大災害の時、避難所に集まると、どうしても人間関係の問題が出てくる。
その一つが「準備していた人」と「何も準備していない人」の間に生まれるギャップだ。
たとえば、サバイバルキットや非常食を持ってきた人は、自分と家族を守るために当然のことをしただけなのに、
「みんな困ってるんだから分けろ」
「断るなんて冷たい、人でなしだ」
――そんな言葉を浴びせられることがある。
しかも日本は“同調圧力”が強い社会だ。
全員が同じように困っていないと許さない、そんな雰囲気になりやすい。
結果として、せっかく備えていた人が攻撃の対象になる。
さらに厄介なのは、支援物資の多くが「避難所単位」で配られること。
自宅で避難していても、登録していなければ配給を受けられないことがある。
つまり「避難所にいないと支援から外れる」リスクもあるわけだ。
ここで注意したいのは、避難所の中での“物事の決め方”だ。
調子のいい人の発言でどんどん話が進んでしまうこともあれば、
「みんなで決めよう」と多数決のようになることもある。
一見公平そうに見えるが、実はどちらも危うい。
なぜなら、両方に共通しているのは誰も責任を取らないという点だからだ。
非常時に本当に必要なのは、最適な判断を最短でできること。
その視点を持つだけでも、生死を分ける局面は確実にある。
じゃあ、どう立ち回ればいいのか?
まず大切なのは、備えを見せびらかさないこと。
大量の食料や物資を堂々と出すと、必ず「分けろ」という声が出てくる。
だから、表向きは配給を受ける列にも並ぶ。
「自分も同じように困っている」という姿勢を見せることで、余計な摩擦を減らせる。
次に、分けるときは“少しだけ”を意識すること。
完全に断れば角が立つが、ほんの少しなら「助け合っている」という形を作れる。
自分の備えを全部差し出す必要はない。
あくまで「一部を共有して、あとは見えないところで使う」くらいが現実的だ。
そしてもう一つ、避難所の仕組みに登録しておくこと。
たとえ自宅避難を選んでも、顔を出して名前だけは残しておけば、支援から完全に外れることは防げる。
「いざという時はここにいる」と最低限の接点を持っておくのが賢いやり方だ。
結局のところ、避難所では「正しく準備した人ほど損をする」構造がある。
だからこそ、準備そのものだけでなく、どう周囲に見せるか、どう立ち回るか、そしてどう決断するかまで考えておくことが、生き残るための現実的なサバイバルになる。
大東亜戦争から
戦後80年。
戦争には、負けましたが東南アジア諸国は、白人から植民地解放され独立する事が出来ました。
それと引き換えに
日本は、2重、3重属国の体制を80年継続され続けているのが現状です。
さて、
日本人なら誰もが歌える君が代。
残念ながら、
その歴史は、
学校では、習いません。
少しお伝え出来ればと思います。
ーー日本の国歌
「君が代」の
制定経緯ですーー
■歌詞の出典
歌詞は平安時代初期(905年成立『古今和歌集』巻七・賀歌)に収録された和歌で、作者は不詳となっている。
「君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで」
■曲の採用
1880年(明治13年)に宮内省雅楽課がドイツ人音楽家フランツ・エッケルトの編曲を基に現在の旋律を制定。以後、儀礼用の国歌として事実上用いられるようになりました。
■法律による正式制定
26年前ーー。
1999年(平成11年)8月9日公布・施行の「国旗及び国歌に関する法律」により、正式に日本の国歌として法的に定められた。
■事実上の国歌採用:1880年(明治13年)
■法的な国歌制定:1999年(平成11年)8月9日
「君が代」の歌詞の原典は『古今和歌集』(905年成立)巻第七「賀歌」に収録された和歌で、現行歌詞と若干異なります。
■古今和歌集 所収の原文(仮名序後)
「わが君は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで」
■違いのポイント
1. 冒頭
原典:わが君は
現行:君が代は
→ 「わが君は」は「私の主(君主)は」という意味。現行の「君が代は」は対象をより一般化している。
2. 仮名遣い
原典は平安時代の仮名遣いで表記。現行歌詞は近代以降の表記に準拠。
3. 内容
意味は同じで、「あなたの御代(治世)が千年、八千年と長く続き、細かな石が大きな岩となって苔がむすまで繁栄しますように」という祝意を示す賀歌。
そして、君が代には、続きが有ります。
以下、
君が代(戦前)
二番
君が代は
千尋の底の
さざれ石の
鰒(あわび)の貝の
生(な)るまで
三番
君が代は
千代ともささじ
天(あめ)の戸や
いづる月日の
かぎりなければ
四番
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌となりて
苔のむすまで
(一番の繰り返し)
■補足
2番は「海の底で貝が成長するまで」という長寿の比喩。
3番は「天の門から月日が昇る限り」という永遠性の強調。
4番は一番の繰り返しで締める形が多かった。
これらは特に海軍や軍隊行事で演奏される際に好まれました。
以上。
戦後80年を迎え、
私たちは「見えない戦争」の時代に生きています。
武器は銃や爆弾ではなく、
情報、条約、そして特許によって管理されたウイルスや災害です。
事実、それぞれが、確実に私たちの生活を揺さぶっています。
私たちにできることは、多くはありません。
けれど、その「限られたこと」が、これからの未来を大きく左右します。
そして今、戦後80年の日本の命運と世界の命運は、
私たち一人ひとりの手に託されています。
決して難しく考えないでください。
私たちに託されたことは、ただ一つ——
真実に気付き、
繋がり行動する事です。
たった、
それだけです。
「お箸の持ち方は、単なるマナーではない」
お箸を持つという行為は、とても繊細な動作です。
誰でも無意識にできると思われがちですが、実際には正しく持てない人も多くいます。
その違いは、五感をおざなりにしているかどうかにも関わります。
食べることは、私たちが生きる根本です。
箸をまともに持てない人は、食べ物への感謝や、作ってくれた人への礼節に欠けていると見られがちです。
当たり前のことだと軽く考えず、毎日の食事を五感の訓練の場と捉えてください。
子どもなら、1日3回の食事が練習の機会になります。
指先の感覚は、全身に影響します。
何かに触れるとき、その感覚を研ぎ澄ますことは非常に大切です。
五感は、すべてがつながり、互いに影響し合っています。
その重要性は、いくら強調しても足りません。
さらに言えば――
子どもを育てる親や、人を治す治療家が、箸すら正しく持てないのでは、全く説得力がありません。
芸能人の中にも、箸の持ち方が不自然な人は、多く見られますが、日本人として最低限の躾の一つです。
箸の持ち方は、
その人の心と姿勢を映し出します。


