大覚寺から次は1キロ歩いて清凉寺へ照れ

清凉寺   【せいりょうじ】
現在の清凉寺の寺域には、かつて嵯峨天皇の皇子で源氏物語の主人公 光源氏のモデルとも言われる源融(みなもとのとおる)の山荘 棲霞観(せいかかん)があった。

源融が亡くなった後の寛平八年(895)、山荘の跡地に阿弥陀三尊像を祀るお堂が建立され棲霞寺(せいかじ)というお寺が開かれた。

天慶八年(945)に重明親王妃が棲霞寺に新堂を建てて釈迦如来を安置し、この頃より釈迦堂という通称で呼ばれるようになったという。

寛和五年(985)、宋に渡っていた奈良県 東大寺の奝然(ちょうねん)が現在の本尊である釈迦如来像を持ち帰り、愛宕山(おたぎやま)を中国の五台山にみたてて大清凉寺の創建を計画したが志半ばで頓挫。

永延元年(987)に奝然の遺志をついだ弟子 盛算が棲霞寺のお堂に釈迦如来像を祀り清凉寺へと改称した。

応仁の乱(1467 〜 1477)を始めとした戦火や天災によって度々焼失しており、現存する建築物の大半は江戸時代の再建である


仁王門
天明3年(1783)に再建に取りかかり、翌年(天明4年、1784)上棟プンプン
寛政8年(1796)年に瓦葺工事を行いましたえー
全体的に和様と禅宗様を折衷したものなんやってニヤリ

初層には室町時代の仁王像、上層には十六羅漢像を祀ります照れ
ケヤキ造りの二階二重門びっくり

嵯峨野のちょうど真ん中に位置し、すくっと立つ姿は「嵯峨野の顔」とも称されます照れ


手水舎
井戸からの水なんやねニヤリ


本堂(釈迦堂)
「釈迦堂」は、清凉寺本尊三国伝来生身釈迦如来像(国宝)を安置する本堂照れ

寛永14年の嵯峨大火により諸堂宇が消失しましたが、徳川五代将軍綱吉・生母桂昌院の発願、住友吉左衛門の援助により元禄7年(1694)から修理に取りかかり、同14年(1701)年に上棟。同16年に鎮壇、遷仏供養を行いましたプンプン

桁行・梁間7間、一重入母屋造、本瓦葺で、和様と禅宗様を折衷、本山級の風格を備えます照れ

内内陣の宮殿厨子は、五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進による豪華なものえー

宮殿裏には、古カン(石ヘンに間)筆による「釈迦堂縁起」の一部を拡大した大壁画があります照れ

また本堂正面楣上には黄檗隠元禅師筆による「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛っていますびっくり

本尊 赤栴檀の釈迦如来(国宝)
 清凉寺は「源氏物語」の光源氏が造営した「嵯峨の御堂」に目される寺院えー

それは清凉寺の本尊釈迦如来像が古来より多くの人々に信仰を集めてきたことに由来していますニヤリ

そのことはまた、「如来二伝のおんかたみのむつまじさに、嵯峨の清凉寺にもうでて……」の序文に始まる増鏡や、宝物集・謡曲百万にかたられていることからもうかがえます照れ

本尊釈迦如来は、古来釈尊37歳の生身のお姿を伝えた霊像として厚く信仰をあつめていますウインク

この尊像を北宋より請来した(約千年前)開祖東大寺の奝然法橋が、尊像内に謹封した五臓六腑・願文・経巻等々(すべて国宝)の発見により、まさに生身仏であることが実証されましたウインク

