セッションで最も大切だなと思うことは、「体感」です。

そして、ゲシュタルト療法の空椅子のワークは、

その「体感」にダイレクトに繋がることができる技法だなということを

自らの体験も含めて、深く実感しています。

 

現に、セラピストと向き合って話しているときと

ワークの中で、椅子と向き合って話しているときでは

皆さん、あっという間に周波数が変わります。

 

椅子に座ると、自然に身体の反応に意識が向く...

自身(今ここ)に立ち還るというのでしょうか。

そして、自身が何をどんな風に感じているのか、如実に分かってくるのです。

それは、思考で考えている範疇をあっという間に超え、感情も流れの一助となりながら、表現になっていきます。(感情は本来、自分を知る一助であり、主(ぬし)ではないんですね。)

 

体験されている方は分かると思うのですが、

感じていることは、自然に表現になっていくんですよね。

むしろ、表現するなと言われても、

感じているものを何らかの形で表現しないでいることはおそらく出来ません。

なぜなら表現は、イコール生きていることそのものだからです。

 

そして、表現は生きていることそのものですから、

どう感じているのか分からない時も、表現は粛々と続きます。

そういう時は、身体が症状として表現し始めます。(過去の私のように)

または、善悪正偽を通して、外の世界(他人軸)の中で表現し始めるかもしれません。(これも過去の私です。)

どうあっても、生きよう(表現しよう)とするのですね。

 

症状を通して表現していく(生きていく)ことも愛おしい体験...

また外の世界も、どこまでジャッジしても呑み込んでくれる(ある意味では不毛な)優しい曖昧さがあります。

 

だけれど...

 

あるがままに感じて、感じるままに表現することは

「そこで気が付いてくる自分」を認めること...。

それは、全肯定であり、無条件の愛そのものです。

 

体感はその道を知っていて、あるがままに委ねることで、

自ずと快方向へと導いてくれます。

そして、分離した観念から発せられるエネルギーは、表現と共に浄化され、

本来の自分の表現が顕れ始めます。

 

どこまでも台本が要らない表現の世界...

 

それは、自身そのものだから、考えなくてもどうにかしようとしなくても、

尽きることなく、ただイシキを向けることで顕れ続けるのですね。

そして、それ自体がとても心地よい生命の営みなのですね。