名張旅、最後は2ヶ所のお寺
ます宝蔵寺へ
名張駅の北側にあります
宝蔵寺 【ほうぞうじ】
奈良興福寺文書に興福寺末と記載あり、奈良時代は法相宗であったという。
また伊賀記に天武天皇(在位673~86)勅願寺にして…の記あり、さらに寺伝として聖武天皇(在位724~49)の時、勅願により僧行基をして法蔵阿弥陀仏を刻ましめこれを安置す(明治十七年地誌上申書による)と伝えられ、いずれにせよ当山はかなり往昔の草創と考えられるが、天正九年(1581)の伊賀乱ですべて焼失し、縁起の由来は不詳となってしまっている。
「簗瀬村地誌取調書」に「天正の兵火にかかり焼滅す。慶長九年再建のとき芝野より移す。
中興を成賢と称し、月照山と改む」とある。もとは平尾山蓮光院と称したようである。
さらに当山の過去帳には成賢阿闍梨を再興初代とし、二代行盛阿闍梨の代を中興開山とされている。
天正の兵災後、成賢が再興し、行盛が堂宇を造営し寺格整え開山とされたのだろう。
慶長十八年(1613)奈良県の御杖神社の棟札に「宝蔵寺大阿闍梨行盛」の銘があり、当時この地方まで寺威を広げた由緒ある大寺であったことがわかる。
現在は慶長九年に移り来たといわれる名張駅前の平尾に所在し、月照山、蓮光院、宝蔵寺と号し檀信徒の信仰を集め今日に至っている
山門
大正二年(1913)の改築とされているがこじんまりとなかなか風格のある山門やね
手水舎
珍しく建物を撮影してるでしょ〰️
実は…
手水…
蛇口でお墓用みたいだから…
お寺でこのタイプは珍しいかもね
本堂
明治三十七年(1904)に改築されたものとか
御本尊
無量寿仏
「無量寿仏」の意味は阿弥陀仏の異称のことなんやって
袈裟斬り地蔵
めちゃ逆光ですなぁ
ホント…いい天気でした
袈裟斬り地蔵 の由来とは
江戸時代中期の享保の頃、藤堂藩邸に接する平尾村に夜な夜な大男の化け物が現れるをいう噂がたち、村人は怯えた暮しを続けていたんです
これを聞いた家臣の中村新右衛門は、ある夜、この化け物を一太刀で倒したが、遺骸は確認できなかったとか
翌朝、宝蔵寺前の辻にあった地蔵が袈裟掛けに真っ二つに割れて倒れているのを村人がみつけ
大騒ぎに
その時、快岳和尚(宝蔵寺第四世住職)は、無残に斬られた地蔵を子安堂に安置し懇ろに祀って以後、村には異変が起こらなくなったとか
その後、中村新右衛門の刀は「地蔵丸」と名づけられ、山添村遅瀬の八王子神社(現在は八柱神社)に奉納され、今に伝わっているんやって
ホント…
真っ二つに
お地蔵様が大男になってたって事なんよね
何のために…
三重県名張市平尾3232
次は名張駅の南側にある徳蓮院へ
徳蓮院 【とくれんいん】
今から約700年前、名張の豪族堀江氏の菩提寺として建立。
龍亀山「大連寺」と称し真言宗の寺であった。
今から約350年前、戦国武将の藤堂高吉が伊予の今治より名張に移った時、この寺を龍雄山「徳蓮院」と改め曹洞宗へ改宗され、藤堂家の菩提寺(香華院)と定めた。
尾張の瀬戸の雲興寺より興南義繁和尚を招いて開山とし寺領五十石を与えた。
当時は七堂伽藍が揃っていたと伝えられている。
明治時代に至って実施された廃藩置県により、
大名寺としての威厳を失い荒廃のどん底へと陥ることとなる。
明治9年(1876)には本堂が旧廃で自然倒壊した為、止むなく取り壊されたという記述がある。
梅花百観音
抑も三重梅花百観音霊場は永平高祖承陽大師、釈尊正伝の仏法を弘通せられ、只管打坐を提唱せられて七百五十年、日本国仏法興隆し人心安穏なり、高祖大師入寂七百年の大遠忌厳修せらるの年、昭和二十七年大師讃仰の梅花流詠讃歌の創立を見るに至る。
爾来栄に栄えて昭和四十七年満二十年を迎えるに至れり、ありがたや梅花観世音菩薩出現ませしませり、茲に於いて三重県内有縁の諸尊宿、道心、協力し、仏法興隆と梅花流の発展を祈念し、更に信心の施主の家門繁栄を冀い梅花観音霊場を開眼せり、願わくは、観音の霊験を仰がんことを。
境内に綺麗な梅の花があるって事じゃないんやね