おん丈は等身大の檀像で顔貌・衣文の様式等、マツラ式に似たインド古式の様相を伝えています照れ


弁財天堂
立派なお庭に弁財天が鎮座されてます照れ
弁財天らしい雰囲気ですよね照れ


旧大方丈は、寛永14年(1637)に消失し、現在のものは享保年間(1716-1735)の造営と伝えられますえー

寛永14年の類焼以前のものは六つで早世した徳川家康の息女一照院の位牌所として、家康および実母のおちかの方の寄進になるものニヤリ

方丈前の庭は、ところどころに石を置いた枯山水の平庭で、小堀遠州作と伝えます照れ


愛宕権現社
愛宕権現社(あたごごんげんしゃ)は、慶俊僧都(けいしゅんそうず、奈良時代の僧)が愛宕権現を鷹ヶ峰から愛宕山上に移す際に、初めここに祀った故地で、江戸時代中期の1716年(正徳5年)に大修理が行われていますプンプン

社殿には神仏習合時代の愛宕大権現の本地将軍地蔵(勝軍地蔵)・竜樹(りゅうじゅ)・富婁那(ふるな)・毘沙門天を祀り、明治時代初期の神仏分離以前は愛宕野々宮の神事はこの愛宕権現社前で行われていましたニヤリ

古来より火除けの神として信仰を集めています照れ


多宝搭
1703年(元禄十六年)移築・再建プンプン
府指定有形文化財です照れ

当寺の出開帳が護国寺(東京都文京区)で行われた際に寄進され、その後、江戸から当地へ移築されたようなんよびっくり


一切経蔵(輪蔵)
1885年(明治十八年)再建プンプン
中央の像は、輪蔵(回転式の経蔵)の発案者とされる傅大士(善慧大士)えー
両脇の像は、普浄、普現という人物なんよ照れ
階段を上がって右に進むと、なんと法輪を回せるんですラブ
1回100円えー
遠目にしか見ることの出来ない寺院が多い中、ここは自分で回せるって珍しいよなぁ爆笑

1回まわすと一切経を読んだのと同じ功徳が得られるそうです照れ

取っ手を押して回し始めると、最初は重いガーン
でも回し始めると軽くなっていきます爆笑

ここで調子に乗って勢いをつけると、今度は止まりませんガーン
オーバーランしてやっと止まりましたてへぺろ


薬師寺
平安時代初期の弘仁9年(819年)、世の中には悪病が蔓延し、庶民の苦しみは言語に絶するものでしたショボーン

これを憂慮された嵯峨天皇は、弘法大師(空海)に薬師如来像の彫刻を直々にお命じになり、また、自らも般若心経を写経して病魔の退散と招福を祈念されましたプンプン

そこで弘法大師は、高尾・神護寺において、一刀三礼して薬師如来像をお刻みになられ、その開眼供養を営まれたところ、たちまち霊験が顕れて万民は病の苦しみから救われたと言われています照れ

この像こそが、当山の御本尊である「心経秘鍵薬師如来像」爆笑

当山は嵯峨天皇勅願の寺として大覚寺(嵯峨御所)の保護を受け、勅封の秘仏である薬師如来像をお祀りしてきましたえー

勅封とは勅命(天皇の命令)によって封印されることをいい、御厨子の開閉は大覚寺の手で行われ、当山の住職は開くことも許されなかったと言われていますキョロキョロ

当山の第二代住職・真如親王の代には火災に遭いましたが、鎌倉時代に北条時頼の帰依によって復興し、時の高僧顕意上人を住職にお迎えしましたプンプン

また、江戸時代初期の寛永年間にも再び火災に見舞われましたが、大覚寺の宮尊性親王によって再建プンプン

それが現在も残る当山の本堂なんよえー
明治時代に入るまでは大覚寺の下にあり、嵯峨御所御寺務所が置かれていましたが、明治時代以後は大覚寺を離れ、現在は浄土宗知恩院派に属しています照れ

阿弥陀三尊像
恵心僧都(源信)は生身の阿弥陀仏を拝みたいとお思いになられ、七日の間、清凉寺(釈迦堂)に籠もって祈願をされましたえー

すると、七日目の暁、高貴な尼僧が恵心僧都の前に現れ、その導きに従っていくと、紫雲の中より船に乗った阿弥陀三尊が現れて観音勢至菩薩が櫓(ろ)や櫂(かい)で雲の波を漕いで西の空へと去って行かれるのを拝することができたそうですびっくり

