須磨寺part2だぁ〰️
須磨寺以外のお寺を巡りまぁ〰️す
まずは正覚院 (しょうかくいん)です
大正十四年失火により焼失…
昭和十三年に現在地に再建
本尊は愛染明王で、大日如来を本地とし、衆生済度のため三目六臂の身を現じ、知恵の弓、方便の矢を御手に執持し、貧窮・飢渇・疾病・災難等の苦厄を払い、幸運をひらき、無量の福徳、愛敬を授けるとか
霊験あらたかなこの明王信仰の効力により、商売を業となす人や芸を以って世に立つ人、また愛敬を肝要とする婦人の参詣が絶えないんやって
尚、仁王門前の放生池のほとりには、山本周五郎の処女作「須磨寺付近」の文学碑や、中国の石仏(楊柳観音)が安置されています
元禄五年に造られた本尊は愛染明王で秘仏
お前立が居られました
愛染明王は、一般的には、一面六臂で他の明王と同じく忿怒相で、頭に獅子の冠をかぶり、宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座るという、姿をしているんやって
しかし、正覚院の愛染明王は三面六臂の異像とか
見たいなぁ
続いて正覚院の隣にある櫻寿院(おうじゅいん)
迫力がめちゃある御朱印やろぅ〰️
続いては櫻寿院の前にある蓮生院(れんしょういん)
「蓮生」とは熊谷直実が「蓮生坊」と名乗ったことに由来とか
直実は一の谷の合戦で戦死した平敦盛菩提の為、法然上人のもとで修行し、諸国行脚の途中、須磨を訪れたといわれてるんよ
大正五年、花火大会の飛火のため出火焼失
花火大会の火って…
昭和九年不動明王を本尊として現在地に再建成田山不動明王分霊も奉祀し不動明王信仰の中心となったんです
また国文学者、大井広の「明減のひかりをおくる灯台はいづこにあらむ寂しき海はら」の歌碑が作者の短歌の師、太田水穂の筆により建てられていました
蓮生の呼び方は熊谷直実の本拠地で、直実が往生した地とされる埼玉県熊谷市の熊谷寺(ゆうこくじ)の山号は「蓮生山」(れんせいざん)
直実の勧めで出家したという宇都宮頼綱も「蓮生」と名乗るが、こちらは「れんしょう」と呼ぶらしい
ただ、関西では直実の「蓮生」も「れんしょう」と呼ぶ事が多いのだとか…
十六羅漢石造と釈迦如来石仏
この石仏は金子直吉氏が大正8年(1919)9月、須磨一の谷の八海山貞照寺に寄進されたものですが、平成7年(1995)1月17日の阪神・淡路大震災による貞照寺本堂全壊のため、当境内地へお移ししたもので、中国明時代の作と伝えられています
羅漢さま(阿羅漢さま)は、もともと仏道修業の最高段階に進んだ人をさす敬称で、十六体あることから十六羅漢さまと呼ばれています
阿羅漢 (あらはん、サンスクリット:arhat अर्हत्アルハット)は、仏教において、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと
サンスクリット語"arhat"の主格 "arhan" の音写語なんやって
もとは釈迦の尊称の一つであったとか
1)賓度羅跋羅堕闍(ひんどらばらだじゃ)
2)迦諾迦伐蹉(かなかばしゃ)
3)迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだしゃ)
4)蘇頻陀(そびんだ)
5)諾矩羅(なくら)
6)跋陀羅(ばだら)
7)迦理迦(かりか)
8)伐闍羅弗多羅(ばじゃらふつたら)
9)戍博迦(じゅはか)
10)半托迦(はんだか)
11)羅怙羅(らこら)
12)那伽犀那(なかさいな)
13)因掲陀(いんかだ)
14)伐那婆斯(ばなばし)
15)阿氏多(あした)
16)注荼半吒迦(ちゅうだはんだか)
金子直吉氏は慶応2年6月13日(1866年7月24日) 土佐藩の商家の子として生まれ、昭和19年(1944年)2月27日に没した日本の実業家
丁稚奉公から身を起こし、鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンとも言われたんやって
鈴木商店は昭和2年(1927)の金融恐慌で破綻
鈴木商店の再生に精力を費やしたが再生は成功しなかったとか
厄除大師堂
右手に剣を持つ秘鍵大師が祀っています
源平の庭
今から八百年前の平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭
寿永3年(1184AD)一ノ谷合戦の際、源氏の荒武者熊谷直実は、海上に馬を乗り入れ沖へ逃がれようとする無官大夫平敦盛を呼び返して、須磨の浜辺に組み討ちその首をはねた
平家物語が伝える最も美しく最も哀しい有名な史話
敦盛は時に年16笛の名手であったその遺愛の青葉ノ笛は今も当寺に伝えられているんやって
源平合戦と須磨寺
須磨寺の名前が全国的に知られるようになった大きな要因は、寿永3年(1184)源平一の谷合戦の舞台になったこと
一の谷合戦が行われた時、須磨寺は源氏の大将源義経の陣地であったと伝えられています
