物事の見方

パワハラ問題から考える①

最近、スポーツ界のパワハラ問題が噴出している。「面談したら脅された」、「改善するよう迫られた」。一方の当事者は、「まったくそういうことをしてない、したつもりもない」という。では、どちらか一方が虚偽の発言をしているのか?そうではないだろう。この問題は、その当事者の心の向け方とらえ方にあるのだ。

安倍総理を取り巻く、モリカケ問題もまったく同じ構図。与党や安倍さんを支持する人々は、「しっかり答弁している、立派だ」。野党やマスコミは、「まったく説明になっていない。ますます疑惑は深まった!」。

与党でもない、野党でもない第三者から見た、安倍さんの表情・態度・行動・発言は、支持者側からは同情や賛辞、反対者からは嘘つきよばわり。つまり物事を見る当事者の考え=フィルター=色眼鏡を通して見るのでこの交わることのない平行線が延々と続くのだ。簡単に言うと、青いカラーサングラスを掛けて世界を見ると、赤いリンゴも赤くない、世の中は青く見える。赤いカラーサングラスを通して世の中を見る者には、青い空は無い。世界はみな赤く見えるのだ。

パワハラ問題も、内面的に劣勢に立つ位置。すなわち子供や後輩や年下、部下、弟子などが、親、上司や先輩、師匠、先生など上位に立つ者の、表情・態度・行動・発言などに、圧力を感じたら、パワハラになる。もし、その関係に、長年の信頼や敬愛があれば、まったくパワハラにならなかっただろう。愛のムチとして、感謝さえ感じるだろう。貴乃花の辞職問題もおそらく同じだ。つまり、当事者の物事に対する心のとらえ方(カラーサングラスの色)によって、ひとつの同じ現象・出来事も全く正反対な結論を導き出すのだ。

それを、マスコミを始め、多くのコメンテーターはわかっていない。大半が、弱者の味方ぶって、パワハラされたほうを擁護する。「〇〇には、きちんと説明責任がある!」。ようやく記者会見したら、こぞって正義の味方ぶって詰問する。聖書にこういう逸話が記録されている。ある売春婦が、当時の刑罰である石打ちの刑に処せられるためにイエスの前にひきずり出された。イエスは言った。「自分は、この女を石打ちできるという資格のあると思う者から、石を投げつけなさい。」と。すると、いつのまにかそこには誰もいなくなった。

自分のことを棚に上げて、あれこれと詮索し、裁き、批判する資格は、今のマスコミやコメンテーターにあるのだろうか?まだ、先の逸話にある石を投げつけずに立ち去った者たちのほうがよほど正しいではないか。

別に私はパワハラした者を援護するわけではない。ただ、当事者同士が感じたその感じ方は、当事者しかわからない。周りからあれこれ詮索して、延々と結論の出ない問題に首を突っ込むなと言いたい。