安養寺から福井駅まで戻りそこから1キロほどの佐佳枝廼社へ
佐佳枝廼社 【さかえのやしろ】
越前東照宮
当神社の由緒は、寛永5年(1628)、
福井城内の天台宗万福山泉蔵院瑠璃光寺北に社殿を建立し、東照宮権現様(徳川家康公)をお祀りしたことに始まります。
鳥居
雲一つない青空に白い鳥居
幻想的ですね
手水舎
シンプルな手水
龍が多い福井で竹は珍しいかもね
拝殿
明治6年、福井藩祖松平秀康公の御偉業を称えてお祀りするにあたり、春嶽公により社名を佐佳枝廼社と命名されました
明治14年、県社に列せられ、明治24年11月11日、そのご遺徳を景仰して松平慶永公を合祀奉りました
以後、昭和15年の春嶽公50年祭には、勅使を遣わされるなど、皇室の御崇敬も厚く、福井の氏神様として社頭は賑わいを見せておりましたが、昭和20年の大東亜戦争による空襲、また昭和23年の福井地震と二度に渡る戦災・震災で、御社殿付帯施設一切が焼失
しかし、すぐにも復興の気運が高まり、翌24年、岡田啓介氏、三井鋹子氏、松平康昌氏らの御助力により、京都市下鴨にある三井家祖霊社を譲り受け、拝殿として移築復元し、また昭和30年には、先の災害を鑑みて、北陸初の鉄筋コンクリート造り、入母屋造りの御本殿が造営されました
御祭神
松平秀康公(福井藩祖)
徳川家康公(江戸幕府初代将軍)
松平慶永公(福井藩十六代藩主)
松平秀康公
(結城秀康公)
越前福井藩初代藩主。
正三位、中納言。徳川家康公の御二男。
生母は永見吉英の娘於万の方。
御幼名は於義丸。
天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの講和の際、豊臣秀吉の御養子となって羽柴秀康と名乗られ、河内(大阪府)に一万石の領地を与えられたんよ
天正18年(1590)、下総(茨城県)の結城晴朝の養嗣子となられ10万1千石の領地を統括
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いでは宇都宮に在陣し、石田方の上杉景勝、佐竹義宣の進陣を防ぎ、その功によって越前68万石へ加増転封となり、 北庄城(福井城)の修築、城下の町割や領内の要地に腹心を配置するなど越前福井藩(現在の福井市)の基礎を固めたんやって
秀康公の武将としての器量は一流で武勇抜群、剛毅で体躯も良かったが、礼節正しく謙譲深き藩主であられたという逸話が残っています
徳川家康公
(東照大権現)
秀康公の御父君で、江戸幕府初代将軍(在職1603〜05)。
三河(愛知県東部)の松平広忠家の嫡男としてお生まれになる。
御幼名は竹千代。
桶狭間の戦いの後、今川氏から独立され、織田信長と同盟して駿河・遠江(静岡県)・三河3ケ国に所領を拡大された。本能寺の変の後は、いち早く甲斐(山梨県)・信濃(長野県)を手に入れ、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦われ一歩も譲らず和睦
天正18年(1590)、関東にお移りになり250万石の大大名となられ、秀吉の死後は関ヶ原の戦いに勝利され天下の実権を握り、将軍となられ、江戸に幕府を開かれる。将軍職を引かれてからも大御所として実権を離さず、徳川氏政権265年間の基礎を固められたんです
家康公は、その生涯の生き方・考えをまとめたものを残されており、現在においても素晴らしい人生訓として語り継がれています
松平慶永公
(春嶽公)
幕末期の越前国福井藩主、幕府の政事総裁。
御幼名は錦之丞。
元服のときにつけた雅号春嶽が通称となられる。
田安家徳川斉匡の御八男で、天保9年(1838)、11歳のとき、越前家をお継ぎになり、第16代藩主となられました
以後20年間のうちに、橋本左内、由利公正、中根雪江(靭負)、鈴木主税ら身分を問わず才ある人物を登用し、藩政の刷新に努め、西洋砲術や銃隊訓練など軍事力の強化、藩校明道館の設立と併設の洋書習学所、種痘の導入など洋学の採用も推進
幕末、明治維新の名君と仰がれる
将軍継嗣問題においては、一橋慶喜を擁立
井伊大老と対立し、安政の大獄において隠居させられる
文久2年(1862)、勅旨により政事総裁職になられ、幕政改革にあたられた明治維新後は、政府の議定・大蔵卿などの要職を担われました
新型コロナウィルスの収束を願い折られた鶴
初めは、宮司さんや氏子さんが折り鶴を始め、参拝者が折り約5万羽になっています
この鶴の願いが…叶ったのかな
狛犬
胸を張り…今日も頑張ってます
灯籠には、「徳」「寿」「福」の文字があります
1文字でも意味を成す感じですが、徳川、福井を指しているのかな?
