清水寺part3!
可愛い手水
随求堂前に「景清の爪彫観音」があります
灯籠の火穴の部分に、平安時代後期-鎌倉時代の平家の武将・平景清が獄中で爪で刻んだという観世音菩薩像が祀られています
本堂
洛陽三十三所観音霊場 十二番札所
「清水の舞台から飛び降りる」
このあまりに知られたフレーズは、数多くの寺院が密集する京都の東山の中でも特に有名な寺院で、清水寺の本堂で生まれた成句やね
戦後に法相宗から独立した、北法相宗の大本山である音羽山清水寺は、長い参道を登り詰めたその先、清水山(音羽山)の中腹に位置しています
無数の長い束柱を立て、断崖にせり出すように建てられたその本堂は、懸造(かけづくり)、もしくは舞台造(ぶたいづくり)と呼ばれる様式であり、その優雅かつダイナミックな独特の趣は、訪れる人々の心を惹き付けて止まなんよ
江戸時代初期、かつての本堂が焼失した際に幕府によって再建されたこの清水寺本堂は、懸造建築の筆頭として国宝に指定されました
清水寺の創建は、京都盆地に平城京が遷都してくる以前、奈良時代の宝亀9年(778年)にまで遡るんです
興福寺の僧侶であった延鎮(えんちん)が、夢のお告げに導かれるまま音羽山を訪れた所、そこには行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行僧がいました
ところが行叡居士は延鎮に後を託すと述べると、姿を消してしまう事に
延鎮は行叡居士が残した霊木に観音像を刻み、祀ったとか
その後の延暦17年(798年)には、征夷大将軍として蝦夷征討を成功させた坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の寄進を受けて伽藍が整えられ、また弘仁元年(810年)には、嵯峨天皇から「北観音寺」という寺号を賜り、国家鎮護の道場と相なったんです
以降は観音霊場として人々の信仰を集め、栄えていく事に…
清水寺の本堂は、康平6年(1063年)に火災で焼けたのを皮切りに、現在に至るまで総計9度に渡って焼失し、その都度再建されいったんですよ
永万元年(1165年)には、興福寺と敵対していた延暦寺の僧兵によって焼き討ちされ、また文明元年(1469年)には、京都の大多数の寺院と同様、応仁の乱の戦火にかかり、焦土に帰しています
今に残る清水寺の本堂は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に起きた大火によって焼失した後、江戸幕府三代将軍、徳川家光によって、寛永10年(1633年)に再建されたもの
幾度と無く再建されてきた建築ではあるが、その建物の規模や、現在のように崖上に舞台が伸びる構造は、平安時代の頃から変わっていない特徴なんやって
本堂の規模は、桁行九間に梁間七間
屋根は檜皮で葺かれた一重の寄棟造で、南側以外の三方に裳階(もこし)と呼ばれる庇が巡らされています
正面である南側には板張の舞台が広がっており、それを挟むように左右二つ、加えて渡廊下へ繋がる西側にもう一つの計三つ、翼廊が付属しています
これらの翼廊は室町時代の再建の際に付け加えられたものであるといい、その後の再建の折にも代々備えられてきたんやって
舞台と翼廊を支える束柱は最長12メートルと、全国にいくつかある懸造建築の中でも殊に長く、その本数も139本と極めて膨大なんよ
そのような特異な地理的特徴も相まって、清水寺の本堂はその建築のみならず、境内地もまた国宝に指定されている稀な例なんやって
本堂の内部は、奥側3間が本尊を祀る為の正堂(しょうどう)、手前3間が礼拝の為の礼堂(らいどう)、その間1間が相の間という構成
このうち正堂と相の間の床は石敷きで、礼堂は板敷きなんです
建具は外側へ跳ね上げる蔀戸(しとみど)で、舞台脇の翼廊や、なだらかな膨らみを有する照り起り(てりむくり)の入母屋屋根などと共に、平安住宅風の優雅な風情を漂わせています
正堂の中央には三基の厨子が安置されているが、これらもまた本堂の附けたりとして国宝扱い
それぞれ、中央の厨子には本尊の十一面観音立像、右の厨子には毘沙門天立像、左の厨子には地蔵菩薩立像がそれぞれ納められており、特に本尊は頭上で両手を合わせるのが特徴的な「清水型千手観音」なんです
