西方院から目と鼻の先…くらいにある叡福寺照れ
今回のメインです爆笑

叡福寺    【えいふくじ】
聖徳太子自らが廟所として選定された磯長廟(しながびょう)は、大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっています。

周囲は結界石で二重(観音の梵字)(浄土三部経)に取り囲まれています。

叡福寺は石川寺、太子寺、御廟寺とも称され、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核となった寺院で、太子薨去後、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりです。

神亀元年(724)には聖武天皇の勅願より七堂伽藍が造営されたと伝わります。

推古30年(622)旧暦2月22日(太陽暦4月11日頃)太子が49歳で薨去された後、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれるようになりました。

その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴となり、この御廟には太子を敬う空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えました。

天正2年(1574)、織田信長の兵火により堂塔の全てを失いましたが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建されたのをはじめ、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興されました。

現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が絶えることはなく、毎月11日に太子御影供法要が営まれ、毎年4月11日、12日には大乗会式が盛大にとりおこなわれます。

太子廟を中心として周辺には敏達、用明、推古、孝徳天皇陵や小野妹子、大津皇子、源氏三代墓などがあります


南大門
天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建されましたプンプン
腐朽のため昭和33年(1958年)に再々建築されたんやって照れ

ここに掲げられた寺額の「聖徳廟」の書は第56、57代内閣総理大臣岸信介によるものとかびっくり


南大門の左右に金剛力士を安置しています照れ
こちらは阿形ですおねがい
南大門の大きさと金剛力士の大きさがあってないような…キョロキョロ


手水舎
こちらの龍、めちゃカッコいいわぁ爆笑


金堂
享保17年(1732年)に再建えー

本尊は高さ90mの如意輪観音の坐像なんです照れ

聖徳太子の本地が観世音菩薩であるという平安朝以来の信仰に基づいてるんだとかびっくり
 脇侍は不動明王と愛染明王が居てましたぁ照れ


多宝塔
承応元年(1652年)江戸の豪商三谷三九郎が再建えー


本尊は東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界の大日如来を安置し、4本の柱には四天王の像が描かれています。照れ

木割りは太目で近世では正統派に属する塔なんやぁ照れ

三谷三九郎とはキョロキョロ
江戸時代の豪商でえー
明暦(1655-58)ごろからつづいた江戸の両替商三谷家の世襲名プンプン

米沢,会津などの東北諸藩に大名貸しをおこない,大坂の鴻池(こうのいけ)家とならび称されたんです照れ

寛政の改革のときは幕府の勘定所御用達頭取をつとめたんやぁニヤリ
維新後陸軍省の官金をあつかっていたが,投機の失敗により明治8年破産ガーン
それが三谷三九郎事件と言われるものキョロキョロ


1873年(明治6)に起きた陸軍省御用商人三谷三九郎の破産にかかわる官公預金費消事件のことプンプン

三谷家は江戸時代から代々両替商を営んできており、三九郎は、1868年(慶応4)の会計基立(もとだて)金調達に応じ、また官金出納業務を取り扱うなど、三井、小野両組と並び称される江戸屈指の大商人照れ

ところが72年、三谷家の手代が水油投機に失敗、その穴埋めに官公預金を利用し30万円の損失を生じたガーン

この対策に、翌年1月東京商社から45万円を借金、さらに横浜の外商から10万円の借入れを試みたが、4月に二重担保を告発され問題化したんだとかショボーン

当時は山城屋(やましろや)事件など公金費消事件が多く発生し、そのため陸軍省では会計検査が厳重で、調査のなかでさらに三谷組の5万円の不渡りが発覚してついに同組は破産えーん

明治政府内部の抗争および三井組との対立が絡むともいわれてるんやってえー


聖徳太子御廟
宮内庁管轄

御陵は磯長山丘陵を利用した円墳照れ
考古学界では「叡福寺北古墳」と呼び、墳丘の高さは7.2m、直径は54.3mびっくり
内部は精巧な切石を用いた横穴式石室で、太子と母穴穂部間人皇后、妃膳郎女の三人の棺が納められていると伝えられることから、三骨一廟と呼ばれているそうです照れ