恵心僧都はこの感動を後世に伝えようと、その阿弥陀三尊のお姿を彫刻され、当山に残されたといいますえー

後年、修理の際にこの阿弥陀三尊像を描いた江戸時代の版木が発見され、その絵の中では船に乗っておられる阿弥陀三尊像が描かれていましたびっくり

現在、船は伝わっていませんが、非常に興味深いエピソードやねニヤリ

生六道地蔵菩薩像
小野 篁(おののたかむら)は、毎夜東山六波羅にある六道珍皇寺の空井戸から冥土へ出かけて閻魔王を助け、朝になると嵯峨六道町の福正寺にある空井戸からこの世へ戻ってくるのが常でしたガーン

あるとき、地獄に赴いた篁は、猛火の中で苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって自ら焼かれておられる地蔵菩薩のお姿を見ましたラブ

篁はその地蔵菩薩の尊さに心を打たれ、そのお姿を彫刻し、冥土の出口にある福正寺にお祀りしたそうですニヤリ

冥土からこの世に戻ることを「生まれる」ととらえ、そこが「六道」からの出口であることから、この出口を「生六道(しょうろくどう)」といい、この地蔵菩薩像を生六道地蔵菩薩と言うようになったと伝えられていますえー

なお、福正寺は明治時代に入って廃寺となり、明治13年(1880年)に薬師寺に合併されましたえー
そのとき、この地蔵菩薩像を含め、いくつかの仏像が薬師寺に移されました照れ

福正寺にあったと言われる空井戸は、残念ながら現在は残っていませんショボーン


鐘楼
内部の梵鐘は、1484年(文明十六年)頃のものえー
府指定有形文化財照れ
足利義政、日野富子、足利義尚による寄進なんやってウインク


秀頼公の首塚
豊臣秀頼は1615年、大坂城山里丸にて自害しました(大坂夏の陣)えーん
死亡当時、首級や遺体は発見されていませんキョロキョロ

しかし1980年の発掘調査で、首のない遺骨と切り落とされた頭骨が大坂城から発掘され、埋葬状態や身体的特徴から秀頼のものではないかと推測されていますえー

発掘された骨は、1983年に現在地に埋葬されましたニヤリ

ここに眠る遺骨が本当に秀頼のものかどうかは不明ショボーン

本物の可能性も大いにありえますが、現状の調査結果で本物と断言するのは難しいでしょうねショボーン


阿弥陀堂
清凉寺の前身となった棲霞寺が西面していますえー

棲霞寺は清凉寺の成立後、それに吸収されるかたちで廃寺となり、現在は阿弥陀堂として残っています照れ
1863年(文久三年)再建プンプン

本尊の阿弥陀三尊像は平安時代の作で、国宝ラブ
現在は境内の宝物庫(霊宝館)に収蔵され、特別公開のときのみ拝観できるようですえー

嵯峨天皇の皇子左大臣源融が山荘・棲霞観(せいかかん)を建て、後に棲霞寺と改めましたが、これが阿弥陀堂の始まりなんよウインク


京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46


老松さんで休憩照れ
平安時代の名残を留める京都随一の景勝地、嵯峨嵐山に存する嵐山店プンプン

渡月橋より世界遺産 天龍寺を経て至る店舗奥には茶房 玄以庵があり、作りたての本わらび餅や、お抹茶などと生菓子が頂けるんです照れ


本わらび餅を…と思ったのですが…
イートインは激混みガーン
テイクアウトに変更えーん

夏蜜柑スカッシュ 350円を購入ニヤリ
フレッシュな甘味、酸味、苦味で美味しい照れ
炭酸の爽快感もあってゴクゴク飲めるぞぉ爆笑
爽やかぁ~ラブ

京福電鉄「嵐電嵐山」駅から徒歩3分
JR山陰本線「嵯峨嵐山」駅(南口)から徒歩10分
阪急嵐山線「阪急嵐山」駅から徒歩12分
嵐山駅(京福)から252m
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町20