中根雪江翁顕彰碑
雪江の友人勝海舟の撰文染筆によるもので、篆額は春嶽の揮毫
明治25年建立で
福井震災で倒壊したが、修復再建
生没:文化4年(1807)~明治10年(1877)
幕末の福井藩士
文化4年(1807)福井藩の上級武士の長男として城下に生まれ
天保9年(1838)松平春嶽が藩主として迎えられると、春嶽の教育に力を注いだんです
また財政事情の厳しい福井藩において春嶽が進める藩財政の立て直しを助け、特に倹約政策に効果を上げ、藩財政の危機を救いました
安政の大獄で春嶽が隠居謹慎になると、藩政の第一線を退くが、17代藩主の茂昭を補佐するため、文久元年(1861)には江戸へ赴き、文久2年(1862)春嶽が政界に復帰して、政事総裁職に就任すると、再び側近として、参勤交代の緩和などの幕政改革において春嶽を補佐
晩年は福井県三国町宿浦で閉居し、釣りを楽しみと
明治10年(1877)没
厄割石
厄や災いを割るといわれる「厄割り石」
素焼きの陶器・かわらけに息を吹きかけて自分の中にある厄をのせ、石を目掛けて思い切りかわらけを投げ、厄を割る
多いときで1日に500~600枚もの皿がなくなるほど、参拝者に人気なんやって
七五三 着袴・深曽木の儀
基盤の上から飛び降ります
11月15日に祝う「七五三」
3歳と7歳の女の子に5歳の男の子の祝いとして、多くの方に思い出のあることでしょう
しかし、この祝いの起源を知る人はあまり多くないんやって
現在の「七五三」のもとになった祝いは古くは「髪置き(かみおき)」・「深曽木(ふかそぎ)」・「着袴(ちゃっこ)」・「帯解(おびとき)」などと呼ばれていたのです
これらの行事は、とくに平安時代の公家社会で盛んに行なわれていました
古くは、子どもの髪は、生まれてからしばらくのあいだは剃ることが普通だったよう
末永くじょうぶで美しい髪に恵まれるようにとの願いとかで…
しかしやがて子どもが数え年の2~3歳になると、髪を伸ばし始めます
これに際して、少し伸びた子どもの髪をきれいに切りそろえる儀式を行いました
この儀式は「髪置」と呼ばれ、邸内の広間に客を招いて、儀式の後に酒宴を開いたもの
やがてこの子が4~5歳になると、伸びた髪をいま一度切りそろえる儀式を行いました
これが「深曽木」といわれる儀式で、これももちろん盛大な宴会つきで行なわれたものなんやって
そして子どもが5~6歳になると「着袴」の儀を行なって、初めて袴を着けました
これは当時男女ともに袴を着けることが服装上の常識だったからで、これ以降は子どもたちも基本的には大人とほぼ同じ形式の服装を身につけることになるわけです
初めて袴をはくときには、両足を一度に袴に通します
碁盤の上では、青石を両足指に一つずつはさむ習わしでした
この青石は、吉日に吉方を向いて川に赴き、川原で拾ってきたもの
現在ではかわりに黒の碁石を使うことが多くなっています
中世頃には、「深曽木」と「着袴」は同日に連続して行なわれるようにもなってゆきます
「着袴」に臨む子どもたちの小袖などの腰には紐がつけられていて、その紐を軽く結んでいたのですが、7歳ごろになると、その紐を取り去っていよいよ帯を結ぶようになります
このとき行なわれる儀式が「帯解」といわれるもの
これら一連の儀式は男女児ともに行なわれたもので、もとは性の区別による儀式の違いはありませんでした
ただ、髪を切ったり袴の紐や帯を結んだりしてあげるのが、男の子には父親、女の子には母親の役目だった、というだけ
まさに子は宝、「銀も金も玉も何せむにまされるたから子にしかめやも」と詠んだ山上憶良の歌が思い出されます
また、儀式の行われる日取りも、現代のように決まっていたわけではなく、子どもの誕生日などを中心として、陰陽道の占いで吉日を選んで行なわれていました
掛け替えのない子どもの健やかな成長を祈る気持ちを大切にするなら、七五三は11月だけでなく、その子の誕生日に祝うというのもまた、本来の行事の意義にかなったあり方だと言えるよね
これら一連の儀式の中で、「着袴」は中世から近世にかけて武家社会や町の人々の中で広く行なわれるようになりましたが、明治以降は服装の西洋化にともなって一般には行なわれなくなり、わずかに皇室にその伝統が守られるのみ
そして大戦の後、関東で「七五三」と呼ばれる祝いが一般的になりました(昭和10年頃には今の形があったようです)
ただし、関西でもこの祝いを広く行なうようになったのは最近のことで、京都などでは今でも昔からの「十三参り」を陰暦の3月13日に行なうだけということもあるようです