膳所巡り最後は義仲寺へ
ランチ食べた所からすぐの所
膳所駅からだと10分くらいかな
義仲寺 【ぎちゅうじ】
この寺はその名の通り、木曽義仲の慰霊のために庵が設けられたことから始まるとされる。
一旦は京都を占領して実権を握った木曽義仲であるが、源頼朝が派遣した源義経らの軍勢によって京都を追われ、本拠である木曽へ戻ろうとした矢先に、この寺の近くの粟津で討死する。
それから年月を経て、ある尼僧が義仲の墓所のそばに庵を設けて、供養を続けた。
人々はその見目麗しい容貌からその素姓を怪しんだが、尼は「我は名も無き女性」とのみ答えたという。
しかしこの尼僧こそ、木曽義仲の愛妾であり、部将として粟津まで生死を共にした巴御前であった。そして尼僧の死後、この庵は無名庵、あるいは巴寺、木曽塚、木曽寺、義仲寺と呼ばれるようになった。
戦国時代には境内は荒廃したが、近江守護である佐々木氏(六角氏)によって再興。
さらに時代が下って、貞享2年(1685年)にこの地を訪れたのが松尾芭蕉である。
芭蕉はこの地をいたく気に入り、何度も足を運ぶことになる。そしてその死に際しての遺言「骸は木曽塚に送るべし」に従って、この義仲寺に葬られたのである。その後も幾度となく荒廃と再興を繰り返し、昭和42年(1967年)に国の史跡に指定され、現在に至る。
義仲寺の境内には、木曽義仲の墓と松尾芭蕉の墓が並んであり、また巴御前の墓とされる巴塚、同じく義仲の愛妾であった山吹御前の供養塚もある。
こぢんまりとした境内であるが、木曽義仲と松尾芭蕉ゆかりのものが多数が置かれている。
山門
雰囲気のいい山門やね
手水〰️じゃなくて…
井戸みたい
ここには手水はなかったかも…
朝日堂
こちはの本堂です
現在の建物は1979年(昭和54年)改築されたとか
御本尊
聖観音菩薩
厨子には木曽義仲と嫡男・義高の木造が納められ、義仲、松尾芭蕉などの位牌が安置されていました
朝日将軍
『平家物語』によると、1183年(寿永2年)、平家一門を都落ちさせて入京した義仲は、後白河法皇から左馬頭、越後守に任ぜられ、朝日将軍の称号を得たのだとか
粟津文庫
蕉門の遺品をおさめられてるんやって
無名庵
1689年(元禄2年)、「おくのほそ道」の旅を終えた松尾芭蕉は、年末には義仲寺の無名庵で過ごしたんやって
翌年正月、一時生まれ故郷の伊賀上野に赴くが、3月頃から再び近江国を訪れて無名庵に滞在
4月には菅沼曲水の奨めで幻住庵に滞在して石山寺にも度々訪れたんです
1691年(元禄4年)の6月から9月にかけても無名庵に滞在し、芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠んだのだと言われています
木曽義仲公墓
信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)に逃れていた源義仲(木曽義仲)は、以仁王(もちひとおう)の平家追討の令旨に呼応し、出陣
越中国(現・富山県)の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で、平維盛率いる平家の大軍を打ち破り、近江国へ入り、比叡山延暦寺の東塔惣持院に陣を構えます
木曽義仲軍の動きを察知し、平家は安徳天皇を連れて京を脱出
後白河法皇は比叡山に身を隠します
木曽義仲は後白河法皇を奉じて京に入りますが、公家と対立し、京の治安回復にも失敗
源頼朝との対立も宇治川の戦いに惨敗し、敗走
ついに粟津の戦いで討ち死に。享年31…
義仲の生誕地は、定かでありませんが埼玉県比企郡嵐山町の鎌形八幡宮とも伝えられてるんだとか
首塚は京都市東山区の法観寺に
長野県木曽町の徳音寺には、義仲の霊廟が築かれています
時代の移り変わりにより荒廃した「義仲寺」でしたが、室町時代末期に近江国守の佐々木候が「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と再建に動きました
芭蕉翁墓
松尾芭蕉は江戸時代前期の俳人やね
各地を旅して多くの俳句や紀行文を残した事でも有名
最後の旅となったのは1694年(元禄7年)
5月に江戸を発った芭蕉は、伊賀上野・湖南・京都・奈良などを巡りながら9月に大阪へ
大坂で体調を崩した芭蕉は、10月12日、大坂御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」で亡くなったんです
「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」が最後となった句なんよ
義仲の墓の右隣りには「義仲公の墓がある義仲寺に自分の墓を建ててほしい」と遺言を残した事で松尾芭蕉の墓が並んでいるんやね
その忠誠心溢れた生涯とはかなさに強く惹かれ、大の義仲ファンといっても過言でないほどだった芭蕉
また琵琶湖周辺の美しい景観も深く愛し、たびたび「義仲寺」に身を寄せていました
二人の墓前に立ってみると、時を超えてつながる糸をたどるような感覚になるよね
翁堂
松尾芭蕉の像を安置する堂
近江国を度々訪れた芭蕉は義仲寺の無名庵に滞在して多くの句を残しました
正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木造、側面に蝶夢法師胸像が置かれ、左右壁上には三十六俳人の画像が掲げられていました
