武生旅、最後は帆山寺から1キロほど
走った所にある総社大神宮へ
総社大神宮
【そうじゃだいじんぐう】
総社とは大化の改新の結果、越前国にも国府(現越前市)が置かれ、国司は管内の官社を始め、越前国内神名帳所載の諸社を巡り親しく巡拝することになっていたが、やがて巡拝の労を少なくする為や急を要する祈願や祭礼のために、国司所祭の神霊を一ヵ所に合祀して総社が建てられた。
爾来、当社が越前国における総社とされる。
奈良時代の天平11年(739年)には、聖武天皇の勅願で諸国の総社に大己貴命(大国主命ともいい国土経営の神であり、土地の守り神としても信仰されている)を併せて祀る事になり、社伝に曰く、同年5月5日丙申の日に神霊が遷され、この併祀の際、大和国大神神社大物主の祭主、太田田根子命の後齎忠麻呂を筑前国の糟屋郡より召し、この御鎮祭の砌、帝都より供奉したという。
元糟屋郡より出たるを以て糟谷を氏とし、元祖太田田根子命の田田を忠に用い、今にその職を伝えている。
以後 総社は越前一ノ宮及び二ノ宮と共に越前における代表的な社として、社領百余町、社家十家有り、代々領主および人々の崇敬をうけた。鎌倉時代の末期正応5年(1192年)頃には、遊行上人一遍僧徒の弟子他真教が数度に亘り参詣し、白山平泉寺僧徒の攻撃を受けるなどの争乱も歴史に名高い。
室町時代になると打ち続く戦国争乱により神領を蚕食され社殿が焼かれてその勢力は衰退したが、天正元年(1472年)越前の守護朝倉孝景公により社家宛に神領安堵の黒印状が出され、更に天正元年(1573年)には織田信長の朱印状も出されている、
天正年中(1573~1592年)前田利家公府中在城の時、本殿及び拝殿が寄進され、松平秀康公入国以来深く当社を崇敬して数多くの社領を寄進、同忠昌公、光通公の代になり、社領の判物を納め、時に応じて社参奉幣がなされた。
本多富正公が府中(現越前市)の領主となった間もない慶長13年(1608年)30石の社領が寄進され以後歴代の崇敬を受け、文化元年(1804年)甲子8月、1千年の大祭が斎行された。
旧福井藩にて、郷社に列し、明治8年4月22日敦賀県にて県社に列せられ、同41年4月26日神饌幣帛料供進の神社に指定された。
同44年7月25日武生市(現越前市)並木町美雪にあって天照皇大神を祀る無格社神明神社を合祀した。
現在の社殿は大正15年6月に造営されたもので、本殿は流れ造り、拝殿は入り母屋つくりで千鳥破風を乗せ唐破風の向拝が続いている。
社号標の文字…力強くてカッコいいよなぁ
鳥居
額の字は東郷平八郎によるもの
吉左衛門実友の四男として1848年(弘化4年)、鹿児島城下の下加治屋町に生まれた東郷平八郎
下加治屋町は、西郷隆盛や大久保利通など、維新の豪傑を多数輩出している所
戊辰戦争では軍艦「春日」に乗り組み、蝦夷地まで行き榎本武揚の旧幕府艦隊と戦い、1871年(明治4年)にはイギリスに渡った平八郎
商船学校で蒸気船の操縦などを学び、帰国後の1878年(明治11年)には軍艦「扶桑」の乗組員に
その後は軍艦の副長や艦長として海軍に所属し、海軍大佐にまで昇りつめたんです
そして1891年(明治24年)に巡洋艦「浪速」の艦長となり、その地位のまま日清戦争にも参戦
途中、ハワイ女王へのクーデターの鎮圧にも参加しているんやって
以降、海軍大学校長、常備艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官等を歴任し、日露戦争前には連合艦隊司令長官に就任
1904年(明治37年)に始まった日露戦争
この戦争を機に東郷平八郎は世界中に名を轟かせることになるとか
開戦後、日本陸軍は多くの犠牲を出しながらもロシア太平洋艦隊の拠点である旅順要塞を攻略
ロシアが満を持して送り出したのが「バルチック艦隊」
日本側はなんとしてもバルチック艦隊を撃滅し、その戦果をもって講和条約を締結したいと望んでいた
そこで日本海海戦において東郷平八郎が用いた戦法がのちに「東郷ターン」と呼ばれるT字戦法
