寝入りの華 – first stage of sleep|意識のはざまに咲く真実

寝入りの華 – first stage of sleep|意識のはざまに咲く真実

幼い頃から臨死体験やUFOとの出会いが多く、今は宮崎で薬草を育てています。
この小さな場所が、どこかの誰かの「気づき」のきっかけになれば──
そう、心から願っています。

大災害の時、避難所に集まると、どうしても人間関係の問題が出てくる。
その一つが「準備していた人」と「何も準備していない人」の間に生まれるギャップだ。

たとえば、サバイバルキットや非常食を持ってきた人は、自分と家族を守るために当然のことをしただけなのに、
「みんな困ってるんだから分けろ」
「断るなんて冷たい、人でなしだ」
――そんな言葉を浴びせられることがある。

しかも日本は“同調圧力”が強い社会だ。
全員が同じように困っていないと許さない、そんな雰囲気になりやすい。
結果として、せっかく備えていた人が攻撃の対象になる。

さらに厄介なのは、支援物資の多くが「避難所単位」で配られること。
自宅で避難していても、登録していなければ配給を受けられないことがある。
つまり「避難所にいないと支援から外れる」リスクもあるわけだ。

ここで注意したいのは、避難所の中での“物事の決め方”だ。
調子のいい人の発言でどんどん話が進んでしまうこともあれば、
「みんなで決めよう」と多数決のようになることもある。
一見公平そうに見えるが、実はどちらも危うい。
なぜなら、両方に共通しているのは誰も責任を取らないという点だからだ。
非常時に本当に必要なのは、最適な判断を最短でできること。
その視点を持つだけでも、生死を分ける局面は確実にある。

じゃあ、どう立ち回ればいいのか?

まず大切なのは、備えを見せびらかさないこと。
大量の食料や物資を堂々と出すと、必ず「分けろ」という声が出てくる。
だから、表向きは配給を受ける列にも並ぶ。
「自分も同じように困っている」という姿勢を見せることで、余計な摩擦を減らせる。

次に、分けるときは“少しだけ”を意識すること。
完全に断れば角が立つが、ほんの少しなら「助け合っている」という形を作れる。
自分の備えを全部差し出す必要はない。
あくまで「一部を共有して、あとは見えないところで使う」くらいが現実的だ。

そしてもう一つ、避難所の仕組みに登録しておくこと。
たとえ自宅避難を選んでも、顔を出して名前だけは残しておけば、支援から完全に外れることは防げる。
「いざという時はここにいる」と最低限の接点を持っておくのが賢いやり方だ。

結局のところ、避難所では「正しく準備した人ほど損をする」構造がある。
だからこそ、準備そのものだけでなく、どう周囲に見せるか、どう立ち回るか、そしてどう決断するかまで考えておくことが、生き残るための現実的なサバイバルになる。

大東亜戦争から
戦後80年。
戦争には、負けましたが東南アジア諸国は、白人から植民地解放され独立する事が出来ました。


それと引き換えに
日本は、2重、3重属国の体制を80年継続され続けているのが現状です。

さて、
日本人なら誰もが歌える君が代。
残念ながら、
その歴史は、
学校では、習いません。

少しお伝え出来ればと思います。

ーー日本の国歌
「君が代」の
制定経緯ですーー

歌詞の出典
歌詞は平安時代初期(905年成立『古今和歌集』巻七・賀歌)に収録された和歌で、作者は不詳となっている。

「君が代は  
千代に八千代に  
さざれ石の  
巌となりて  
苔のむすまで」

曲の採用
1880年(明治13年)に宮内省雅楽課がドイツ人音楽家フランツ・エッケルトの編曲を基に現在の旋律を制定。以後、儀礼用の国歌として事実上用いられるようになりました。

法律による正式制定

26年前ーー。
1999年(平成11年)8月9日公布・施行の「国旗及び国歌に関する法律」により、正式に日本の国歌として法的に定められた。

事実上の国歌採用:1880年(明治13年)

法的な国歌制定:1999年(平成11年)8月9日

「君が代」の歌詞の原典は『古今和歌集』(905年成立)巻第七「賀歌」に収録された和歌で、現行歌詞と若干異なります。

古今和歌集 所収の原文(仮名序後)

「わが君は  
千代に八千代に  
さざれ石の  
巌となりて  
苔のむすまで」


違いのポイント

1. 冒頭

原典:わが君は

現行:君が代は
→ 「わが君は」は「私の主(君主)は」という意味。現行の「君が代は」は対象をより一般化している。
 

2. 仮名遣い

原典は平安時代の仮名遣いで表記。現行歌詞は近代以降の表記に準拠。

3. 内容

意味は同じで、「あなたの御代(治世)が千年、八千年と長く続き、細かな石が大きな岩となって苔がむすまで繁栄しますように」という祝意を示す賀歌。

そして、君が代には、続きが有ります。

以下、

君が代(戦前)
 

 

二番

君が代は
千尋の底の
さざれ石の
鰒(あわび)の貝の
生(な)るまで


三番

君が代は
千代ともささじ
天(あめ)の戸や
いづる月日の
かぎりなければ


四番

君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで
(一番の繰り返し)


補足

2番は「海の底で貝が成長するまで」という長寿の比喩。

3番は「天の門から月日が昇る限り」という永遠性の強調。

4番は一番の繰り返しで締める形が多かった。

これらは特に海軍や軍隊行事で演奏される際に好まれました。

以上。

戦後80年を迎え、
私たちは「見えない戦争」の時代に生きています。

武器は銃や爆弾ではなく、
情報、条約、そして特許によって管理されたウイルスや災害です。

事実、それぞれが、確実に私たちの生活を揺さぶっています。

私たちにできることは、多くはありません。
けれど、その「限られたこと」が、これからの未来を大きく左右します。

そして今、戦後80年の日本の命運と世界の命運は、
私たち一人ひとりの手に託されています。

決して難しく考えないでください。
私たちに託されたことは、ただ一つ——
 

真実に気付き、
繋がり行動する事です。

たった、
それだけです。

「お箸の持ち方は、単なるマナーではない」

 

お箸を持つという行為は、とても繊細な動作です。

誰でも無意識にできると思われがちですが、実際には正しく持てない人も多くいます。

その違いは、五感をおざなりにしているかどうかにも関わります。

 

食べることは、私たちが生きる根本です。

箸をまともに持てない人は、食べ物への感謝や、作ってくれた人への礼節に欠けていると見られがちです。

 

当たり前のことだと軽く考えず、毎日の食事を五感の訓練の場と捉えてください。

子どもなら、1日3回の食事が練習の機会になります。

 

指先の感覚は、全身に影響します。

何かに触れるとき、その感覚を研ぎ澄ますことは非常に大切です。

五感は、すべてがつながり、互いに影響し合っています。

その重要性は、いくら強調しても足りません。

 

さらに言えば――

子どもを育てる親や、人を治す治療家が、箸すら正しく持てないのでは、全く説得力がありません。

芸能人の中にも、箸の持ち方が不自然な人は、多く見られますが、日本人として最低限の躾の一つです。

 

箸の持ち方は、

その人の心と姿勢を映し出します。


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