もしかしたら
いつでもそういうものかもしれないけれど
最近ふとした時に、ふと目にしたものや耳にしたものを通して
幼い頃の体験が蘇ることがよくあります。
そういう時、
そのふと蘇る体験がどこか懐かしく、
ノスタルジックで、
脳裏をなぞるような感触が心地よく、
確かに生きてきたんだなという不思議な実感を覚えます。
(台風一過の今朝の空と海)
30代の頃まで、ふとした瞬間すら自分に味わわせたくない、
なぜならそういう隙間から
過去の(実際のところエネルギーに過去はないけれど)怖い何かが不意に飛び出してきて、心苛まされるのではと常に緊張していた自分にとって、
こうした「ふとした瞬間」を自らに赦せるようになっていることは
実はものすごく貴重で、大切なことが起こってきた、
そういうことの顕れなのだと改めて感じます。
自己分析を通して、過去の怖い何かをつまびらかにしていく中で
本当に怖い何かは自分自身の中に在ると気づいたとき、
過去だったり、外の何かや誰かの中にみえていた怖い何かは
私の内に還っていきました。
それを自分の中にもちたくない、あってほしくないと抗っている間じゅう
外側の様々な存在が、それをもち続けてくれていました。
おそらく、そこには時間も何の制限もなくて、
私が気がつくまで、外側の様々はどこまでも無制限にそれをもち続け、見せ続けてくれるのでしょう。
どんなことも、どんなときも、全ては愛の中のことで、実はどうあっても守られているということを、こうして都度都度感じさせられます。
そして、おそらくこの全てを味わうこともまた
どこかで決めていたのか、そう決まっていたのか...。
あずかり知らない何かがそこに在り、全てのタイミングはピタリと合っていることを実感します。
(今日の夕方の空と海)
先日、脈絡なく不意に浮かんできた光景は
祖母の家の風呂を沸かすのに、薪をくべていた時のことでした。
本当に他愛のないことです。
私が小学生低学年の頃。まだ薪で沸かすお風呂でした。
私は、お風呂を沸かす頃になると、火を起こし、少しずつ薪をくべたり
くべる木の大きさや位置を調整したりしながら、
火を絶やさないように見ているのが大好きでした。
祖母の家で過ごすときの夕方は、ほぼ薪の前で過ごしていたんじゃなかったかな。
そんなことを、日頃意識的に思うことはないけれど、
どうしてだろう。ふっと思い出すんですよね。
そして、ふと思い出したこの光景は、ありありと現実味を帯びていて、
あの火の揺らめきや色や形のグラデーション、木のはぜる音や匂い、その匂いと共にほんのりと辺りに漂う熱気まで鮮明に蘇ってくるんですよね。
こういうとき、これは過去じゃないんだなって思うんですよね。
今まさに、これを味わっているんだなって...
小学生の私が
ただただ、ぼーっとその場の全てを感じていたあの時...。
一見、何の目的も意味もないような
ただのその時もまた、貴重で大切という顕れそのものでした。
同時に、無心で無防備で、やはりただそれだけのことなのだけれど、
そういう自分が確かにそこに息づいていたことに
言葉にならない不思議な幸せを感じます。
体験は、かけがえのないという抽象的な何かに
こうして確かな実体を与えてくれるのですね。
そして、私にとっての「怖い」が紐解かれたことで、
こうしてふと巡り合える何気ない記憶に触れられることもまた、
魂の喜びなのだと実感しています。