娘を送って、日常が戻ってきました。

そう...はやくも、もう娘が傍にいないことが日常になっていることに

改めて気づいて、少々驚いています。

 

娘の成長を傍で見られることは喜びでもあったけれど、

だからといって戻りたいとは思わないんですよね。

感傷に浸るということもない。

とりわけ子育てに関して、

いつもどの時も、この今が一番いいなと思いながら過ごしてこられたことは、

沢山の不一致感も味わいながら生きてきたことがある私にとって、とても幸せなことだなと思います。

 

 

 

 

 

同時に今、私は久しぶりに大きな過渡期にいるんだなという実感も、改めて強く感じています。

 

娘も離れ、愛犬も旅立ちました。

目に見える形で、はっきりと状況が大きく変化している今、

人生から、どう生きたいかを静かに問われているような感じです。

 

どんな風にも生きられる。

だとしたら、どう生きるのか。

たった今、どう生きているのかと。

 

 

 

 

目の前の刺激に反応しながら生きることは、

もう十分やり尽くしたし、

それに、なんとなく未完のままになっていたことも、

過渡期の大きな流れの中で、

偶然のような必然の出来事も生まれ、おおむねカタが付いた気がします。

 

一つ言えることは、

もし自分が人生に対して、能動的に何かをすることができるとしたら、

それは何かを付け加えていくことより、

いかに削いでいけるかなのだなということです。

削ぐというか、ブラッシュアップするという感じでしょうか。

(そんな名前のドラマもありましたね!)

 

能動的にポジティブ(だけ)を感じようとすると、

たとえ思い通りの現実を生きられたとしても、

どこか現実味がなく感じられたり、

ネガティブは影のようについてきて、分離感や不安感に苛まされます。

 

しかし、能動的にネガティブを感じると言うと、ちょっと変な言い方かもしれないけれど、

ネガティブな思いや感覚が湧いてくるとき、

それを否定しないでただ感じ切ると、

そもそも分離や不安は幻想なのだということに、

深く肚落ちする瞬間は自ずとやって来ます。

そういう時、ポジティブは自然についてくる...

それが自然体なんですよね。

 

 

 

 

自分がどう思おうとどう感じようと、

自分のもっと奥深いところにある自己だったり

魂だったりする領域では、

生きることの本質を知っているし、

それそのものだったりするのでしょう。

 

なので、安心して

ネガティブ(分離)という幻想も怖れず、

思うままに感じるままに委ね、任せていいし、

それを通してやって来る清浄や調和が

本来のポジティブ(一致)なのかもしれません。

 

そういう時、呼吸はゆっくり深く、

心は大きく開かれ、

美がどこまでも、この量子場に注がれる喜びに包まれるのでしょうね。