バルチック艦隊を発見すると東郷平八郎は全艦隊に出撃をかけ、バルチック艦隊とすれ違うように見せかけ直前で左へ向きを変えて進路を遮断
バルチック艦隊が日本海にたどり着くまでの7ヵ月の期間に徹底的に射撃や夜戦の訓練をさせてきたかいもあり、敵艦は次々に炎上
ついには全滅にまで追い込んだんやって
のちに東郷平八郎が用いたこのT字戦法は東郷ターンと呼ばれることに
アジアの小さな国だった日本が大国ロシアの艦隊に大勝利したことは世界列強が驚いたと同時に、東郷平八郎が「世界の東郷」となった瞬間だったんやって
手水舎
龍~
って…よりも…
オオトカゲ
拝殿
戦国時代には前田利家により府中城が拡張されたときに、兵火で焼失し荒廃化していた国分寺境内に移し、社殿を造営
江戸時代の本多氏も社領30石を安堵し、今に続く武生の氏神として市民の崇敬を受けています
総社は何度も火災にあい、現在の社殿は1926(大正15)に建立されたんやって
主祭神
大己貴命
越前国の神々に併せて、大己貴命をお祀りするようになったのは739年(天平11年)のことだそうですよ
ご利益
家内安全、息炎延命、商売繁盛、災難防除
狛犬
1953年(昭和28年)に天草の大塚源作によって彫刻されたことが記されています
忠魂殿
武生忠魂殿は、旧武生の戦没者の英霊を祀っています
天満社
菅原道真公
菅原道真公は、平安時代初期の845年に貴族の家に生まれ、学者・政治家・詩人として活躍
詩や文章に秀でた秀才で、政治においてもメキメキと頭角を現し、右大臣に抜擢されました
しかし、その才能に嫉妬した左大臣・藤原時平らが「道真は宇多上皇を裏切り、陥れようとしている」という噂を流し、無実の罪を着せられた道真は太宰府に左遷されてしまいます
道真の死後、天災や戦乱が起こり、人々はこれを「道真の祟り」として恐れました
そのうち、菅原道真は生前の無念や怒りによって天候を司る火雷天神になったと言われるようになりました
道真が「天満大自在天神」という天候を司る神様として太宰府天満宮や北野天満宮に祀られると、朝廷の守護神として崇敬を集めます
詩や文章に優れていたことから、学業の神様としても信仰されるようになりました
ご利益
学業成就、合格祈願、芸能向上、厄除け、五穀豊穣、出世
神馬像
神馬とは
「日本の神社に奉納された馬」または<祭事の際に使用される馬>のこと
奈良時代から、祈願のために馬を奉納する習わしがあり、奉納者は一般の民間人から皇族まで様々
また、現在奉納される馬は、道産子やサラブレッドなど様々な種類があります
「日本の神社に奉納された馬」には、『神が乗られる馬』と「祈願や雨乞いなどのための馬」があるんやって
古来より、馬は神の乗り物とされ、神は馬に乗って降臨されるものとされてきました
そして多くの神社が、それらに備えて、境内の神馬舎などに生きている馬や馬像を収容しています
神が乗られる『神馬』には、
①生きている神馬
②腹部に社紋をつけたブロンズ神馬像
③神馬舎や楼門などに納められ、化粧し装飾された神馬像(飾り馬)
の三つのタイプがあります
一方、「祈願や雨乞いなどのために神に奉納される馬」は、当初は生きている馬でした
しかしながら、小規模の神社ではその世話などが重荷となること、献納する側にも大きな負担となることなどから、木馬・土馬・板立馬・石像・銅像・絵馬などに置き換わっていったんやって
福井県越前市京町1-4-35
福井と言えば 越前おろしそば
JR武生駅から歩いて10分の場所に位置するこのお店 うるしやさん
160年の歴史があり越前そば発祥の老舗といわれ、昭和天皇にもおろしそばを献上したことがあります
その後一時休業していましたが、2019年に復活を果たしたのです
築100年の古民家は風情ある建物
ミシュランにも選ばれているんよ
天名おろし焼き鯖寿司セット 1580円
人気の鯖寿司も開店早々売り切れになることもあるんやって
身も厚く良い感じに焼きが味わえておいしかったです
北陸本線のローカル線に乗り…ゆっくりと帰りました