本堂
現在の本堂は昭和8年、大道正範和尚の時代に木曽桧を用いた総桧造りで再建されたものなんやって
御本尊
聖観世音菩薩
綺麗な観音様
綺麗やから…最近出来たっぽいね
名張藤堂家墓所
墓所には初代高吉から十三代高伸までの藤堂家歴代城主と、その一族の墓が祀られていました
名張藤堂家は、藤堂高虎の養子高吉にはじまる
『藤堂宮内少輔高吉公一代之記』によれば高吉は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男として、天正7年(1579)近江佐和山城に生まれ、幼名を仙丸と称したんです
天正10年(1582)本能寺の変で信長死去の後、羽柴(豊臣)秀吉の所望により、弟羽柴秀長の養子となる(天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすため丹羽長秀と縁を結ぶためであったといわれる)
天下を手中にした秀吉は、天正16年(1588)秀長の嗣子に甥の中納言秀保を立てたため、仙丸を家来に嫁がせようと考えていたんです
この時、秀長の家来であった高虎には、子どもがなく、仙丸を養子に望んだが、秀長は同意しなかったとか
しかし秀吉の命により高虎の養子となり、名を高吉と改め、従五位下宮内少輔に任じられ1万石を給された
文禄、慶長の役には、高吉は高虎に従って渡海し慶長2年(1597)7月10日には、秀吉から朝鮮在陣の褒詞(豊臣秀吉朱印状)を受けているんよ
慶長3年(1598)秀吉が没すると高虎は、徳川家康に味方し慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、高虎、高吉とも戦いに加わり戦果をあげましたぁ
この後高虎は、伊予半国20万石余を拝領し今治城主となり、高吉も城下に屋敷を構えました
慶長13年(1608)高虎は、伊賀国と伊勢のうち安濃津に国替えとなるが、高吉は、家康の命により今治に残り、2万石を領し、寛永12年(1635)伊勢国へ替地になるまでの27年間を今治で過ごす事に
この間、大阪冬の陣と夏の陣には、高虎軍に加わり軍功をあげてましたぁ
しかし高吉の領した2万石は、高虎の知行の内に含まれ、その後、参勤交代の制度が始まっても、高虎は高吉には認めなかった
寛永7年(1630)高虎は75歳の生涯を閉じ、家督を実子の高次が継ぐと、高虎の跡を継ぐべく養子となった高吉は、家臣の格を甘受することとなったとか
寛永12年(1635)幕府より伊予と伊勢国内2万石との替地の命がでると、藩主高次の命により、伊勢2万石のうち5千石を伊賀国の名張周辺と替地し、翌年正月、高吉は名張に移住
高吉は、かつて筒井定次の家臣松倉豊後守や高虎の家臣梅原勝右衛門らが居館を構えた古城跡に殿舎を構えるとともに、家臣や伊予から従ってきた商人、職人らの住居を定め、城下町としての体制を整え名張の町の発展の基礎を築き、寛文10年(1670)92歳の生涯を名張で終えました
三重県名張市平尾3152
名張川を渡る近鉄アーバンライナー
カッコいい〰️
近鉄大阪線名張駅から徒歩約20分のところにある喫茶店 ソレイユさん
外観は今風
内装は昭和チックな喫茶店です
ケーキセット 800円
ケーキはサンプルを持ってきてくれますよ。
サンプルのケーキの種類が多くてビックリやぁ
15種類くらいの中からチョイスするんだけど…
店員さんが1つずつケーキの説明をしてくれました
が…
どれもみんな美味しそうで1つを選ぶなんて…
僕が選らんだのはぁ〰️
りんごのショートケーキ
運ばれてきたケーキの皿には小さなバニラアイスと、フルーツが
りんごケーキはりんごの酸味と生クリームの甘味がめちゃ合っていて美味しかった
スポンジケーキはふわふわで空気みたいやし
で…
飲み物は…
ローズヒップ&ハイビスカスティを
めちゃお洒落でしょ〰️
初めて飲んだけど…
なんか…
大人の味がした…
名張駅から740m
三重県名張市瀬古口617-3