先月、県美術館で開催されている高野山金剛峰寺展を訪れたのですが、

その時に観た「阿弥陀如来」像がとても印象的で...。

 

それから、就寝前に目を閉じると瞼裏に浮かんできたり

日中も、どこかそこに意識が向いている感覚もあったりして、

やはりもう一度拝観したくて、再度美術館を訪れました。

 

 

 

 

美術館まで、美しい天気と景色を楽しみながら散策。

 

 

 

 

この日は平日の午前中にもかかわらず、前回よりもさらに沢山の人が

来館していました。

初めは、順路に添って、全ての展示品を見ようとしていましたが、

はやる気持ちを抑えられず、「阿弥陀如来」像の元へ。

 

そして、像の前へ立つと、身体の全感覚がぴたりと静止するような境地に。

 

何かが在る。

何だろう。何だろう。

 

しかし、ぴたりと静止してしまった感覚は何も動きません。

思考が動く余地は、遥かに超えている...

 

沢山の人が行き来しているにも関わらず、

そのようなこともまるで何の関連性もなく、

外も内もしんと鎮まり、ただただ「在る」ことがなぞられるように

うっすらと感じられるのみです。

 

こうして、文字にしようとするだけでも

あの不思議な、ある種瞑想状態にすっと入ってしまいそうになります。

 

 

 

 

 

 

「阿弥陀如来」像の前のベンチに腰掛けて

像を眺めているうちに、気が付けばずいぶん時間が経っていました。


結局、「阿弥陀如来」像の傍に在る「不動明王」像と「大日如来」像のみを拝観して、館内を後にしました。

時間がゆるすなら、何時間でも何日でも観ていたいくらいです。

 

と思っていたけれど、時間がゆるすならという観念も必要ないのですね。

こうしていつでもいつまででも繋がることはできるし、繋がっているのですね。

 

 

 

 

外に出て、堀端をしばらく散策しているうちに、思考が緩やかに動き始め、

「融合」という言葉が浮かんできました。

 

私は、「阿弥陀如来」のようなエネルギーには、

どこかあらゆるエネルギーを包括し、統括するような

「核」のようなものを感じます。

 

そして、そのようなエネルギーの象徴を前にするとき、

全細胞が、感覚を超越して共振共鳴することを思うのです。

思うというのは、「阿弥陀如来」のようなエネルギーはあまりにも尊大で(同時にあまりにも自然で)、それをそのまま感じることはできないからです。

 

そう思うとき、

感じようと感じまいと、体内にあるとされる20兆以上もの細胞の

その一つ一つの中に在る「核」が、

一斉に共振共鳴すること自体、核の「融合」なのではないか...

そして、その「融合」のもたらすはかりしれなさは想像も尽きません。

 

 

 

 

 

次は、実際に高野山に赴き、風土から伝わってくるものも

肌身で感じてみたいです。

 

愛媛県美術館での金剛峯寺展は11月20日(日)までだそうです!