさち))と豊玉毘売命(とよたまびめのみこと)の間に生まれた子で、神武(じんむ)天皇の父(すなわち、日向三代の神の3代目)にあたります
この神の名は、豊玉毘売命が、海神の国から地上の国にやってきて、海岸のなぎさにつくられた鵜(う)の羽を葺草(かや)にした産室の屋根を葺(ふ)き終わらないうちに出産したことからつけられたんやって
八尋(やひろ)の鰐(わに)になって出産しているところを彦火火出見命に見られたために、豊玉毘売命は海神の国へ帰った
海神の娘が海岸で出産し、生まれた子が皇室の祖神となるというのは、海上漂着型の始祖神話の典型といえるとか…
なお、この神は海童神です
須佐之男命【スサノオ】
太陽神アマテラスとともに生まれたスサノオ
暴風の神として、厄払いの神様としても信仰されています
荒々しい乱行により天上界から追放されるが、ヤマタノオロチ退治に成功するなど正義感が強く知恵者としての一面ももっており、多面性のある神やね
また、こうした英雄的側面を以て、武の神として崇められることもあるんです
天児屋根命【あめのこやねのみこと】
記紀などに見える神
中臣氏の祖神です
紀によれば興台産霊(こごとむすび)の子神
天照大神が天の岩屋戸に隠れた時占いを行ない、祝詞を唱えた
天孫降臨に従った五部神(いつとものおのかみ)の一神なんです
大山祇命【おおやまづみのみこと】
記紀神話に登場する山をつかさどる神
古事記では大山津見神と
古事記では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の子とされ、足名椎(あしなずち)・手名椎(てなずち)や木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)(木花開耶姫)の父であり、天津神(あまつかみ)に対する大地の国津神(くにつかみ)として登場
高水上命【たかみなかみのみこと】
皇大神宮神主の荒木田氏が開拓した当時、産土神として尊んだ神
泣沢女神【なきさわめのかみ】
ナキサワメ神はイザナミ命の死を悲しむイザナギ命の涙から生まれた神さま
神名の沢は多(沢)のことで泉や井戸、胡沼などの水の湧き出る場所を意味します
また「さめざめ泣く」という意味から「泣き女」という異名を奉られることもある水の女神なんです
井戸神として信仰され、生命力の源である水の神として新生児を守護する神であり、生命長久の神です
持統天皇【じとうてんのう】
第41代(686 - 697)
天智天皇の第二皇女
大海人皇子の妃
大海人が壬申の乱の後即位して天武天皇となると共に皇后に立った
病弱な天皇を補佐して律令国家建設に尽力したんです
天武没後、子の草壁皇子の即位を願って、即位の式なしに実権を掌握(称制)する一方、ライバルの大津皇子を謀反の罪で自殺に追い込んだとか
689年草壁の没後に即位
在位中の業績は飛鳥浄御原令の施行、庚寅年籍の作成、藤原宮の造営など
伊勢神宮を始めたのも彼女とか
また、明治天皇以前に在位中に伊勢神宮に行幸した唯一の天皇でもあるんやって
草壁皇子の遺児である軽皇子が15歳となると文武天皇(軽皇子)に譲位、自らは史上初の太上天皇と
藤原不比等を用いて701年「大宝律令」を完成させ、翌年末崩御
天皇としては初めて火葬されたとか
ご利益
開運招福、火防、地域安全、家内安全、厄災除け
狛犬
顔…デカイけど…
迫力はバツグンやね
五霊神社
明治41年の合祀の際、この地に点在していた小祠を一社に統合して奉斎するようになりました
「赤神様」とも呼ばれ、桑名藩主の御命により防火の神の八天宮(火産御霊神)とともに
稲荷大明神(宇迦御魂神)、金刀比羅宮(大物主神)、天神社(菅原道真)、船魂社
(神功皇后)を祀っています
火産御霊神
火産霊神は別名を迦具土神と云います
伊邪那美命から産まれた炎の神ですが、炎の神ゆえに、伊邪那美命の陰部に大やけどを負わせてしまい、これが原因で伊邪那美命は亡くなってしまいました
これに怒った伊邪那岐命の手により、火産霊神は首を切り落とされてしまいましたが、その血や体からは岩石の神、火の神、雷神、雨の神、水の神、それに多くの山の神々が誕生しました
ご神徳は、鍛冶、土器、消防、火の神として知られ、火が全てのものを浄化することから祓いの神、更に全てのものを燃やし尽くすことから、物事を初期状態に戻す帳消しの神としても信仰されています
宇迦御魂神
八百万の神の中で代表的な食物神
全国の稲荷神社で祀られる神さまやね「お稲荷さん」と呼ばれ親しまれています
「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として広く信仰されています
大物主神
大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国をつくっていけばよいのかと思い悩んでいたところ、海の向こうから光り輝く神様(大物主神)が現れて「我を青垣の東の山(三輪山)に奉れば国造りは上手く行く」と助言された為、大国主神は大物主神をお祀りする事で国造りを終えたとされています(大国主神は『国造り』を行い地上を治めた国土開拓の神様)
菅原道真
平安時代に活躍した学者・政治家
幼少期より文才に優れており、勉学に励んで出世を重ねていきました
民衆や天皇からも信頼され、学者の家系では異例ともいえる右大臣まで昇進しますが、政略による左遷が決まり、無念のうちに死去してしまうなど、波乱に満ちた人生
死後は怨霊として恐れられる存在でしたが、その後は稀有な才能を発揮した功績から「学問の神様」とされ、「天神」として現在においても信仰され続ける存在なんよ
神功皇后
第15代応神天皇の母にあたり、神託に従い、三韓征伐を成し遂げた勇ましい武の側面をもつ仲哀天皇の皇后
危険な状況の中でも無事、応神天皇を出産し、立派に育て上げた経緯から、安産祈願や子育大願に用いられることが多いんです
かつては、国内初の紙幣の肖像画にも迎えられるほどの人気を誇ってます
帖付地蔵尊
北桑名神社の境内の外にポツンと…
調べて見たが謂れや年代等見付けられなかったが、堂内には赤い前掛けを付けてもらった石の地蔵が一体安置されています
優しいお顔のお地蔵様やね
御朱印は境内にある神主のお家で…
めちゃ普通のお家なんで…
ピンポンを押す勇気はいります!
お留守が多いとか…なんですが…
優しい奥様が対応して下さいました
三重県桑名市堤原 72-1
七里の渡跡
七里の渡しは、宮宿と桑名宿を結ぶ東海道唯一の海路で、その距離が七里(27. 5km)であったことから、そう名付けられました
この海上ルートは、東海道の宿駅制度(制定は1616年頃といわれている)が設けられる以前、すでに鎌倉・室町時代から利用されており、古くから東西を結ぶ重要な交通インフラ
もっと古くは、壬申の乱の際に、吉野から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)の一族が桑名から海路、尾張に渡ったという説もあるんやって
航路は、外回りと内回りの二通りあり、満潮のときは陸地に近い内回りのルートを、干潮のときは陸地から遠い外回りのルートを使ったと記録されています
この近い方の内回りの航路(海上七里)の距離が七里
なお、かならずしも呼び名通り七里きっかりの距離ではなく「七里」は通称なんよ