世界遺産に登録された清水寺は「清水の舞台」があまりにも有名で真っ先に思いつくよね
清水の舞台から見下ろす四季の光景や京都の街並みはまさに世界遺産の名に恥じない美しさがあります
舞台は本堂から突き出た形になっており高さは約18mでちょうど4階建てのビルの高さにあたるんです
本来は能や舞を仏様に奉納する所
なお清水の舞台があまりに有名でほとんど知られていないが、清水の舞台=本堂という位置づけになっており舞台奥が本堂になっています
その昔は清水寺の本尊である観音菩薩に命を預けて清水の舞台から飛び降り、助かれば願いが叶い、死んでも成仏できるといわれ江戸時代の記録では234件ほど飛び降りたという記録が残っています
ちなみに生存率は85%ほど(死者数は34人)で意外と高いかも
また当然の事ながら現在は飛び降りる事は禁止されています
「清水の舞台から飛び降りる」この言葉は現在では、思い切って大きな決断をするときなどに使われることわざですが、元々は願掛けの意味を持つ言葉だったんやって
大黒様(出世大黒天)
出世大黒天は、七福神の1人であり福徳と財運をつかさどる神様
ヒンドゥー教のシヴァ神の化身である「マハーカーラ」が仏教に取り入れられた神様なんよ
「マハーカーラ」はマハー(大)とカーラ(黒)という意味で、それがそのまま日本語となったかたちで「大黒天」と呼ばれています
呼ぶ音が似ていることから大国主命と同一視されます
おだやかで包み込むような優しい表情をしている大黒天ですが、元々は破壊と創造の神様
その時は恐ろしい顔をしていたのですが、仏教の守護神となったことで、戦闘と生産をつかさどる神様となり、そこから、財福・豊穣の神様となり、やがては台所の守護神とされるようになりました
そのあと、戦闘や破壊の側面は消えてゆき、財福・豊穣の側面だけが残っておだやかな表情の大黒天となられました
大黒天は、打ち出の小槌を持っており、一振りすると金銀財宝など思い通りのものが出てくるとされています
また、背中に背負っている大きな袋には、七宝が入っています
七宝(しちほう)は、仏教において貴重とされる7種類の宝で、『無量寿経』においては「金、銀、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、硨磲(しゃこ)、珊瑚(さんご)、瑪瑙(めのう)」とされ、『法華経』においては「金、銀、瑪瑙、瑠璃、硨磲、真珠、玫瑰(まいかい)」とされています
そんな縁起の良い大黒天は開運全般のご利益があります
五穀豊穣
なんでも出すことができる打ち出の小槌は、食べ物に困ることがない五穀豊穣などの意味が連想されます
大黒天を見かけるとよく米俵に乗っていますよね
出世・商売繁盛
五穀豊穣を通常より広い意味で解釈されたことで、出世や商売繁盛といったご利益を授かることができると言われています
縁結び
大国主命と同一視されているため、縁結びのご利益を授かることができるとされています
大国主命が縁結びのご利益を授ける神様と言われるのは、白兎を助けた逸話に基づきます
清水寺の本堂内に参拝者を見守るように佇んでいる大黒天は、昔は本堂の外で参拝者を出迎えていました
清水寺の出世大黒天像は室町時代に作られたもので、16世紀の江戸時代に描かれた「清水寺参詣曼茶羅」には、清水寺付近を解説した絵が描かれており、清水寺に向かう道中の鴨川の中の島に出世大黒天を祀るお堂が建てられており、大黒天に拝んだ後に清水寺へ向かったと考えられます
清水の舞台が建てられた江戸時代、500年前から清水寺を訪れる参拝者を出迎えていた大黒天
少し前まで、お賽銭が当たったり、触れられて塗装が剥がれてしまっていましたが、現在は綺麗な姿となりました
立派な供養塔
北総門
清水寺北総門は1966年(昭和41年)6月11日に国の重要文化財に指定されました
清水寺北総門は江戸時代前期の1631年(寛永8年)から1639年(寛永16年)に再建
2010年(平成22年)に全面的に解体修復工事が行われたんやって
なお北総門はかつて塔頭(たちゅう)・成就院(じょうじゅいん)の正門として利用されていました
北総門前の石碑は、成就院の第24世月照上人と、実弟で成就院25世信海上人の歌碑、そして西郷隆盛の弔詞碑
