大垣八幡神社から次は常葉神社へ
歩いて…10分くらいの距離かな?
常葉神社 【ときわじんじゃ】
嘉永5年(1852年)、大垣藩戸田氏9代藩主である戸田氏正が、大垣藩戸田家初代である戸田一西の250回忌の際、戸田一西を御祭神として大垣城内に創建したそうで、この際、伊勢神宮神官より「常葉大神」と命名されましたが、明治4年(1871年)、大垣城が廃城となったため、明治6年(1873年)に大垣八幡神社の境内に移転し、現社号に改称されたそうです。
明治24年(1891年)、濃尾地震で倒壊、明治35年(1902年)にこの地へ新築移転し、大正5年(1916年)に大垣藩戸田氏初代藩主である初代藩主戸田氏鉄を、昭和41年(1966年)、大垣藩戸田氏2代藩主の戸田氏信から、3代氏西、4代氏定、5代氏長、6代氏英、7代氏教、8代氏庸、9代氏正、10代氏彬、そして11代藩主戸田氏共を合祀しました。
鳥居
大垣公園の北側に鎮座する神社
常葉(ときわ)の名前の由来は、「あらはの旗指物」からという説があるみたい
常葉神社の社宝の旗指物であり、戸田氏光が松平広忠から授かった、赤色の旗指物に金色の「あらは」の文字が書かれているんやって
あらはとは、新しい葉の意味と新しい刃の意味があるとか
手水舎
龍~
ん?
何か足りないかも…
髭がない…
拝殿
御祭神
戸田一西命 氏鉄命 氏信命 氏尚命 氏定命 氏長命 氏英命 氏教命 氏庸命 氏正命 氏彬命 氏共命
戸田一西公は大垣藩の藩祖
三河国・田原城主 戸田宗光の第六世で、徳川広忠・家康公に仕えて戦に従い、勇名を馳せたんよ
天正十八年戦功により武蔵国鯨井城主となり、次いで近江国大津城を経て、同国膳所城に転じた
戸田氏鉄公は、一西公の子で、膳所城主より尼ケ崎城主に移り、寛永十二年( 1635 ) 大垣十万意思の城主となったんです
嘉永五年 ( 1852 ) 五月、藩祖一西公二百五十年忌に当たり、第九代藩主氏正公は、藩祖追悼の意を表す為に祠廟を大垣城内松の丸庭内に創建して公の神霊を奉祀し、伊勢神宮の祭主大中臣教忠卿に請り、常葉明神の神号を受けたんやぁ
廃藩置県の後、城地返上となり、松の丸館も取り払われ、霊社も明治六年八月
八幡神社境内に遷座再営
明治二十四年濃尾大震災で八幡神社と共に社殿は倒壊
明治三十五年五月、藩祖一西公三百年忌を記し、旧藩士・民有志より旧藩主に請い、再建計画を興し、旧大垣城内天守閣西の現在地に社殿を新築することになり、同年十月二十三日遷宮式を行ったんです
大正五年、初代藩主氏鉄公の神霊を合祀し、社格も県社となったが、昭和二十年七月二十九日夜米空軍の空襲を受け大垣城とともに焼失
戦後の昭和二十五年、漸く復興の気盛り上がり、社殿の再建となり、昭和二十六年神社本庁管轄、宗教法人常葉神社と
昭和四十一年、藩主二代目氏信命から十一代氏共命まで十柱を合祀することとなったんよ
これは、大垣氏の発展の基は、二百七十年に渉る、戸田家歴代藩主の恩恵に依るところが大きいと言う氏子の要望に基ずいたものなんやって
ご利益
地域・家内安全、子孫繁栄、諸願成就
狛犬
顔でか狛犬さんです
可愛いですね
徳吉稲荷神社
赤い鳥居が並んでいて…綺麗ですね
八幡宮と永田正方の碑
永田正方とは
大垣市史によると馬術に長けた人物のようです
常葉神社の隣に大垣大神宮があります
大垣大神宮
【おおがきだいじんぐう】
明治十四年神宮教院第十七教区本部教会所を当所に設置し、同年十二月十日伊勢神宮御分霊奉戴々十四年鎮座。
翌十五年三月十一日神宮祭主久邇宮朝彦親王殿下御東上の砌当本部へ御参拝。
爾来県民の崇敬極めて厚く、神事も盛大に執行せられしが、國次神社の興隆に反して次第に萎靡振はざるに至り、加へて憲法発布以来の信教の自由は皇太神宮奉齋の本教院の宗教としての存続を困難ならしめ、遂に目い゛し、三十二年神宮教院は解散して宗派を離れた財団法人神宮奉齋會を組織せるに伴ひ、本所亦神宮奉齋會大垣本部と改称。
当本部は神宮大麻の頒布普及に結婚式介助を主たる事業となし、また大垣市民を崇敬者とし、年々春秋の大祭等怠らず、今日迄維持。
昭和二十年七月二十九日の戦災に依り社殿全焼したるを以て仮社殿を建立し、同二十一年十一月二十七日宗教法人設立登記をなし、大垣大神宮と改称。