天井画は伊藤若冲筆の「四季花卉の図」も見事です
巴塚
木曽義仲の愛妾・巴御前の供養塔です
巴御前は、義仲の平家討伐に従軍した女武者で、越後国の板額御前とともに女傑の代名詞として知られているんやって
『平家物語』は、1184年(寿永3年)1月20日、源頼朝が派遣した源範頼と源義経に義仲が敗れると、義仲とともに近江国粟津まで逃げるが、義仲が生き延びるよう懇願したことから、最後の戦で敵将・恩田八郎を討ち取った後、落ち延びたのだと伝えているんです
『源平盛衰記』によると、落ちた後の巴は、鎌倉幕府に召されて侍所別当の和田義盛の妻となって朝比奈義秀を産み、1213年(建暦3年)5月、義盛が北条義時打倒の挙兵をして滅ぼされると、越中国で出家し、91歳まで生きたのだとい言われています
尼僧となった巴は、義仲の菩提を弔っていたとも伝えられるが、鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』に巴の記載はないとの事
佐渡の赤石
今や「幻」といわれる日本三大銘石の一つ佐 渡市(旧両津市)の赤玉地区より産出されるものだけを佐渡赤玉石と言うんやって
鉄分と石英が高熱と高圧で結合した石で、非常に硬く(硬度は6.5~7.0)磨いたときに透明感のある光沢がでるんだとか
色彩の美しさは日本一と言われて日本三大名石のひとつとされます
”赤玉”という呼び方には、二つの説があります
一つは玉のように一つずつ出てくるからだと言う説と、もう一つは玉(ぎょく)のような輝きをもつ石だから赤玉石というと言う説がありますが、現在では後者の説が一般的みたい
天正18年に真野俊隆が佐渡産の赤石を豊臣秀吉に献上したことがあり、このときは”朱真石”と呼んだといわれます
古事記や日本書紀にも赤玉の歌があり、この歌が佐渡産の赤玉石に由来するという学説をとなえる人がいるが、定かではありませんが、弥生時代より加工され、勾玉や管玉として装飾品に使われ、江戸時代にはキセルや財布の根付などにも使われてたんやって
適度な大きさのものは、磨いても自然のままでみても良いことから観賞石や水石として珍重され、また大きなものは、庭石として使われました
庭石としては石組みに使うものではなく、必ず一石を庭や玄関等の目立つ所に置き眺める飾り石
古くから朱(赤)は魔を払うと言われることから、佐渡赤玉石は縁起の良い石といわれ、佐渡では家の玄関や床の間に家の守り石として飾られてきました
しかし、昭和57年以降では産出量はほとんど無くなってしまい、非常に貴重な石になっていったんよ
佐渡赤玉石には、色々な楽しみ方があります一つは全くの自然のままを活かした庭石や水石としての楽しみ
水石で見るときには、硬い質の良い石だけではなく、柔らかさを表面に持った、皮付きの石や、一部糸掛け状になったもの
岩石の上に一部分赤玉がついたものなで形の有る石が、侘びさびを感じることから、好まれたんです
また自然の形を活かし、少し角を取り色彩を目立つようした「樽磨き」「ペーパーがけ」をした物
完全に鏡面磨きの艶を出し色を楽しむ丸磨きの赤玉石
磨きをかける赤玉石は水晶質の多い硬い石が、きれいな色彩を放ちます
さらには、小さくしてアクセサリーや勾玉のような物を作ったりもしたんです
現在では、水槽のアクセントとして使う方もいるんやって
このように、その方の趣味や見方により赤玉石の価値は違います
水石で観るか、色を楽しむ観賞石として観るかにより、極端に言えば正反対の価値になるよね
史料館
芭蕉など珍しい史料がいっぱい
曲 翠 墓
松尾芭蕉の門弟で、芭蕉が信頼していた膳所藩士・菅沼曲翠の墓
本名は菅沼定常とか
1690年(元禄3年)、近江膳所を訪れた芭蕉に幻住庵を提供し、芭蕉は度々石山寺を訪れていました
1717年(享保2年)、悪家老の曽我権太夫を槍で殺害し、自らも切腹したんやって
滋賀県大津市馬場1-5-12
膳所駅のスイーツ屋さんに行く予定だったのですが…
店が潰れていた
コロナ禍…
いろんなお店がなくなってるよね…
で…
何か甘いもんを食べたくて…
やってきたのがTHE京都スイーツの八つ橋
京都駅構内のアスティロード内、新幹線八条口改札口のすぐ近く、本家西尾八ッ橋の八条口店に立ち寄りましたぁ
京都を代表するお土産といえば八ッ橋だよね
京都市が行った調査によると、京都を訪れる人の30%近くが生八ッ橋を購入するんだって
って…
京都府民でも買いますが
「あんなま」とは本家西尾八ッ橋が手がける、生八ッ橋で餡を包んだお菓子の商品名なんよ
定番のにっきや抹茶などに加え、春夏秋冬それぞれの季節にあわせた季節限定商品もたくさんあるのが魅力だよね
その中から今回は、春の生八ッ橋「あんなま『さくら』」にしたぁ〰️
あんなま さくら 250円
薄いピンク色をした生八ッ橋の皮
その皮には桜葉が練り込まれているんやって
ほんのりと香る桜の葉を使った生八ッ橋はまさに春の生八ッ橋やぁ
皮の中に包み込まれているのが、つやっとした美しい粒あん
しっとりとして、口上がりがとてもなめらかでおいしい粒あんやぁ
桜の香りと小豆の香りと甘味
これらが口の中で一体となり、おいしさを際立たせてました
苦みの少ない日本茶とよく合うよ
京都市下京区東塩小路高倉町8-3 JR京都駅 アスティロード内1F