清涼寺からすぐえー
ほんの1分くらいで到着爆笑
龍潭寺へ照れ

龍潭寺    【りょうたんじ】
1600年(慶長5)に井伊直政が佐和山城主となり、井伊家発祥地浜松にある井伊谷の龍潭寺を分寺、龍潭寺の五世住職昊天禅師を招き建立されたものと伝わります。

1602年(慶長7)に着工、2代藩主・井伊直孝の代の1617年(元和3)に龍潭寺の諸堂が完成、現在の伽藍が形造となった。

廃城となった佐和山城の建築物は彦根城やここ龍潭寺やお隣の清凉寺に一部移築されていると云われています。


総門
寺号標めちゃカッコいいよね爆笑
門は…
扉がないんですびっくり


山門
佐和山城の城門を移築プンプン
山門の横の土塀には、白い5本のラインが入っていますびっくり

これは「定規筋」といい、定規筋の入った壁を「筋塀」といいますえー

筋塀は天皇家に由来する格式を表し、その格式の高さにより三本、四本、五本の種があり、五本を最高なんやって爆笑
ということは、ここは最も格式の高いお寺ということにニヤリ

通常、五本線の筋塀は門跡寺院や勅願所などに用いられるのですが(「門跡寺院」とは、一般の僧侶ではなく皇族や公家が住職を務める特定の寺院のことで、「勅願所」とは、時の天皇・上皇の勅命によって創建された寺院や神社のこと)、ここ龍潭寺はそのどちらでもないようキョロキョロ

なんで五本の筋塀なんでしょうねえー


大洞観音堂
観音様が居てるみたいなんやけど…えー
覗いたら…真っ暗やったガーン


御告げ七福神
御告げ…キョロキョロ
何も聞こえんかったショボーン


鐘堂
城中の陣鐘を寺の梵鐘としたが、非常に音が美しく、後世の風流人が彦根十景を選んだときにも「龍潭寺の晩鐘」を加えたとかえー


石田三成像
1560年に近江坂田郡石田村で次男として誕生した石田三成プンプン
父は石田正継、母は浅井家臣の土田氏の娘ですえー

1570年の小谷城の戦いで、浅井家は織田信長と徳川家康の連合軍によって滅亡ガーン

三成は、その後近江長浜城主としてやってきた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に父や兄と共に仕官しましたプンプン

史実である確証はありませんが、寺の小姓だった三成が出した3杯の茶の出し方が、秀吉に気に入られて仕官することになったという「三献茶」のエピソードが有名やんよね照れ

1577年には織田信長の命令による羽柴秀吉の中国攻めにも従軍プンプン
1582年に本能寺の変で信長が亡くなり、次なる天下人となっていった秀吉の元で、三成は忠実に職務を遂行していきますえー

1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番槍の功名を挙げ、1584年には小牧・長久手の戦いにも従軍プンプン
秀吉の出世と共に三成も出世し、1585年に秀吉が従一位関白に就任すると、三成も従五位下治部少輔に任ぜられました照れ

三成は秀吉の側近やったんや爆笑

1586年頃には、三成が名将として知られた島左近を知行の半分を与えて召し抱えた逸話も残されていますえー

三成には武功もありますが、武勇よりは得意の算術を活かした戦の後方支援、そして外交や内政に高い能力を発揮しました爆笑

彼が関わった幾つかの事例をえー
・1586年秀吉に臣従を誓うため上洛した上杉景勝を出迎え、外交窓口として活躍
・秀吉の太閤検地を全国で推進
・堺奉行として堺を整備

・博多奉行として九州平定後の復興、博多町割りに尽力

・1587年九州平定で水軍を活用した大軍の動員、兵糧や武具などの輸送で遠征を支える

・1592年の文禄の役(朝鮮出兵)では現地での総奉行を務めて、明との講和交渉に尽力

・1597年の慶長の役(朝鮮出兵)では国内からの後方支援に活躍

豊臣秀吉の業績として挙げられるものは、結局三成のような実務能力に長けた官僚たちが膨大な仕事量を処理プンプン

秀吉の意向を実務に反映する三成は、天下人・秀吉の執行者の代表だったんやね照れ

そのため朝鮮出兵などで無理が重なった武将たちは、秀吉に言えない不満を代わりに三成にぶつけ、双方の関係は悪化していきましたショボーン

そして1598年、朝鮮出兵の最中に豊臣秀吉が病死ガーン
出征軍は朝鮮との戦争を終結し、帰国となりましたプンプン

秀吉の遺言として五大老と五奉行は、豊臣家の家督を継いだ豊臣秀頼を支えることを任されましたプンプン

三成も五奉行の筆頭として政権運営を行いますえー

しかし、豊臣家臣の間で三成たちを中心とする文治派、加藤清正や福島正則たちを中心とする武断派が対立プンプン

さらに五大老の筆頭・徳川家康が、禁じられていた「大名間の私的婚姻」を武断派の武将たちと結んで勢力拡大を画策するなど勝手な行動を始めますキョロキョロ

武将間の調整役をしていた大老の前田利家が1599年に病死すると、豊臣家臣たちの均衡が破られましたえー

その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政などの武断派武将による三成襲撃事件が起きてしまうのですえー