海と山がせまった地形を利用し、海側に陣を構えた平家の裏をかき、義経は山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけます
不意を突かれた平家は、海へと逃げることしかできず、源氏の歴史的な勝利となりました
その戦の時、源氏の武将で熊谷直実という男がいました
直実はもともと平家の武将であり源氏に寝返った者
元からの源氏の武将に後れをとるまいと、手柄を誰よりも欲していました
しかし、直実が一の谷の浜に着いた時、ほとんどの平氏は海に逃れた後
しかし、その中で一人だけ波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を見つけます
そして、直実は扇をかかげ「敵に後ろを見せるは卑怯なり。返せ返せ」と呼びかけます
するとその武者は振り返り、直実に一騎打ちを挑みます
しかし、あえなく倒され、直実が首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ年の頃16,7歳と見える紅顔の美少年でした
「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると「あなたはどなたですか。」と聞き返され、「名乗るほどの者ではありませんが、熊谷直実と申します。」そう答えると、「あなたに名乗るのはよしましょう
あなたにとって私は十分な敵です
どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。
早く討ちなさい。」と答えたそうです
直実はその潔さに胸がつまりました
この若い命を討とうが討つまいが、戦の勝ち負けに関係はない
自身の手柄ほしさでこの若い命を落とさせることになってしまう
息子の小次郎が少し怪我を負っただけでも心辛かったのに、この方の父上が討たれたことを聞いたらどれだけ嘆かれるだろうかと思いを巡らせました
助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてきます
もういよいよ逃げられまい
「同じ事なら、直実が手にかけて、後のご供養をお約束します」と泣きながら刀をとりました
首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛がさしてあるのに気づきます
思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動しました。
その笛を見た時、「あぁ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか
戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心はいっそう締め付けられました
陣地であった須磨寺に、首と笛を持ち帰った直実は、大師堂前の池でその首を洗い、その前の大きな松の木に腰をかけた義経が首実検を行いました
すると義経は、このお方は平清盛公の弟、平経盛公の子、従五位の敦盛公であるとおっしゃいました
御年17歳でありました。
持ち帰った笛を見て、涙を見せないものはいなかったといいます
後に直実は、殺しあわねばならない戦の世に無常を感じ、法然上人の元で出家をする事となります
平家物語で一番涙を誘う哀話である「敦盛最期」は、その後日本人の心に深く染み入り、語り継がれてきました
それ以来、須磨寺には敦盛の首塚が祀られ、敦盛の菩提寺として広く知られるようになり、源平ゆかりのお寺として親しまれてきました
敦盛の愛用していた笛「小枝の笛」は、通称「青葉の笛」とも呼ばれ、今も須磨寺宝物館に展示しております
この笛を一度でいいから見てみたいと、古来より全国から多くの方がこのお寺を訪れていますよ
松尾芭蕉や与謝蕪村、正岡子規なども当寺を訪れて歌を詠まれています
その歌を残そうと、境内には二十数基の句碑歌碑が点在しています
また謡曲『敦盛』、舞『幸若』にも登場し、歌舞伎、映画、舞台など様々な演劇の素材として取り上げられています
そして毎年、旧暦の2月7日(旧暦なのでその年によって変わる)には、一の谷合戦源平戦士の追悼法要が執り行われています
こちらの御朱印も凄い
帰りに行きつけの和菓子屋さんの
与楽 本店 (よらく)さんによりましたぁ
京都で1番売れている、いちご大福とパイナップル大福を購入〰️
いちご大福 260円
『与楽』さん1番人気の商品がこちら、「いちご大福」なんだそうですよぉ〰️
なんと年間24万個以上売れていて、京都府で「いちご大福」の売り上げがダントツらしいのです
中は白あんと、いちごが1粒入っていて、いちごがとってもジューシーで甘〰️い
白あんの甘さもお上品で、これが1番人気商品だというのも納得なんよね
パイナップル大福 300円
完熟の甘〰️いパイナップル
白あんとの相性もなかなかのもの
フルーツ大福ってホント美味しいよね
近鉄京都線 久津川駅より西へ徒歩約7分
久津川駅から553m