大阪新四十八願所 阿弥陀巡礼 第8番札所は大阪天満宮駅から北へ10分くらいの所にあります
善導寺 【ぜんどうじ】
寺伝によると、善導寺は平重衡によって焼失した東大寺の復興をめざし,大勧進職を勤めた俊乗坊重源上人(1121~1206年)を開基とします。
上人は畿内・西国の7か所に別所を造営し、そこを念仏信仰の基盤としたのです。
その中で摂津には渡辺津に別所が設けられました(渡辺道場)。
そこには一間四面の浄土堂があり、皆金色丈六の阿弥陀仏像・観音勢至像がまつられていたといいます。
又来迎阿弥陀如来像を安置する来迎堂や「菩薩装束28具」、「天童装束30具」を備え、迎講(二十五菩薩供養会)も修されていた様で(『南無阿弥陀仏作善集』)、この地は阿弥陀仏を信仰する人々でかなりの賑わいがあったのではないかと想像されました。
渡辺道場には他にも小堂があり、重源上人が入宋で招来したという善導大師の真影が祀られていたと伝えれます。
そのお堂を「放光殿」と称し、これが善導寺のはじまりとされているのです。
渡辺津は現在大川にかかる天満橋から天神橋の間にあったとされるのだが、この渡辺道場の所在はいまだ不明です。
山門
時は下り、豊臣秀吉が大坂城下町を整備していく過程で天満の寺町も東西一列に形成され、善導寺はその一角、現在の与力町(1978年までは東寺町という)に堂宇を構えたんよ
文禄元年(1592)傳誉慶公上人が開山となっています
当山第4世實誉文貞上人の時、第108代後水尾天皇の第12皇子・尊光法親王が門跡第二世として知恩院に入られたが、その戒師を勤めた知恩院第35世・勝誉旧応上人と、善導寺の實誉文貞上人とが関東檀林で同行学友とか
そんな縁もあって、文貞上人は度々知恩院の旧応上人の座下に至り、幸いにも尊光法親王の得度の折、法式の指南役を仰せつかったとか
文貞上人はしばらく宮門に通い親王より親しく寵を受けたが、親王は延宝8年(1680)36歳の若さで薨御
その遺言には「私の滅後、長く位牌を祀るように」と命じておられたとか
以後善導寺は、宮中より永代好身寺院として許状を受け、一般寺院では珍しく幕や本堂瓦、提灯台、諸々の仏具等に菊の御紋を付すことを許されているんやって
尚、現在本堂には「無量威王院大蓮社超誉尊光法親王尊儀」の位牌を祀っており、又親王のお墓は知恩院の御廟の隣にある一心院にあるんやって
手水~
水は…
ホースで…
手水par2~
つくばいやね
本堂
江戸時代の大坂市中(大坂三郷=南組・北組・天満組のこと)では三度の大火(享保9(1724)年の「妙知(智)焼け」、天保8(1837)年の「大塩焼け」、そして文久3(1863)年の「新町焼け」)があったとされるが、特に大塩平八郎の乱による「大塩焼け」によって善導寺も被害を被ったようなんよ
この時に上記の謂れを記す善導寺の日記が焼失したと…
又、昭和20年6月1日の太平洋戦争の大阪空襲により、本堂、庫裏が全焼
本尊の2尺8寸の阿弥陀如来坐像は灰燼に帰してしまった
この時御前立の一光三尊仏は第24世良栄上人が事前に福井に疎開させており、かろうじて焼失を免れることができたんやって
現在の本堂は昭和52年に復興を遂げ、鉄筋コンクリート製の造りとなっています
御本尊
阿弥陀如来立像
木製の一光三尊仏で身の丈一尺九寸
文久元年(1861)12月、当時第17 世鏡譽圓霊和尚が夢告に因り、父母精霊菩提を願って本尊の前立として彫刻したんです
もとの本尊は空襲で焼失したけどね
頂点からお地蔵様が見守ってますね
観世音霊場の石柱
旧の大阪四十八願所 阿弥陀巡礼は江戸時代から始まってるんよ
この石柱も江戸時代から建ってるんかな?
小人の家~見っけぇ~
壁に何かの…絵が…
詳しい事…わかんないです