結局三成は逃げて命は助かりますが、その後は徳川家康が豊臣政権内部での実権を握っていきますプンプン

1600年、徳川家康は彼に従わない会津の上杉景勝の討伐に出発しますえー

すると、その間に前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行が毛利輝元を大阪城に招き、家康の弾劾状を諸大名に送るというクーデター的行動を起こしましたプンプン

そして三成はついに家康に対する挙兵を決意し、まずは家康の留守を狙って伏見城を攻め落としたのですプンプン

残念ながら三成がどう関わって関ヶ原の戦いに向けた西軍が結成されたかはよく分かっていませんショボーン

豊臣家のため、秀頼のためを思って立ち上がった三成の西軍ですが、その実、大阪城の淀殿は豊臣秀頼の墨付きや出陣を許さず、傍観するだけでしたキョロキョロ

西軍は毛利輝元を総大将に据えましたが、輝元本人は出陣しませんえー

また西軍には増田長盛や小早川秀秋など100%信用できない武将たちも混在ガーン

秀吉恩顧の武将たちには東軍についた者も多くいましたえー

結局、三成が頼れる武将は島左近、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長といったところキョロキョロ

1600年10月21日、午前8時頃に関ヶ原の合戦が始まったと言われますえー

布陣の有利さで最初は優勢だった西軍爆笑

しかし、三成の采配通りには各武将が動きませんショボーン

頼みにしていた島左近、大谷吉継らは奮闘の末次々と命を落とし、小早川秀秋、脇坂安治など裏切り者が続出ガーン

とうとう石田三成の本陣もついに壊滅して東軍の勝利に終わってしまいますえー

再起を目指した三成ですが、落ち延びていた伊吹山山中で捕まってしまいましたショボーン

そして小西行長・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)とともに京の市中を引き回しののち六条河原で処刑されたのですショボーン

一生を豊臣家に捧げ、関ヶ原で戦った三成の最期は斬首えー

しかし彼に悔いはなかったのだそうですプンプン

三成の死後、落城した三成の佐和山城に入った東軍の兵は、城内の質素さに驚きましたびっくり

19万石の大名の城の割に城内は非常に質素であり、金銀の蓄えもほとんどありませんでしたキョロキョロ

あったのは豊臣秀吉から送られた感状(戦功を賞して主君から与えられる文書)のみだったそうですプンプン

豊臣秀吉と豊臣家一筋だった石田三成にとって、金銀よりも秀吉の「感状」のほうがよほど大切だったのかもしれませんね照れ


方丈
方丈襖絵前104面は、蕉門十哲(じゅってつ)の1人森川許六(もりかわきょりょく)によって描かれたもので、市指定の文化財になっています照れ
拝観料 400円なり〰️チュー


枯山水「ふだらくの庭」
一面に白砂を敷き、大小48石を配して観音菩薩の浄土である補陀落山(ふだらくさん)の一帯をかたどった江戸初期の枯山水の名庭照れ

白砂は大海、砂紋はさざ波、庭の向こう側の垣根は、前が水平線、後方が遥か彼方の雲を表現していますニヤリ

中央の島が補陀落山で、中天の大きな立石は観音さまの立ち姿、島右手の石は慧蕚(えがく)の舟で私たちの世界から仏さまの世界への渡し舟となっています照れ


龍潭寺は別名だるま寺とも呼ばれる事がありますプンプン
その名の通り中には夥しい数のだるまが祀られていますびっくり
毎年4月の1日、2日には禅宗の祖、達磨大師に由来した行事「だるままつり」が行われ、だるま達の祈祷法要が行われるんやってえー

この時に祈祷されただるま達は年間を通じて販売ウインク
正面の見たこともない巨大だるまが祀られていますが彼は非売品ですてへぺろ


鶴亀蓬莱庭園
江戸初期に築かれた、開山昊天和尚と小堀遠州合作の名庭で、彦根市の指定文化財となっています照れ

佐和山の峰を背景にし、築山は過去現在未来すべての仏さまをまつる浄土の世界をあらわしていますおねがい


滋賀県彦根市古沢町1104

境内からは登山道が整備されていて、佐和山にある佐和山城跡えー

1000Mの山登りプンプン

道はめちゃ細くて…ショボーン
崖の横を…ガーン
そして足元の悪い急な坂…えーん


佐和山城は石田三成が入城後に大改修し、五層の天守を構えた立派な城でしたが、関ケ原の戦いの後、彦根城の築城に伴って廃城となり、建造物は彦根城へ移築もしくは破城されたため、現在残っているものはほとんどありませんキョロキョロ


何もないんですが…
見事な見晴らしラブ
彦根の町が照れ
彦根城も見れますよ照れ


山上にQRコードがあって
携帯で読み取り…アンケートに答えると特別に赤い印を押して貰えるんです爆笑

この印はなんなのか…わからんガーン


菓心おおすが さんのお店は彦根城ちかくにあるのですが…えー
今回は彦根駅の観光センターで購入爆笑

滋賀銘菓 長寿もち 180円
商品説明にはキョロキョロ
契約農家の近江米の餅でやさしい甘みの自家製つぶ餡を包みましたえー
古くより招福と長寿の象徴である千成瓢箪のようなのびやかで柔らかな形ですウインク
って…爆笑

餅が柔らかいんですが炙った表面もあって結構噛み応えがあります照れ

アンコの甘さも丁度良くて…照れ
餅のボリュームがあるので満足です爆笑

美味しいお餅でした照れ