これまでの自分の中で、最も嫌悪感を感じていた自分の要素があって、 

それは、「ぐずぐずする」ことでした。

だから、「急げ急げ」という観念を、長年もち続けているのでしょうね。

それが今、かさぶたが取れるように剥がれるときが来ているような

微かな兆候を感じてもいます。

 

「ぐずぐずする」自分って、

やんわりとしているようで、実はものすごく頑固なのです。

やんわりもなんだかおさまりどころの悪い気持ち悪さがあるし、

おまけに、それで頑固とかもう不一致極まりないんですよね。

自分でも「どうしたいん?」ってなる^^;

 

この不一致感のとてつもない大きさの中で、

要らない不純物(頑固のエネルギーが形化したもの。症状だったり問題だったり。)が溜まるのだと実感したことがあります。

そして、その不純物を躍起になって排除しようとしたり、

はたまた不純物を受容しようとしても、そういうことじゃないんですよね。

そもそも、土俵(量子の場)が違うのです。

 

あるとき、この「ぐずぐずした」曖昧なエネルギーの粒子自体が

実は「頑固」さという塊に寄り集まっていることに気が付いたことがあります。

別物ではなかったのですね!

曖昧さも頑固さも同じものだったのです。

曖昧さが気体だったりのようなものだったら、

頑固さはその固体のような状態というのでしょうか。

そう気が付いた時の驚きは本当に大きなものでした。

 

それにしても、曖昧というエネルギーが頑固という固い塊になるって、

すごいことだと思います。

怖いくらいですが。

それほどまでにして、この地球では、

エネルギーが「一個の存在(もの)」として形作られるのですね。

だけれど、それは本当に生きたい自分(世界)ですか?

ということでした。

 

 

(惣川の自然に触れて)

 

 

言うまでもないですが、曖昧さや混沌は、中庸とはまるで違うものです。

委ねなんていうものでもない。

中庸ほど、一つ一つの粒子(波形)の純度が高い量子場はないんですよね。

委ねはそこで自然に顕れてくる流れそのもので

自分のエゴが生み出すものではないんですね。

 

そして、このからくりを知ることは

それまでの自分みたいなものが全部崩れてしまうような

何より恐れている想像のつかない領域でした。

そして、実際に全て消失してしまう。

そう、不純物すらも。(症状だったり問題だったり。)

不純物だけが消失して、後はそのままなんていうことが

どれくらい不自然かということもまた言うまでもないけれど

実際にその量子場を生きていると、まことしやかにそう望むんですよね。

(これまでの自分の頑張りは何だったんだーとか

それらが全部無かったことになってしまうような気がして。)

 

しかし、

ある意味一度死ぬような、その量子場(自分)自体が消失するような体験は、

生きている間に味わうもの。

死という身体の消失と共に味わうことではない。

その(曖昧さから成る)「頑固」をなんとかせい! 

なんとかするというより、その固い殻を破って

本来の自分を生きろということだったのですね^^;

 

 

 

 

とりあえず、

「分からない」ものに対して それが今目の前に差し出されていることに対して 、

「分からない」からこそ、OKを出してみる。

今までの物差しで起こっている中に、制限や分離を感じるときにはなおさら、

今までの物差しではかれないものにOKを出してみればいいということだったのです。

 

分かりにくいときには

怖れからつい選んでしまうことには「NO」を出す勇気を。

怖れからつい選ばないようにしてしまうことには「YES」を出す勇気を。

 

そして!

喜びから選ぶことには、言うまでもなく「YES!」ですね!

そんなお手本(神)は、意識を向ければそこここにいてくれるもので

日々気づきを貰えるのもまた喜びです。