石室は現在閉じられており、誰も入ることは出来ないそうですよえー
墳丘の周囲が「結界石」と呼ばれる石の列で二重に囲まれていますびっくり

弘法大師が築いたと言われる聖地と俗界をへだてる結界石が490本あり、いずれも観音梵字が刻まれてますキョロキョロ

周辺には周回道がありますが、現在は通行出来ませんショボーン

聖徳太子は敏達元年(574年)、飛鳥の地に誕生され、20歳で伯母である日本最初の女帝推古天皇の摂政となり、32歳の頃(推古12年)には日本最古の憲法「十七条憲法」を制定されましたプンプン

第一条は「和をもって貴しとせよ、忤うことなきを宗とせよ」という有名なことばから始まり、第二条「篤く三宝(仏、法、僧)を敬え」と続き、仏の教え(法)のもとに自己を尊重し、信念を持って他人と人間性を認め合う「和」の精神を示されましたニヤリ

また、第十条には「われかならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず」と、人間はみな平凡な存在なのだから重要なことは対話を通じて真理に近づけて決めようという対立融和を説き、人間社会のすすむべき道を示されました照れ

それらの「和の精神」は1400年たった今でもいきいきとした、人間の憲法プンプン
また、仏教精神を礎として理想的な国家や社会組織を築こうとされた太子は、三経(勝鬘経、維摩経、法華経)の経典講義である三経義疏を著されましたえー

人間の生き方や尊い命、その責任などについて、世界万国に通じる普遍的な人間生活の基本となるものを説かれ、身分にとらわれない「冠位十二階」の実践、さらに遣隋使を派遣するなど、この国の礎をつくられたという偉業から「和国の教主」として崇められ、日本人の心のよりどころとして存在し続けています照れ


増長天
増長天、毘楼勒叉(ビルーダカ)は成長する者の意味プンプン

帝釈天の配下であり四天王の一体で南方をを護る守護神として仏教の世界観の南瞻部洲(なんせんぶしゅう)を守護するとされますえー

二天として祀られる増長天独尊として祀られることはないが持国天とともに二天として祀られることある。二天を安置する形式は中国から来たとされるが江戸時代には二天を守護神としてまつるようになったとかびっくり

この草履は?キョロキョロ
めちゃデカイんやけどぉびっくり


念仏堂
本尊は阿弥陀如来で、脇侍は観音・勢至菩薩照れ

善光寺48箇所中の第13番札所ウインク
昔から宗派を問わず納骨される方が多いみたいですえー


弘法大師堂
本尊の弘法大師像(60歳)は、自ら三鈷をもって刻まれたと伝えられますプンプン

胎内には真言八祖相承の仏舎利が納められているんやって爆笑


見真大師堂
明治45年(1912年)建立照れ

見真大師とは浄土真宗の宗祖である親鸞のこと
聖人が参詣した時の記念として建てられたと伝わり、像は88歳で最後の参詣をした時、自ら刻んだと伝わっていますえー


経蔵
融通念仏宗を開いた良忍(聖応大師)の御廟があり、その左の石段を上ると、六角形の経蔵、多くの写経典類が納められていますよおねがい


大水子地蔵尊像

隣接する太子霊園にありますプンプン

高さ3.6m、幅4mの青銅製のお地蔵様は、水子地蔵尊は日本で一番大きいものとかびっくり

周りで遊ぶ幼児は第十七条憲法の数に因んで17体いるんやって爆笑


大阪府南河内郡太子町太子2146



叡福寺から3.5㌔ 歩いて…プンプン
めちゃ頑張ったぁ爆笑

近鉄長野線 喜志駅の近くにある味平さんに行ってきました照れ

歩きすぎてお腹ペコペコやぁ爆笑


このもお店のオススメはなぁ〰️にチュー

味平定食 1,100円 なんですって爆笑

酢豚・えび天・玉子焼き・ハム・キャベツ・ごはん・スープ照れ

酢豚は豚肉がジューシー、そして野菜がシャキシャキやぁ〰️チュー
酢豚好きにはたまらんわぁ爆笑

えび天
小海老サクサクやぁ〰️爆笑
塩コショウをつけて…
めちゃ美味しかった照れ
以前は中海老だったとかキョロキョロ

玉子焼き
ネギ入りでシンプルなお塩の味照れ

近鉄長野線 喜志駅 西に約270m 徒歩およそ3分
大阪府富田林市旭ケ丘町9-22