月照は幕末の尊皇攘夷派の僧で、大老井伊直弼から危険視され、安政の大獄で追われる身となり、西郷隆盛の手引きで薩摩に逃れたが、薩摩藩では受け入れを拒否され、1858年(安政5年)11月16日、死を覚悟して隆盛とともに錦江湾に入水
隆盛は助けられたが月照は非業の死を遂げてます
その翌年には、弟の信海も尊皇攘夷祈祷の嫌疑で逮捕され、江戸で獄死している
のちに隆盛は、弔意の漢詩を詠んだとか
大君のためにはなにかお(惜)しからん薩摩の迫門(瀬戸)に身は沈むとも
:月照
西の海あずま(東)のそら(空)とか(変)はれどもこころ(心)はおなじ君が代のため
:信海
相約して淵に投ず、後先無し。豈図(あにはか)らんや波上再生の縁。
頭(こうべ)を回らせば十有余年の夢。
空しく幽明(ゆうめい)を隔てて墓前に哭(こく)す
:隆盛
成就院
成就院は、清水寺の本坊
応仁の乱の兵火によって焼失した清水寺を、勧進活動によって再興した願阿上人(がんあしょうにん)の住房として造られたのがその始まり
現在の建物は、1639年(寛永16年)に後水尾天皇の中宮であった東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)の寄進によって再建
幕末には月照(忍向)・信海両上人(げっしょう・しんかいりょうしょうにん)のもとに近衛忠熈、西郷隆盛をはじめとする勤皇の志士たちが集い、密談を交わした場所なんやって
書院背後の霊鷲山(りょうじゅせん)を借景とする池泉回遊式庭園は、「月の庭」とも呼ばれ国の名勝に指定されています
境内にある地主神社は京都最古の縁結びの神様としてとても有名な神社
特に恋占いの石は日本国内だけではなく海外からの旅行者にも人気でチャレンジする人が多いんだとか
ですが恋占いの石以外も見どころがあります
縁むすびの神さま大国主命を主祭神としていて、その父母神、さらにその父母神と三代にわたってお祀りしていることから、子授け安産の信仰もあります
ほかにも
大田大神:芸能と長寿の神さま
乙羽竜神:旅行安全・交通安全の神さま
思兼大神:知恵と学問、受験の神さま
が相殿に祭祀されています
末社には商売繁盛にご利益のある栗光稲荷社のほか、祓戸社、おかげ明神、撫で大国、水かけ地蔵、良縁大国
つまり縁結びだけじゃなく、いろんな御祈願ができるんですね
ですが全部参拝しないといけないというわけでもありませんし、順番があるわけでもありません
ただ…
今は入れません
掲示されている案内によれば、社殿の修復工事は「2022年5月頃から約3年間」を予定しているそうです
洛陽三十三所観音霊場 十二番札所
京都府京都市東山区清水1-294
二寧坂(二年坂)
大正時代に現在のように整備され、近年、電線が地中化
大正の香りを遺す風情ある道として、フォトスポットとしても人気のスポットやね
画家・詩人の竹久夢二がこの近くに住まいしたことでも知られています
三年坂(産寧坂)
大昔の武将・豊臣秀吉の妻、「ねね」の菩提寺(お墓があるお寺)が、高台寺
近くに住居を構えていたねねは、無事に元気な子どもが生まれることを願ってこの坂を上がり清水寺にお参りしていました
そのことから、安産を願う文字を当てはめて「産寧坂(さんねんざか)」と呼ばれるようになり、その下の坂を「二年坂(二寧坂)」、さらにその下にある坂を「一年坂(一念坂)」と呼ぶようになったと伝えられています
また、お参りの帰りに再度この坂で願い事を念じた「再念坂」という呼び名もあるそうです
わらびもちやみたらしだんごなどを販売している和菓子専門店である藤菜美さんは、清水店のほかに、三年坂本店・高台寺店・ジェイアール京都伊勢丹店・渋谷東急店があり、全部で5店舗あります
今回注文したのは定番メニューの「みたらし団子」(3本 350円)
お団子を受け取ると温かくて、みたらしの香ばしい香りが
出来立てを提供してくれるので、お団子は温かく柔らかくてモチモチやぁ~
串に4つのお団子が刺さっており、焼き立てのみたらし団子は香ばしくてトロトロのタレがよく絡んでおり、きな粉も添えられてるぅ~
藤菜美 清水店は屋外庭園があるので、外で椅子に座りながらゆっくりと食べることが出来ます。
清水寺の近くにあるので、清水寺に登った帰りに寄って、お土産として買って帰るのもおすすめかも
清水五条駅から1,081m
京都府京都市東山区清水2-208-9